神学研究(神学・論文&教義学)

神学・論文 012

2020年6月24日改訂

タケサトズオ

恩寵義認と無条件救済論

​​付 注7 エクレシア(教会)とは何か

 

聖書学001高橋三郎〖洗礼・聖餐の起源と福音

* * * *

人が〔神の前に〕義とされる(=救われる)のは、律法の行い(=自らの行いの正しさ、業績)によるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。

(ガラテヤ信徒への手紙 2:6 聖書協会共同訳、2018年。( )、〔 〕内、下線は補足)

* * *

1. 《恩寵義認》-恵みのみによる救い

人は、何によって救済(すくい)にあずかるのか。

自分の善行、宗教的な修養によって救いを獲得するのか(行為義認)。それとも、神への「敬虔な信仰」によってか。

人が救われるは人間の側の努力・修養(宗教的な悟りや功徳・功績、洗礼・聖餐等の礼典への参与)としての「信仰」によるのではない。

人はキリストの恩寵(おんちょう)-十字架の真実という圧倒的、絶対的な恵み-によって、救われる(神の前に義(ぎ)とされる)。

また、その恩寵を信じ、受け入れる信仰さえも、神の恵みとして人に与えられる。

​つまり、絶対他力(たりき)による救いである(注1)

これが、恩寵(恵みのみによる救い-《恩寵義認》-の意味するものである

2. 《信仰義認》から《恩寵義認》へ

無教会の先達たちは、「人は、信仰のみによって救われる」との信仰義認論》の徹底を旗印(はたじるし)に戦った(ルターの《宗教改革》の徹底としての、第二の宗教改革)。

そして、「教会組織への加入や聖礼典(サクラメント)への参与は、救いに必要ではない」として、《キリストの福音》を制度教会の枠の外、広い世界に向かって開放した

信仰義認》と《恩寵義認》は、同一の救いの出来事を二つの面から言い表したものである。

つまり、信仰義認》は救済の消息を人間の側から、その信仰に着目して表現したものであり、《恩寵義認》は神・キリストの側から、その恩寵に着目して表現したものである。

(ルター研究所所長・江口再起「宗教改革500年 マルティン・ルター 人生の時の時」参照)

ところが信仰義認》という表現は、人間の《信仰》の側に比重を置くことにより、歴史上、重大な問題を生んだ。

ルターの宗教改革以来、プロテスタント諸教会は《信仰義認論》を中心的な教義(ドグマ)としてきた。しかし制度教会は長らく、この《信仰義認》を誤解してきたのではないか。


ルター以後、多くの制度教会は《信仰義認》の命題を逆転させて、「神に義とされる(救われる)ためには人間の側の正しい信仰が必要である」と誤解し、さらに「正しい信仰とは、正しい教義の体系を受容することである」と二重に誤解した、と考えられるからである。

その結果、プロテスタント諸教会は「正しい信仰」の基準として独自の《信条》や《信仰告白》を制定することに腐心し(「純粋な教理」の神学)、どの教義に力点を置くか、またニュアンスの相違によって互いに争い、分裂に分裂を重ね、無数の《教派》を形成してきた(注2)

このような歴史を直視するとき、われらは、内村鑑三が真のキリスト教に相応(ふさわ)しい新名称として、《十字架教》を提唱したことを思い起こす。

内村は言う。

キリスト教は元来、十字架の宗教である。・・

 

十字架は単に、キリスト教のシンボルではない。その中心である。キリスト教の全構造が拠(よ)って立つ、その隅(すみ)の親石である。・・・

まことに十字架が無ければ、キリスト教はない・・・

 

今やキリスト教でない多くのものが「キリスト教」として通用するこのときに際し、・・・われらは新しい名でキリスト教を呼びたい、との願望を抱(いだ)く。

そして私は、この願望に応じるために、十字架教という名を提唱する。・・(『聖書之研究』1921年1月の抜粋を現代語化。( )、〔 〕内は補足)

