
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2023年11月28日
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1
使徒行伝(ぎょうでん)第3章に、ペテロとヨハネの二人がエルサレム神殿に上(のぼ)った時、神殿の「美しの門」のほとりに座って物乞(ご)いをしていた生まれつき足の不自由な人を、ペテロが癒(いや)したという記事がある。
そして、この奇跡のため「民衆は皆非常に驚いて、ソロモンの回廊(かいろう)と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まってきた」とある。
そこで、ペテロは駆(か)け集まってきた群衆に告げて、まず、こう言った。
「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、私たちがまるで自分の能力(ちから)と信心(しんじん)によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか」と〔12節〕。
ここに記(しる)された奇跡(きせき)は、どういうものであったか。一体、奇跡とは、どんなものか。
それらは極(きわ)めて重大な問題ではあるが、今は、その問題には触れずにおこう。
ただ、ひと言付け加えておきたい。
我々の信仰生活に於(お)いて、我々の魂(たましい)の内に驚くべき大変革が行われるのを実験(現実経験)する時、〔そして、〕その大変革が人間の力を超絶(ちょうぜつ)し、また人間の想(おも)いを超絶していかに不思議であり、しかも極(きわ)めて現実〔そのもの〕である事を実感する時、いわゆる奇跡〔問題〕などは問題にもならない小(しょう)不思議であって、どうしてこればかりの不思議に躓(つまづ)いて疑惑の谷深く迷い込んだのかと、我ながら自分の浅はかさに驚き、いぶかるようになるだろう。
そして、結局、そうする以外に、奇跡問題を解決する鍵はない。
人知(じんち)がいかに浅はかであり、しかも神の知恵がいかに深いかを切実に知り、身にしみて実感した人のみが、奇跡問題を解決する資格のある人である。
2
この資格なしにこの問題を解決しようとする者は、要するに、人知によって万事(ばんじ)を解き明かすことができるとの自信を持つ自惚(うぬぼ)れ屋である。
そのような自惚れに囚(とら)われている限り、人は日常茶飯(さはん)の世相さえ把握することはできない。
あらゆる不思議を合理化〔すなわち、人知の枠内に収(おさ)めて、もっともらしく理由づけ〕して、すべてを説明し去ろうとする合理主義的(の)自惚れ屋には、人情の機微(きび)さえ掴(つか)めない。
まして、宇宙の神秘と神の全能(ぜんのう)について〔、掴めないの〕は当然である。
真(まこと)の知恵に至る第一歩は、既にソクラテスも教えたように、人知〔の限界〕についての謙遜(けんそん)である。奇跡問題といえども、この真理の例外ではない。
しかし、私が今ここで問題にしたく思うのは、奇跡それ自体ではなく、為(な)された奇跡についての群衆の感銘(かんめい)である。むしろ、人々の感銘の〔向かった〕方向である。
という意味は、〔群衆に対する〕ペテロの叱責(しっせき)の言葉で分かる。
彼は言う。
「私たちがまるで自分の能力(ちから)と信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか」と。
つまり、ペテロの行った奇跡に於(お)いて人々は、ペテロ自身の能力と信心(今日(こんにち)の、我々の言葉で言えば信仰)を見つめ、〔また、〕このような能力と信仰の所有者である人間ペテロを讃嘆(さんたん)するにとどまって、すべての背後に在(あ)って真に力の源(みなもと)である神を見ようとしないのである。
3
仮(かり)に、1928(昭和3)年の今日、この場所で、ペテロが為(な)したのと同じような驚くべき事が、ある篤信(とくしん)の人の信仰の業(わざ)として成し遂(と)げられたとしよう。
その場合、我々も昔のエルサレムの民たちと同様に、もっぱらその人を見つめ、その人の「能力(ちから)と信心」がこの大業(たいぎょう)を成し遂げたかのように考えて、嘆賞(たんしょう)するのではないだろうか。
キリスト者を自任する人々の内の〔、一体、〕幾人(いくにん)が、この場合に、この人を超えて、その背後にいる神を確実に認識し、真摯(しんし)に讃美(さんび)することができるだろうか。
しかし、あえて奇跡を想定するまでもない。〔実際、キリスト信者の間で〕いかにすべてに於いて、神よりも人の能力と信心が崇拝されていることか。
その最も顕著な歴史的実例は、古くからキリスト教会内に発達した聖徒礼賛(らいさん)である。
聖徒を尊敬することが悪いというのではない。聖徒にだけ見とれて、神を遠ざけるのを責めたいのである。
実際、我々が平生(へいぜい)見聞する礼拝(れいはい)に於いて、祈祷(きとう)会に於いて、また修養会、その他多くの「有益な集会」に於いて、いかに「信仰の人」の「能力(ちから)と信心」が説(と)き聞かされ、その「能力と信心」が諸々(もろもろ)の善事を成し遂げる原動力であるかのごとくに説かれていることか。
彼らにとって、「信仰の人」とは、このような能力と信心を持つ人のことである。したがって、〔彼らにとって、〕信仰とは、このような能力、または特技の一種である。
