イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
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最終更新日:2024年12月7日
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< 神学研究(神学・論文&教義学)
神学・論文 009
2024年4月30日改訂
原著:内村鑑三
現代語化:さかまき・たかお
万人救済論(注1)
〖 わが信仰の真髄 〗
-人類の普遍的救済 注2-
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* * * *
これは最近、電車の中で、ある友人に語ったものである。
1
〔1-①〕
わが信仰の真髄は、「神は愛である」ということである。そしてこの前提から〔の帰結と〕して、「神は、キリストによって世を救ってくださった」ということである。
そして、神が世を救ってくださったということは、私一人を救ってくださったということではない。
また神を信じる少数の信徒を救ってくださったということでもない。また勿論、いわゆるキリスト教会を救ってくださったということでもない。
「神が世を救ってくださった」ということは、この世全体を救ってくださったということである。すなわち人類全体を救ってくださったということである。
神を信じる者も信じない者も、キリストの名を聞いたことのある者も聞いたことのない者も、善人も、悪人も、すべての人という人をことごとくキリストにあって救ってくださったということである。
〔1-②〕
私にとっては、これ以下のものは福音(救いの喜ばしい音ずれ)ではない。
私はまた、宇宙万物の創造主である父なる神に、これ以下の愛を帰すことはできない。
私は「神は愛である」と信じて、少なくとも神についてこれだけのことは信じざるを得ない。
私にとっては、人類全体を救ってくださらない神は、〔たとえその呼び名が〕神であって〔も、真の〕神ではない。
〔神は、あくまでも〕神であって、人ではない〔。神と人間との間には、無限の質的差異がある。キルケゴール〕。父の父〔、真(まこと)の父〕である
神は、人が神を愛するまで〔の間〕、御自分の愛を隠しておかれるはずがない。
神は人が神を知らないうちに、実に、神を憎みつつあるときに、真にすでに、人を救ってくださったに違いない。
神の愛(アガペーの愛)とは、このような〔絶対的かつ無条件的な〕ものであるに違いない。
これ以下の愛は、人〔と同レベル〕の〔相対的かつ有限な〕愛であって、神の愛ではない。
2
〔2-①〕
そして私は、聖書はこのような普遍的救済〔、つまり万物の復興と万人(ばんにん)の救済〕を教える書物であると信じる(注3~5)。
「見よ、〔彼イエスこそ、〕世の罪を取り除く神の小羊〔キリスト:救世主〕」と〔聖書に〕ある。(ヨハネ福音書 1:29)
単に「私の」罪ではない。また、「あなたの」罪ではない。あるいは〔選民〕「イスラエルの」罪ではない。世の〔すべての〕罪を取り除く神の小羊〔キリスト〕である。
神は、キリストの上に全人類の罪を置かれたのである。
〔2-②〕
キリストは人類の頭(かしら)である。その代表者である。
そして神はキリストを十字架に付け〔ることにより〕、〔全〕人類の罪を罰(処分)したのである。
そしてまた、神は〔キリストの十字架の真実(贖罪愛)のゆえに〕彼を死から甦らせ、彼を受け人れ〔ることによっ〕て人類〔全体〕を受け人れてくださったのである。
キリストの一生は、人類の代表(キリストはすべての人間の代理である。ボンヘッファー、注6)としての生涯である。
人類はキリストにあって罰を受け、彼にあって〔罪〕赦され、彼にあって〔死と滅びから〕復活し、彼にあって〔神の〕光栄(さかえ)を与えられたのである(注7)。
〔2-③〕
キリストは善(よ)き大祭司として、人類全体を担(にな)って神の聖所(せいじょ)に入ったのである。
彼の肩の上には、中国人もいた。朝鮮人もいた。インド人もいた。キリスト信徒いた。仏教信徒もいた。イスラム教信徒もいた。無神論者もいた。〔実に、人類の始祖〕アダムの子〔孫〕はすべていた。
過去の人も、現在の人も、未来の人もすべて、この善き羊飼い〔キリスト〕の肩の上に置かれた。そして、キリストは彼らすべてを担って神の前に出て、そこで彼らの聖潔(きよめ)と赦しと光栄とを与えられた。
3
〔3-①〕
それならば〔、福音〕伝道は何のため〔にするの〕か、と人は私に問うだろう。
確かに、私は人を救うために伝道に従事しない。これは、私には絶対にできないことである。
私は未だかつて、ただの一人も救ったことはない。