信仰義認論》の誤用の歴史を顧(かえり)みるとき、われらは内村に倣(なら)い、《信仰義認》に代えて《恩寵義認》という呼び名を提唱したい。

この《恩寵義認》という呼び名は、内村の《十字架教》に即応した呼び方でもある。

3. 十字架のイエスを仰ぐ

いかに努力しても不完全で、罪深い自分。浅薄、しかも深い動機において不純で自己中心。

 

「人は信仰のみによって救われる。善行は不要」(信仰義認)と説かれても、動揺してやまない自分の「信仰」。

たとえ他の人は救いにあずかることができても、自分だけは救われないのではないかとの疑念が襲う。無力感と絶望に飲み込まれそうになる。

闇の中を一人さ迷うとき、暗雲を貫く一条の光のごとく、イエス・キリストのことばが響く(注3)

労苦する者、重荷を負う者はすべて、わたしのもとに来たれ。

わたしはきみたちを休ませてあげよう。

(マタイ 11:28、杉山好訳・キルケゴール『キリスト教の修練』1963年、17項「招き」

そして聖霊は、われらの心耳(しんじ)語りかける。

救いはきみの業(わざ、立派な行い)によるのではない。きみの「信仰」によるのでさえない。

 

十字架のイエスを仰(あお)げ。

救いは、きみの外にある、ゴルゴダの丘の上、イエスの十字架にある

 

十字架上でイエスは世の罪を一身に背負い、血を流しながら、われらのために祈って下さった。「父よ、彼らを赦したまえ」と。

命をかけたイエスの祈りを​神は、しっかと受け止め、すべての罪人を赦して下さった。

イエスの十字架の真実(恩寵)によって、すべての人は、きみは、すっかり罪赦されている。神の側ではすでに、きみと和解しているのだ(注4)。

父なる神は、きみが帰り来るのを待ちわびておられる。今こそ、神に立ち帰れ(注5)。

4. 救いの客観性

救いは、神が与えて下さる恩寵の賜物(たまもの)であり、神の純粋な恵みである。われらの側の、何らかの資格や功績、業績によるものではない。「信仰」にさえ、よるのではない。

われらは、《イエスの十字架》に目を注ぐ。

イエスの十字架は、われらの外側、ゴルゴタの丘に立つ。十字架は、われらの《外なる義》、《外なる救い》。

十字架はわれらの主観-内なる動揺や心変わり-に全く左右されることなく、厳然として歴史の中に立つ

 

こうして十字架は、自分の業(わざ)、自分の内面を眺めるときには得がたい、救いの客観的な確実性をわれらに与える。

これは、いかなる嵐のときにも漂流から船を守る確かな錨(いかり)である。

そして、十字架に目を注ぐとき、われらは罪の重荷と自己への囚(とら)われから解放され、自由を与えられる。

われらの空虚な魂(たましい)天来の力で満たされる。伸び伸びとしたくつろぎ軽やかさを与えられる(注6)

ここから、全く新しい人生が始まる。

5. 福音としての無条件救済論

無教会においては、この《恩寵義認》は、洗礼・聖餐を救いの条件としない無条件の救済論に直結する。

無教会は明確に、恩寵義認に基(もと)づく《無条件救済論》に立つ。

そして無条件の救済論は、本当に喜ばしい《福音》としての《万人救済》を予想させる(注7)

 

一方、制度教会(プロテスタント諸教会)は、洗礼・聖餐式にあずかることを事実上、救いの条件とする「条件付き」救済論に立脚している(注8)

条件付き救済論は、《祭儀(さいぎ)宗教の残滓(ざんしを混じた救済論であり、純福音と呼ぶことはできない

6. 人間の序列化-《求道者》と《教会員》

条件付き救済論は、教会の儀礼(洗礼・聖餐を中心とするサクラメント)の受容程度に応じて、しばしば人を区分し、序列化し、ときに分断する。

 

制度教会においては、洗礼を受けていない者は《求道者》と呼ばれ、洗礼を受けた《教会員》(「救われた人間」)とは、明確に区別される。

 

