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キリストの十字架

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十 字 架

八木重吉

 

十字架は悔(く)いへのくさびである


罪ふかくして悔いを完(まっと)うし得(え)ぬ者へのめぐみである


何人(なんぴと)でも仰(あお)ぎさえすれば救わるるという約束である

 

キリストを見し者が信じたる福音(ふくいん)である


♢ ♢ ♢ ♢

(八木重吉『神を呼ぼう』新教出版社、1961年)​​​

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注1 十字架の立つところ

聖書に学ぶ008溝口正〖最終的に十字架はどこに立てられるか〗注3へ

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注2 歴史的事実としてのイエスの生涯と十字架

☆キリスト教入門〖 歴史的事実としてのイエスの生涯 / The Life of Jesus as Historical Fact〗へ

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注3 十字架の叫び
新聖歌120番「十字架より叫び聞こゆ」:クリックしてYouTubeへ

曲:フィンランド讃美歌

日本語歌詞:奥山正夫

 歌 :菅原 早樹(さき)

ピアノ:岸本 むねなり

バイオリン:西村 えいこ

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十字架より叫び聞こゆ

歌詞
1.
十字架より叫び聞こゆ、「彼らを赦し給(たま)え」と


神の御子(みこ)苦しみを受け、世の罪を負(お)い給(たも)う


ゲッセマネの暗き夜の  その祈り君(きみ)知るや


ゴルゴタの丘の上の  苦しみは誰(た)がためぞ 

2.
十字架より叫び聞こゆ、「すべての事(こと)了(お)わりぬ」と


神の御子血を流して、世の罪をきよめ給う


木の上に釘(くぎ)打たれし  その痛み君知るや


ゴルゴタの丘の上の  苦しみは誰がためぞ 

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ゲッセマネの暗き夜の  その祈り君知るや

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ゴルゴタの丘の上の  苦しみは誰(た)がためぞ 

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現代語訳

〔十字架から叫びが聞こえる〕

1.
十字架から〔イエスの祈りの〕叫びが聞こえる、

「〔父よ、私を十字架に付ける〕彼ら〔の罪〕をお赦しください」と。


神の御子〔イエス〕は苦しみを受け、世の罪を〔背〕負われる。


ゲッセマネの〔園の〕暗き夜の 彼の祈りを君は知っているか。


ゴルゴタの丘の上の 苦しみは誰のためか。

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2.
十字架から叫び〔声〕が聞こえる、「すべて完了(おわ)った」と。


神の御子は〔自ら〕血を流して、世の罪をきよめられる。


〔十字架の〕木の上に釘(くぎ)打たれた その痛みを君は知っているか。


ゴルゴタの丘の上の 苦しみは誰のためか。

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​

ゲッセマネの暗き夜の その祈りを君は知っているか。

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ゴルゴタの丘の上の 苦しみは誰のためか。

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☆ ゴルゴタの丘の苦しみは、われらの(あたなの)ため。

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罪無き《神の御子》イエスは、ゴルゴタの丘、十字架上で世の罪を一身に背負われた。

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☆ 十字架上でイエスは絶叫された、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と(マルコ 15:34、詩編  22:2)。

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彼は深き淵(ふち)の底にまで降(くだ)り、完全な孤独とこの上ない苦悶(くもん)、神無き死を嘗(な)め尽くされた。

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その中にあってもイエスは、父なる神に向かって「わが神、わが神」と呼ぶことをやめなかった(☆詩歌064讃美歌〖まぶねの中に〗注3 キリストの十字架へ)。

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☆ なぜ、イエスは《十字架の道》を選ばれたのか。

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それは御子イエスがわれら《罪人》(つみびと)と同じ地平にまで降(お)り、われらの問題をすべてご自身の問題として引き受けうけるため。

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そのことにより、真(まこと)の友としてわれらの傍(かたわ)らに立つため。

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そして、われらをあらゆる孤独と苦悩、死と絶望から救い出し、すべてのものを父なる神のもとに立ち帰らせるため。

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☆ またイエスは、十字架の苦しみの中から、文字通り生命(いのち)をかけて、われらの《罪の赦し》を神に祈ってくださった(ルカ 23:34)。

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彼の祈りは聞き届けられ、われらのすべての罪は赦された。彼の聖(きよ)き血潮(ちしお)によって、われらのすべての罪は洗い浄(きよ)められた。

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イエスの十字架により、神と人との間を遮(さえぎ)る最大の障壁(しょうへき)- 罪 -は、取り除かれた(注4)。

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イエスは私の罪のために(pro me)死なれた。そして、救い主として私の《主》となられた。

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われらは《赦された罪人*》として、幼子(おさなご)のごとく、父なる神の懐(ふところ)に飛び込むであろう(*M・ルター「罪人にして、同時に義人」)。

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☆ そればかりか神は、十字架の真実のゆえに、イエスを不朽(ふきゅう)の生命(いのち)へと《復活》させた。

 

イエスは、十字架の贖罪愛(しょくざいあい)と御自身の命(復活の生命)をわれらに注ぎ(分け与え)、死すべきわれらを生かす。

 

そして復活のイエスは今、《聖霊》(せいれい)として常に、われらと共にいて、日々、われらを支え、護(まも)り、導く(注5)。

 

今やわれらの生は、神への感謝と報恩(ほうおん)の生となった。

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注4 恩寵義認(ぎにん):イエスの恩寵(贖罪愛)による救い

人は、キリストの恩寵(おんちょう)-十字架の真実という圧倒的、絶対的な恵み-によって、救われる(神の前に義とされる)。

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その恩寵を信じ、受け入れる信仰さえも、神の恵みとして人に与えられる。​

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​​そこから、全く新しい人生が始まる。

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「人が〔神の前に〕義とされる(=救われる)のは、律法の行い(=自らの行いの正しさ、業績)によるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。」

(ガラテヤ信徒への手紙 2:16 聖書協会共同訳。前田護郞訳『新約聖書』教文館、2009年参照。( )、〔 〕内、下線は補足)

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注4 十字架を仰ぎつつ、イエスの御足の跡に従う

讃美歌第Ⅱ編182番「丘の上に十字架たつ」クリックしてYou Tubeへ

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近代の預言005矢内原忠雄〖帝大聖書研究会終講の辞〗へ

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注5 支えとなる聖歌

詩歌040〖 恐れないで 〗へ

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注6 付論

無教会の無条件救済論と制度教会の条件付き救済論

☆ 人が救われるは、《十字架の真実(贖罪愛)》という神の側の絶対的な恩寵(おんちょう、恵み)のみによるのであって、人間の側の努力や修養(宗教的な功徳・功績、洗礼・聖餐等の礼典への参与を含む)としての「信仰」によるのではない(恩寵義認論)。

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そして、《恩寵義認》は、洗礼・聖餐(礼典)にあずかることを救いの条件としない、無条件の救済論と深い所でつながっている。

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無教会は明確に、《恩寵義認》にもとづく無条件救済論に立つ。

また、《恩寵義認》にもどづく無条件救済論は、《万人救済》を予想させる。

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一方、制度教会(プロテスタント諸教会)の救済論は、事実上、礼典(サクラメント)への参与を救いの条件とする「条件付き」の救済論である。

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無条件救済論と「条件付き」救済論とでは、それぞれの意味するもの、またもたらす結果は、天と地ほどに異なる。

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神学・論文012サカマキ〖恩寵義認と無教会の無条件救済論〗​へ

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