
イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
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最終更新日:2025年8月19日
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詩歌 017
2025年5月28日改訂
八木重吉
〖十字架〗
関連リンク Related Links ☆
☆詩歌 十字架の道〖ヴィア・ドロローサ Via Dolorosa〗へ
☆キリスト教入門〖 歴史的事実としてのイエスの生涯 / The Life of Jesus as Historical Fact〗へ
音楽の祈り
■英語讃美
黒人霊歌 Were you there(君もそこにいたのか)(注1)
☆The Roger Wagner Chorale「 Were you there」YouTubeへ
☆「Were You There by Selah」(映像付き)YouTubeへ
☆Sandi Patty「Via Dolorosa(ビア・ドロローサ、悲しみの道)」YouTubeへ
■日本語讃美
* * *

キリストの十字架
* * *
十 字 架
八木重吉
十字架は悔(く)いへのくさびである
罪ふかくして悔いを完(まっと)うし得(え)ぬ者へのめぐみである
何人(なんぴと)でも仰(あお)ぎさえすれば救わるるという約束である
キリストを見し者が信じたる福音(ふくいん)である
♢ ♢ ♢ ♢
(八木重吉『神を呼ぼう』新教出版社、1961年)
注1 十字架の立つところ
聖書に学ぶ008溝口正〖最終的に十字架はどこに立てられるか〗注3へ
注2 歴史的事実としてのイエスの生涯と十字架
☆キリスト教入門〖 歴史的事実としてのイエスの生涯 / The Life of Jesus as Historical Fact〗へ
注3 十字架の叫び
新聖歌120番「十字架より叫び聞こゆ」:クリックしてYouTubeへ
曲:フィンランド讃美歌
日本語歌詞:奥山正夫
歌 :菅原 早樹(さき)
ピアノ:岸本 むねなり
バイオリン:西村 えいこ
歌詞
1.
十字架より叫び聞こゆ、「彼らを赦し給(たま)え」と
神の御子(みこ)苦しみを受け、世の罪を負(お)い給(たも)う
ゲッセマネの暗き夜の その祈り君(きみ)知るや
ゴルゴタの丘の上の 苦しみは誰(た)がためぞ
2.
十字架より叫び聞こゆ、「すべての事(こと)了(お)わりぬ」と
神の御子血を流して、世の罪をきよめ給う
木の上に釘(くぎ)打たれし その痛み君知るや
ゴルゴタの丘の上の 苦しみは誰がためぞ
ゲッセマネの暗き夜の その祈り君知るや
ゴルゴタの丘の上の 苦しみは誰(た)がためぞ
現代語訳
〔十字架から叫びが聞こえる〕
1.
十字架から〔イエスの祈りの〕叫びが聞こえる、
「〔父よ、私を十字架に付ける〕彼ら〔の罪〕をお赦しください」と。
神の御子〔イエス〕は苦しみを受け、世の罪を〔背〕負われる。
ゲッセマネの〔園の〕暗き夜の 彼の祈りを君は知っているか。
ゴルゴタの丘の上の 苦しみは誰のためか。
2.