求道者は、あくまでも「信者見習い」(「まだ、救われていない人間」)であって、洗礼を受けて初めて「一人前」と見なされる。

この「区別」は、容易に《差別》に転化する。

7. 「聖餐式」の排他性

実際、日本で最も大きいキリスト教団の規約(教憲・戒規)は、「聖餐は、バプテスマ(洗礼)を受けた信徒があずかるものとする」と定めている(準則第8条①、( )内は補足)。

 

この規定を盾に、この教団本部は各教会に対し実質的に、洗礼を受けていない《求道者》が聖餐にあずかることを禁止するとともに、これに従わない教職(牧師)は排除する方針をとっている。

 

確かに、教団本部の公式見解に反して、非受洗者の陪餐(ばいさん)を許可している各個教会も少数ある。

 

だが教団執行部は、未洗礼者への聖餐開放を公けにした牧師に対し、免職処分で応じている。

(2010年1月26日、当時、横浜市のK教会の牧師であった北村慈郎氏に対し「牧師職免職の戒規処分」が下された。新教コイノニア Vol. 31『戒規か対話か』新教出版社参照)

 

このように、制度教会の聖餐排他的、かつ閉鎖的な面があることは、否定しがたいであろう

8. イエスの開かれた食卓

聖餐式根拠は、イエスと弟子たちでもたれた《最後の晩餐》とされる(マルコ 14:22~25)。

背後に、また、その基層にある《イエスの共食(きょうしょく)》は、平等かつ平和で、無限の交わりの可能性に開かれたものであった。

(荒井献著『初期キリスト教の霊性』岩波書店、2009年、68項参照)

当時のユダヤ教社会で「汚(けが)れている者」と見なされた人々や、律法(神の戒め)や神殿儀礼を守らない・守れない《罪人》、《徴税人》、娼婦たちを、イエスは分け隔(へだ)てなく、ご自身の食卓へと招いた。(マルコ 2:15~17、マタイ 11:19)

 

イエスの共食》は《神の国の祝宴》の先取りであり、《神の国》の到来を表現する、行動によるメッセージだったのだ。

しかも、「イエスが最期にもった食事(最後の晩餐)は、元来、ユダヤ社会における普通の食事だった可能性が十分ある」。

(荒井献・前掲書71項。E・ブルンナーも同様の見解。( )内は補足)

9. 最初期の《聖餐》-愛餐の中にキリストを迎える

イエスの十字架・復活の後、「原始教会では、〔信徒たちの共同の食事である〕愛餐(あいさん)の中で〔、キリストの死と復活を記念する〕聖餐(パン裂き→食事→杯)が行われた。〔この時代には、愛餐と聖餐の明確な区別はなかった〕」。

(荒井・出村『総説 キリスト教史 1 原始・古代・中世篇』日本基督教団出版局、30~31項からの引用。〔 〕内は補足。コリントⅠ11:20~22参照)

以上の原始キリスト教史の研究成果を踏まえるならば、最初期の信徒たちの《聖餐》について、次のように再構成できるだろう。

 

信徒たちは、共同の食事》(愛餐)において、キリストの御霊(みたま)をお迎えして、《神の国の祝宴》の先取りにあずかりつつキリストの十字架と復活を記念し、《キリストの再臨》を待望していた。

そこでは、洗礼を受けていない者が排除されることはなかった(注9)

 

つまり、礼典(聖餐式)として儀式化する前の聖餐は、ささやかな、普通の食事による《愛餐》の中で、その一部として行われ、そこで信徒たちは《主の晩餐を記念した。

主の晩餐を想起しつつ、心からの感謝と讃美を神に捧げたのだ。

10. 結語イエスの問いかけ

神の国の祝宴》の先取りとしての開かれた《イエスの食卓》、そして非儀礼的な普通の食事による愛餐

(ひるがえ)って現代の聖餐に眼を転じるとき、イエスはそれをどうご覧になっているだろうか。

イエスは人々に《神の国の福音を説きつつ、同時に、旧約律法の外形的遵守(じゅんしゅ)に固執し《地の民》を排除した《パリサイ派》と激しく戦った。

また彼は全身全霊を傾けて、エルサレム神殿の《祭儀宗教》と戦った。

イエスはうわべで人を見ない。魂の奥底をご覧になる。

 