〔また〕たとえ、〔私に〕救うことができたとしても、世界の人口は15億余り〔現在の人口は約76億人〕であって、その中の千人や万人を救ったところで、その他〔の者たち〕はどうなるのか。
私は、その人たちが滅び行くのを見て、耐えられるだろうか。
もし、人類の救済がわれわれ少数の伝道者の尽力によるもの〔とする〕ならば、人類を救済することは絶望的な努力である〔としか言いようがない〕。
私は、私のすべての祖先と十数億の同胞とを残して、ただ少数の信徒〔のみ〕と一緒に天国に行くことは耐えられない。「そのような場合には、私は、世の最大多数〔の人々〕と永遠の運命を共にしたいと願う。」
私は、わずかに百人や千人の人〔だけ〕を救い得て、他〔の人々〕はすべて永遠の死〔滅〕にゆだねなければならないような、そんな絶望的な仕事に〔は〕従事したくない。
〔3-②〕
それならば、何のための伝道か。
確かに、〔それは〕「伝道」ではない。福音の宣(の)べ伝えである。
主の《ヨベルの年》〔、すなわち解放と安息の喜び〕の到来を告知することである(レビ記25章)。平和の言葉を宣べ〔伝え〕、また良き知らせを宣べ〔伝え〕ることである(ローマ書10:15)。
〔神から離反している〕罪人(つみびと)に向かって私は、「神は怒っておられる。だから、自分の罪を悔い改めて、神〔のもと〕に立ち帰れ」とは言わない。
私はパウロに倣(なら)って言う。
「神はキリストにあって世を御自分と和解させてくださった。それゆえ、わたしはキリストに代わって、あなたがたにお願いする。神の和解を受け入れなさい」と。(コリントⅡ5:19以下)
神の側にあっては、和解は既に済んでいるのである。
それゆえ私は、この和解に応じるように、罪人に〔向かって〕勧めるのである。すでに救われている者に、〔改めて〕その救い〔の事実〕を承認させようとするのである。
〔これは、〕本当に容易(たやす)い、本当に楽しい、本当に喜ばしい仕事である。
4
〔4-①〕
しかし、〔ある人たちは〕言うだろう。
「もし、すべての人がすでに救われているとすれば、それを彼らに知らせる必要はない。またもし知らせるなら、彼らは〔罪に安住して、〕罪を悔い改めない〔だろう〕」と。
私は、そうは信じない。
〔すべての人に及ぶ、〕神の普遍的な愛(アガペー)! どうして私は、このことを人に知らせずにいられるだろうか。
「キリストの愛が私を捕らえて離さない」とパウロは言っているが、実にその通りである。(コリントⅡ 5:14)
福音宣教は、義務ではない。〔それは〕熱情(パッション)である。
〔福音宣教は〕詩作または芸術〔活動〕に類することであって、神の愛を知った者には、せずにはいられないことである。
〔4-②〕
人間のすべての思いをはるかに超えた《神の愛》。これを人に知らせずにいられるだろうか。
私がもし神の愛を知らなければ、それまでのこと。しかしながら神の愛を知った以上は、これを人に知らせることが私の生命(いのち)である。
天来のインスピレーションが私に臨(のぞ)む時、私はこれを詩に表さずにはいられない。
それと同じように、神の愛を知ったとき、私はこれを〔巷(ちまた)に〕叫び、また〔文章に〕書き綴(つづ)らざるをえない。
福音宣教は〔キリスト信者の〕「義務」であると言い、また「教会の事業」である〔今年度の目標受洗者数○名、目標献金額○円!〕などと言う者は、共に神の愛を語るに足りない(注8)。
5
〔5-①〕
また、「『すべての人は、すでにその罪を赦されている』と聞かされると、罪人は自分の罪を悔い改めなくなる」というのは、はたして事実だろうか。
はたして罪人は、神の忿怒(いかり)〔の声〕を聞いて、恐怖のあまり自分の罪を悔い改めるのだろうか。
私は、そうは思わない。
少なくとも、私の実験(実際の経験)はその正反対である。私自身は、神の忿怒〔の声〕を聞いて、〔恐怖に〕震えながら悔い改めたのではない。
忿怒(いかり)は、人を絶望させるのでなければ、〔あるいは〕頑固(かたくな)にする〔。そのどちらかである〕。
〔つまり、〕忿怒によって罪はなくならない。愛だけが罪に打ち勝つことができる〔のである〕。
少なくとも、私自身の場合はそうであった。そして私は、すべての人の場合でも同じであると思う。
〔5-②〕
《悔い改め》は、羞恥(しゅうち)に始まるものである。
自分は〔その人を〕愛していない〔、気にもとめていなかった〕のに、〔その〕人が〔自らの命をかけて〕わたしを愛して〔くれて〕いると聞いて、私は〔魂を揺り動かされ〕、自らに恥(は)じ、自分の罪を悔(く)いて彼に赦しを乞(こ)うに至るのである。
人に対して〔すら〕、そうなのである。神に対しても、また同じである。
〔まさに〕私がキリストを十字架に付けつつあった〔その〕時に、神はそのキリストの、その十字架によって私〔の罪〕を赦してくださった〔のだ〕と聞いて、私は自らに恥じて〔、自らの罪深さに〕耐えられなくなるのである〔。そして、神に罪の赦しを乞うのである〕(注9)。