十字架から叫び〔声〕が聞こえる、「すべて完了(おわ)った」と。
神の御子は〔自ら〕血を流して、世の罪をきよめられる。
〔十字架の〕木の上に釘(くぎ)打たれた その痛みを君は知っているか。
ゴルゴタの丘の上の 苦しみは誰のためか。
ゲッセマネの暗き夜の その祈りを君は知っているか。
ゴルゴタの丘の上の 苦しみは誰のためか。
* * *
☆ ゴルゴタの丘の苦しみは、われらの(あたなの)ため。
罪無き《神の御子》イエスは、ゴルゴタの丘、十字架上で世の罪を一身に背負われた。
☆ 十字架上でイエスは絶叫された、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と(マルコ 15:34、詩編 22:2)。
彼は深き淵(ふち)の底にまで降(くだ)り、完全な孤独とこの上ない苦悶(くもん)、神無き死を嘗(な)め尽くされた。
その中にあってもイエスは、父なる神に向かって「わが神、わが神」と呼ぶことをやめなかった(☆詩歌064讃美歌〖まぶねの中に〗注3 キリストの十字架へ)。
☆ なぜ、イエスは《十字架の道》を選ばれたのか。
それは御子イエスがわれら《罪人》(つみびと)と同じ地平にまで降(お)り、われらの問題をすべてご自身の問題として引き受けうけるため。
そのことにより、真(まこと)の友としてわれらの傍(かたわ)らに立つため。
そして、われらをあらゆる孤独と苦悩、死と絶望から救い出し、すべてのものを父なる神のもとに立ち帰らせるため。
☆ またイエスは、十字架の苦しみの中から、文字通り生命(いのち)をかけて、われらの《罪の赦し》を神に祈ってくださった(ルカ 23:34)。
彼の祈りは聞き届けられ、われらのすべての罪は赦された。彼の聖(きよ)き血潮(ちしお)によって、われらのすべての罪は洗い浄(きよ)められた。
イエスの十字架により、神と人との間を遮(さえぎ)る最大の障壁(しょうへき)- 罪 -は、取り除かれた(注4)。
イエスは私の罪のために(pro me)死なれた。そして、救い主として私の《主》となられた。
われらは《赦された罪人*》として、幼子(おさなご)のごとく、父なる神の懐(ふところ)に飛び込むであろう(*M・ルター「罪人にして、同時に義人」)。
☆ そればかりか神は、十字架の真実のゆえに、イエスを不朽(ふきゅう)の生命(いのち)へと《復活》させた。
イエスは、十字架の贖罪愛(しょくざいあい)と御自身の命(復活の生命)をわれらに注ぎ(分け与え)、死すべきわれらを生かす。
そして復活のイエスは今、《聖霊》(せいれい)として常に、われらと共にいて、日々、われらを支え、護(まも)り、導く(注5)。
今やわれらの生は、神への感謝と報恩(ほうおん)の生となった。
注4 恩寵義認(ぎにん):イエスの恩寵(贖罪愛)による救い
人は、キリストの恩寵(おんちょう)-十字架の真実という圧倒的、絶対的な恵み-によって、救われる(神の前に義とされる)。
その恩寵を信じ、受け入れる信仰さえも、神の恵みとして人に与えられる。
そこから、全く新しい人生が始まる。
「人が〔神の前に〕義とされる(=救われる)のは、律法の行い(=自らの行いの正しさ、業績)によるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。」
(ガラテヤ信徒への手紙 2:16 聖書協会共同訳。前田護郞訳『新約聖書』教文館、2009年参照。( )、〔 〕内、下線は補足)
注4 十字架を仰ぎつつ、イエスの御足の跡に従う
讃美歌第Ⅱ編182番「丘の上に十字架たつ」クリックしてYou Tubeへ
注5 支えとなる聖歌
注6 付論
無教会の無条件救済論と制度教会の条件付き救済論
☆ 人が救われるは、《十字架の真実(贖罪愛)》という神の側の絶対的な恩寵(おんちょう、恵み)のみによるのであって、人間の側の努力や修養(宗教的な功徳・功績、洗礼・聖餐等の礼典への参与を含む)としての「信仰」によるのではない(恩寵義認論)。
そして、《恩寵義認》は、洗礼・聖餐(礼典)にあずかることを救いの条件としない、無条件の救済論と深い所でつながっている。
無教会は明確に、《恩寵義認》にもとづく無条件救済論に立つ。
また、《恩寵義認》にもどづく無条件救済論は、《万人救済》を予想させる。
一方、制度教会(プロテスタント諸教会)の救済論は、事実上、礼典(サクラメント)への参与を救いの条件とする「条件付き」の救済論である。
無条件救済論と「条件付き」救済論とでは、それぞれの意味するもの、またもたらす結果は、天と地ほどに異なる。
神学・論文012サカマキ〖恩寵義認と無教会の無条件救済論〗へ