そのイエスが、儀礼外形的履行(りこう)の有無により、人を偏(かたよ)り見られるだろうか(ヨハネ 2:13~22参照)。

われらは《福音》の原点に立ち帰り、イエスの十字架の下に立つのか。それとも制度的統制の下に立つのか。

一人ひとりが、問われているのではないだろうか。

♢ ♢ ♢ ♢

(参考文献:新教コイノニア Vol. 31『戒規か対話か』新教出版社、2016年。荒井献著『初期キリスト教の霊性』岩波書店、2009年。荒井献、出村みや子、出村彰著『総説 キリスト教史 1 原始・古代・中世篇』日本基督教団出版局、2007年。〔 〕、( )内、《 》、下線は補足

注1 絶対他力による救い

内村一日一生2月4日宗教に2種類ある

他力とは:『大辞泉』の解説より

自分以外の者の力。自力(じりき)に対する言葉。

​②仏教用語。衆生(しゅじょう、人々)を悟りに導く仏・菩薩(ぼさつ)の、加護。特に、浄土門で、一切の衆生を救おうと発願(ほつがん)した阿弥陀仏(あみだぶつ)力のこと

注2 キリスト教史と教理的信仰・生命的信仰

神学・論文008黒崎幸吉の命的信仰

注3 彼方(かなた)からの光

詩歌042 リベラの【Far Away】クリックしてYou Tube

注4 キリストの十字架

詩歌017八木重吉十字架

注5 放蕩(ほうとう)息子の帰還

詩歌002八木重吉なんの疑いもなく

注6 天来の力に満たされる方法

近代の預言004三谷隆正現代教会の最大欠陥

注7 万人救済論

神学・論文009内村鑑三わが信仰の神髄

注8 エクレシア(教会)とは何か

-キリストの教えと制度教会の教会観-

制度教会の教会観

ほとんどの制度教会(プロテスタント諸教会)は、教会について「福音が純粋に教えられ、聖礼典が福音にしたがって正しく執行される所」と規定し、「聖礼典(洗礼、聖餐)を与えないものは、教会ではない」との立場を保持している

実際、徳善義和『アウグスブルク信仰告白の解説』(聖文舎、1979年)では、次のように解説している。

『福音を説教し、聖礼典を与える』のが教会の機能、働きの基本、中心にほかならない。

1530年のアウグスブルク信仰告白 第7条に従えば、〕教会はこれらを行うところと言われるし、これをするかどうか、これを純粋に、行うかどうかが、教会であるかないかのしるし(標識)にさえなる。

 

福音を宣教しないもの、その福音にふさわしく聖礼典〔洗礼、聖餐〕を与えないものは外見がどれほどすばらしく、人間的な理念や活動がどれほどすばらしくても、教会ではないと知らなければなるまい

徳善義和『アウグスブルク信仰告白の解説』聖文舎、1979年、70項「七、教会を教会たらしめるもの(第7条)」より引用。( )、〔 〕内の補足、下線は引用者による)

 

以上のように、説教と聖礼典(儀礼)施行を「教会の標識」であると主張する、制度教会の教会観は、16世紀のルター派の信仰告白(アウグスブルク信仰告白)に由来するものである。

 

この伝統的教会観は、聖書、とりわけイエスに遡源(そげん)するものではない

イエスの言葉、パウロの教え

以下、イエスの言葉から学び、パウロの教えによって理解を深めたい。

イエス・キリストの言葉

「『ふたりまたは三人が、わたし〔イエス〕の名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである』(マタイ18:20)。そこに教会ある」。

(K・バルト『教義学要綱』新教出版社、1993年、177項より引用。原著1947、〔 〕内、下線は補足)