信仰が成長するとは、このような特技に熟達することである。〔つまり、〕自分自身が偉くなることである。〔自分の〕技量が上がることである。自分もまた、〔信仰的〕英雄の一人になることである。
だから彼らは、いじらしいまでに刻苦(こっく)勉励して、自分の信仰的技量に磨(みが)きをかけようとひたすら努力する。
そして、日夕(にっせき)、自分の心の内を省(かえり)みては、「どうも自分は、信仰が乏しくていけない」と言う。
4
しかし、そもそも、信仰とは、何を信じ仰(あお)ぐことなのか。
〔信仰とは、〕自分の技量を信ずることなのか。〔もちろん、そうではあるまい。〕そうでないなら、なぜ、自分の「能力と信心」の足らないことばかり、嘆くのか。
もし、信仰とは自分の能力(ちから)に信頼することを言うのでなければ、自分の能力が乏しくとも、それが〔一体、〕何か。
もし、信仰とは神を信じ、その全能を〔信頼をもって〕仰ぐという意味であるならば、神がおられ、神の力が全地を遍(あまね)く覆(おお)っていることを知る以上、我々自身の能力が乏しくとも、それが〔一体、〕何か。
神が全知かつ全能、しかも限りない愛であるのに、なぜ不足顔なのか。
なぜ、自分の内ばかり省みて、「弱い」の「乏しい」のと、朝から晩まで愚痴(ぐち)ばかりこぼすのか。神を礼拝すべき集会の廊(ろう)に来てまで、〔なぜ、〕自らについての愚痴ばかり並べるのか。
現代の教会に漲(みなぎ)る、この宗教的〔な〕泣言(なきごと)癖(ぐせ)に於いて、現代の信徒一般がいかに自力(じりき)主義的であって、また、人間注視(ちゅうし)的、神看過(みすごし)的であるかの顕著(けんちょ)な一証左(しょうさ)を見ることができると私は信ずる。
そして、ここにこそ、現代教会の無力さの最大、最深の原因があるに違いない。
信仰とは、神に信頼することである。自己を頼(たの)みとしないことである。人を仰がないことである。
雄偉(ゆうい)な業が成し遂げられるのを見る時、その業に人の「能力と信心」ばかり見ることをせず、もっぱら、神の聖意図(みこころ)をうかがおうとするのが信仰である。
それゆえ、我々自身に能力と信心が増し加えられ、その能力と信心によって我々自身が雄偉(ゆうい)な技量を発揮すること、そのことが信仰の祈り求めるものではない。
我々の能力〔が〕弱く、信心〔が〕浅くとも、我々〔の状態〕にかかわらず、神の愛は無限であって、神の知恵は深く、〔神の〕力は偉大であるがゆえに、我々自身の弱さなど問題にならないこと、そのことが信仰である。
それゆえ、信仰は不足を言わない。泣き言(ごと)をこぼさない。
我々の信〔ずる力〕が弱くとも、〔それが一体、〕何か。
我々の力が乏しくとも、〔それが一体、〕何か。
〔我々の〕失敗が〔一体、〕何か。
不振(ふしん)が〔一体、〕何か。
神がおられ、神が愛してくださる。その他(ほか)に、〔一体、〕何の不足がある〔というの〕か。
我々の惨(みじ)めさにもかかわらず、我々の希望は益々(ますます)輝き、我々の喜びは益々溢(あふ)れ、我々のものではない〔天来の〕力が、いずこからか訪れて、我々の空虚(くうきょ)な全身全霊を満たし、かつ溢れざるを得ない。
そして、これ以外に、我々に真の力が満ち溢れる方法はない。少なくとも、信仰はこれ以外の方法を知らない。
5
このことは、キリスト教的信仰のイロハ(初歩)である。このことが分からないで、どうして他(ほか)のことが分かるだろうか。
信仰に於いてさえ自己に執着し、自分の信力(しんりょく)を誇ろうと焦(あせ)る者に、どうして〔神の御子(みこ)・〕キリストの謙遜と捨て身が分かるだろうか。
しかし、実に悲しいことだが、現代のキリスト教会内に於いては、この信仰のイロハが殆(ほとん)ど忘れ去られている。
それゆえ、そこ(教会内)では、自分の弱さに執着(しゅうちゃく)した嘆息(たんそく)が、耳を聾(ろう)するばかりに聞こえる。
しかし、〔神を〕信じ、〔神に〕信頼して、喜びと希望に溢れる歌声は響かない。うなだれて「偽善者のように陰気な顔つき」(マタイ福音書 6:16)は随所(ずいしょ)に見ることができるが、歓喜に満ち、希望に満ち溢れた顔の輝きを見ることは少ない。
私は、そこに現代キリスト教会の極(きわ)めて深刻な欠陥を認めざるを得ない。
信仰は、自分の「能力(ちから)と信心」に頼らないことを意味する。単純に、徹底的に、神の能力とその限りない愛にのみ信頼することを意味する。
だが、なぜ、多くの人は自己の状態ばかり眺(なが)め暮らして、救い主(ぬし)〔キリストと〕神を仰がないのか。
もし、現代教会が、自他における人間凝視(ぎょうし)を断固やめるのでなければ、現代の教会は〔たとえ〕何にまで成長しようとも、決して、キリストの心を〔自らの〕心とする一体にまでは成長できない〔だろう〕。
〔そればかりか、〕信仰のイロハさえ解しない教会は、全く世俗化して政治的な団体に成り終わるか、あるいは、微力な変質団体として、いつの間にか、その煮(に)え切らない存在を人々の目の前からかき消すことだろう。
(終わり)
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(三谷隆正「現代教会の最大欠陥」『問題の所在』一粒社、1929〔昭和4〕年を現代語化。〔 〕、( )内は補足)
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