信仰入門

無教会入門 001

2015年8月 8日改訂

内村鑑三

教会論

エクレシア

【真の教会】

 

 

ある意味では、確かに〕教会はあります。〔しかし、別の意味では、真(まこと)の〕教会はありません。したがって〔ある意味では、教会の外に立つ〕無教会信徒などという者はあってはなりません。〔しかし、〕また〔別の意味では、真の教会を追求する無教会信徒は〕無くてはなりません。

 

ある意味では、確かに〕キリストは教会を建ててくださったとも言えます。〔しかし、〕また〔別の意味では、キリストは、いわゆる〕教会は建てておられないとも言えます。〔ですから、いきおい〕私たちは、教会の真偽(しんぎ)を判別する必要があります。


いわゆる教会〔、すなわち〕、監督、長老〔、執事の聖職位階制〕があり、〔さらに〕神学者、教会法、信仰箇条(かじょう)があり、一種の政府または政党のような〔法制度化した〕教会。

また、〕教勢拡大を策し、自分たちの信仰を社会の世論と成(な)し〔自己の影響力を拡大し〕て人々を救済するのだと唱(とな)える〔、勢力団体としての〕教会。


確かに、〕それ〔ら〕は、「教会」と呼ばれてはいるけれども、キリストが建ててくださった〔真の〕教会ではありません。私たちは、このような教会に対して、公然、無教会主義を唱えます。


しかしながら〔私たちが唱えるまでもなく、すでに〕、キリストは〔このような「教会」とは〕別に、ご自身の教会を建ててくださいました。

 

キリストは言われました、「わたしの名のために(によって)、二人、または三人が集まる所には、わたしもその中にいるのである」と(マタイ福音書18:20)。


これが、キリストが建ててくださる真の教会〔-エクレシア〕であります。その中心〔に臨在されるの〕は、〔主なる〕キリストです。そして彼の周囲に集う者は、彼の名によって彼の聖旨(みむね)を実行しようと願〔い、御足(みあし)の跡(あと)に従〕う信徒です。

 


二人、または三人」と言っても、必ず少数でなければならないという意味ではありません。二人でも良い、ということです。

ただ、一人であってはならないのです。確かに、信徒は一人ではあり得ないのです。彼は必ず、同志を求めます。また、神は必ず、ご自身の霊〔-聖霊(せいれい)-〕を多数の人の上に注がれます。神は、人が相互に愛し、相(あい)結ばれて、〔キリストにある愛の共同体として、〕ご自身を礼拝することを求めておられます。それゆえ、「二人、または三人」と言われたのだと思います。

 

このように、〔真の〕教会は最も単純なものです。同時に最も深い、また聖(きよ)い関係によって成るもの〔、つまり生成のできごと〕です。

神によって呼び出された〕二人以上の真の信徒がイエス・キリストの名によって交わるところに、真の教会〔-エクレシア〕があります。そこには社会的勢力なるものはありませんが、〔生ける〕キリストがその内に〔現臨して〕おられます。

 

 〔このように、キリストにある兄弟姉妹の愛の交わり-霊的・人格的共同体としてのエクレシア-は、呼び集められた者たちの不完全さにもかかわらず、なお〕美しく、聖い集団であります。〔それは、〕まことに地上の天国です。


私は、このような教会がわが国の至る所に生起することを望みます。〔そして実は、〕初代教会はすべて、このようなものでした。

 

プリスカとアキラの家は、教会でした(ローマ16:3~5)。〔また、〕「ニンファと彼女の家にある教会の人々によろしく伝えてください」(コロサイ書4:15)とありまして、ここにもまた、一般信徒の家に教会〔つまり家の教会 注1〕があったのです。フィレモンの家もまた、教会であったのです(フィレモン書2節)。

 

このように、初代教会の時代には、今日の、いわゆる「教会」はありませんでした。

教会堂」あるいは「聖堂」が相次いで建立(こんりゅう)されるようになったのは、ローマでコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認した紀元313年より後のことです。注2

 


このようなわけですから、〔神に示されて〕教会を作るのに、〔人間である教会〕監督の許可をもらって献堂(けんどう)式を執行する必要はありません。

 

二人以上の真の信徒のいる所には、〔どこであれ、〕そこに〔キリストの体としての〕教会があり得るのです〔ローマ書12:5〕。そうです、すでに〔教会は〕あるのです。


歴史的には、信仰箇条、礼典・サクラメント、教会法、聖職者、組織を備えた〕いわゆる公教会なるもの〔、つまり制度教会〕は、〔帝政ローマ期に〕キリスト教がローマ人の手に渡ってから、できたものであります(注3)

 

ローマ法に代表されるように、〕ローマ人〔の目〕には、公的〔、つまり客観的施設があり、法的・制度的なもの〕でないものは価値が無かったのです。そして、その〔法制度的=非人格的〕思考〔様式の深く刻まれた教会主義的キリスト教〕が〔、広く〕欧米に伝わって、今日に至ったのです。


 しかしながら、このことに関して私たちは、欧米人のマネをする必要はまったくありません。

 

私たちは、直ちにイエス様〔のもと〕に〔立ち〕帰り、信徒が互いを愛し相結んで その数は何人でも、何百人でも、何千人でもイエス様を私たちの間にお迎えして、そこに真の教会を建てていただくべきであります。 

 

♢ ♢ ♢ ♢

原著:内村鑑三「真個の教会」1921年11月を現代語化。〔 〕、( )内は補足)

 

 

 注1 家の教会(初代教会)

「教会〔という訳語〕の〔原語である〕ギリシャ語 (エクレーシア:εκκλησια)は、〔もともと、招集された集まりや会合を意味する。初代教会〔すなわち家の教会〕は、祈り、讃美し、聖書を朗読し、愛餐(あいさん)を分かち合うために集まった。」 

(参考文献:『聖書 スタディ版 改訂版 新共同訳』日本聖書協会、2014年) 

 

 

注2 

参考文献:荒井献「Ⅰ宣教と救済」『初期キリスト教の霊性』岩波書店、2009年、p42。W.バークレー「εκκλησια」『新約聖書のギリシャ語』日本キリスト教団出版局、2009年、p72。

 

注3

参考文献:E.ブルンナー「エクレシアから教会への発展」『ブルンナー著作集 第4巻 教義学Ⅲ・上』教文館、1998年、p86~104。E.ブルンナー『教会の誤解』待晨堂、1955年。

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