エクレシア(教会)本質は、このイエスの短い言葉(マタイ 18:20)に道破(どうは)され尽くしている。

イエスよれば、エクレシアは、生けるイエスを囲み、イエスを中心とする信徒の交わりである。

歴史的事実としてイエスは、洗礼と聖餐が教会(エクレシア)の「指標」であるとは、一言も述べていない。

無教会入門001内村鑑三真の教会(エクレシア)

パウロの教え

私たちは数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人ひとりが部分なのです」(ローマ書 12:5)

体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれたのと同じです」(エペソ書 4:4以下)

あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です(コリントⅠ 12:27)

愛をもって真理を語り、(かしら)であるキリストへとあらゆる点で成長していくのです。

キリストによって、体全体は、支えとなるすべての節々でつなぎ合わされ、一つに結び合わされて、それぞれの部分は分に応じて働いて、体を成長させ、愛の内に造り上げられてゆくのです(エペソ書 4:15、16)

E・ブルンナーは、その著『ロマ書』(1948年)において、パウロが教える教会(エクレシア)の概念について、次のように説明している。

教会(エクレシア)、信徒の交わり〔であり〕、それはまさに信徒自体である。・・

(使徒パウロ)、教会(エクレシア)の概念を〔、現代教会のように〕『制度』あるいは組織として、または制度的な団体等として考え〔てはい〕ない

パウロが言うように、〕教会(エクレシア)はキリストの体であり(ローマ書 12:5)、その肢(えだ)は信徒であり、それを結合する統一〔者〕は(エペソ書 4:4以下)、〔制度的規約などではなく、エクレシアの〕主であるキリストご自身である(コリントⅠ10:16、12:27)。

つまり、〕教会(エクレシア)とは、全く人格的な概念であり、もっぱら人格から成っているのである。・・

教会(エクレシア)キリストの中にあるがゆえに〔生命的・人格的、つまり霊的な〕統一体なのである。

〔そして、イエス・キリストは、個々の信徒を結合する〔唯一の〕統一〔者〕である〔。「制度」が統一者なのではない〕(エペソ書 4:15、16)。

同様に、聖霊は全体を統合する統一〔者〕であると言うことができる(コリントⅠ 12:4以下、エペソ書 4:4以下)。

さらには〔、神・キリストと信徒、また信徒同士を〕結合するものである。・・

このように、教会(エクレシア)は〔決して〕組織や制度ではない。教会は、〔生ける〕主キリストによって結ばれた信徒の交わり(人格的・霊的共同体)以外の何ものでもない。・・

したがって、〕教会(エクレシア)は、その宣べ伝える言葉(説教)またはその礼典から理解されるべきではない〔。

そうではなく、生けるキリストを中心に教会(エクレシア)は理解されるべきなのである〕。・・

16世紀のルターの〕宗教改革以来一般に行われてきた、〔アウグスブルク信仰告白 第7条による、〕「教会は神の言葉が正しく説かれ、聖礼典が正しく執行されるところにある」というその(教会の)本質に対する〔非人格的、機能主義的=律法主義的な〕定義は、異邦人の使徒であるパウロの全く考えていなかった〔ものである〕

(E.ブルンナー『ロマ書』新教出版社、1954年、260~261項「教会・信徒の交わり」抜粋。原著:Emil Brunner,Der Römerbrief(1948)、( )、〔 〕内、 》、下線は補足)

注7 初期カトリシズムの「新律法主義」

「〔歴史的には、2世紀の使徒教父文書である〕『十二使徒の教訓』(ディダケー)は、聖餐には洗礼を受けた者しかあずかってはならないという規定(9:5)をキリスト教文書で初めて記した」。

(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2002年、763項より引用。〔 〕内、下線は補足)

​「ディダケーでは、非洗礼者を「豚」呼ばわりしている。

これは、2世紀以後に成立する初期カトリシズムの、とりわけキリスト教『新律法主義』を反映した洗礼観である。・・」

(荒井献『初期キリスト教の霊性』岩波書店、2009年、73項より引用。下線は補足)

012-

© 信州聖書集会 All rights reserved.