罪は、鉄槌(てっつい)によって砕くことはできない。しかし、愛によって罪を鎔(と)かすことができる。
神は、人の心の何たるかを良く知っておられる。
それゆえ神は、恐怖をもって人〔々〕に臨(のぞ)まれない。〔神は、〕無限の愛をもって彼ら〔の許〕を訪ね、彼らがなお神の敵であったときに〔黙って〕彼らの罪を贖(あが)ない、〔そのことによって〕彼らが神の愛に心動かされて自ら〔、罪〕を〔悔い〕改め、神のもとに帰るようにされるのである。
宇宙万物の創造主である父なる神は、このようにされないだろうか。
6
〔6-①〕
神は愛である〔ヨハネⅠ 4:8,16、ヨハネ Ⅰ4:9、ヨハネ 3:16参照〕。
神はキリストにあって、すでに人類全体を救ってくださった。救済は、真(まこと)に既成の御業(みわざ)である。
それゆえ、ハレルヤ(主をほめ讃えよ)である。
蛇の頭〔かしら、神と人との間の離間者・サタン〕は、女(エバ)の子孫〔であるキリスト〕によって、すでに砕かれたのである(創世記3:15)。
〔6-②〕
あとに残ったものは、ただわずかのこの世の苦痛である。
これを除けば、それで万事(ばんじ)は成就(じょうじゅ)するのである。
最も困難なことは、神がキリストにあって、すでに成し遂げてくださったのである。
人類の罪は、すでに〔神の前から〕除去されたのである。神と〔人類と〕の〔間の〕平和は、すでに実現したのである。
あとはただ、人が人との戦争を止(や)め、平和をこの地上に来たらせれば、それで万事は完成するのである。
〔6-③〕
そして、残りの小事業がわれわれに委(ゆだ)ねられたのである。
われらは、今から進んで〔、単身〕悪戦苦闘して敵を斃(たお)そうとするのではない。
敵の大将〔サタン〕は、われわれの手を借りることなくすでに、〔神によって〕斃されているのだから、〔なお、散発的に敵の激しい抵抗に遭遇(そうぐう)することがあったとしても、〕われらは〔勝利の確信と喜びによって〕楽戦しつつ、逃げる敗残(はいざん)の敵を追い尽くそうとするのである(注10)。
♢ ♢ ♢ ♢
(原著:「余の信仰の真髄」、『聖書之研究』111号、1909〔明治42〕年7月10日掲載を現代語化、なお原文の各種の傍点、傍◎・○等は、下線、太字、「 」等に変更した。段落番号、( )、〔 〕内は補足)
注1 万人救済説(ばんにんきゅうさいせつ)
万人救済説とは、すべての人の救いということ、「イエス・キリストにおいて実現される神の救いの意志が、ついには最後の罪人にまでいたる」という終末論的な待望〔と神への根源的信頼〕をあらわすもの。
新約聖書の典拠(てんきょ)としては、さまざまな箇所があげられる(→注3を参照)。
万人救済説は、予定説、とくに《二重予定》の教理と対照されて、つとに教理的な正当性を争われてきた。
それにもかかわらず、古代以来、今日まで、キリスト教史を通じて、さまざまの代弁者を見出してきた。
新約聖書には、釈義(しゃくぎ)的には、どちらの説にも関連するようにみえるテキストが含まれている。
こうした中で、おそらく日本で、もっともよく知られているのが内村鑑三の万人救済説ではないだろうか。
(参考文献:宮田光雄「万人救済説の系譜(けいふ)-オリゲネスからボンヘッファーまで-」『聖書の信仰 Ⅵ 解放の福音』岩波書店、1996年、278項、〔 〕内は補足)
注2 内村鑑三の信仰と精神のエッセンス
「『救済の希望』に収録された「戦場ケ原に友人と語る」と「余(よ)の信仰の真髄(わが信仰の真髄)」の二篇は、著者〔内村鑑三〕が万人救済説を信じる理由とその実際とを語ったものである。
内村は自分の贖罪(しょくざい)の信仰にもとづいて、この博(ひろ)い、あたたかい、しかし信じる〔の〕に困難な、〔既成の制度教会からは〕問題多い〔と非難される〕、万人救済説にシッカと立っていたのである。
すなわち〔内村は、〕もしこの〔万人救済〕説が誤っているとすれば〔罪人の頭(かしら)である〕自分は救われ〔得〕ない、〔しかし〕自分が救われている〔ことを実験している〕以上、この説は正しいはずであるとするのである。
内村は人道主義によってこの説に立つだけでなく、〔より本質的には、万人を救う〕キリストの十字架〔の贖(あがな)いに対する根源的信頼と揺るぎない確信〕のゆえに、この説に立って〔決して〕動かなかったのである。
内村の人と信仰と、伝道と事業とにみなぎりあふれる博さ、あたたかさ、情熱、魅力などはすべてここから生まれたのである。
贖罪の福音と、万人救済説と、キリスト再臨の信仰の三つは、内村のキリスト教という鼎(カナエ)の三脚である。
この二篇がさながら無韻(むいん)の詩のようなひびきを読む者に与えるのも、まことに当然である。
『救済の希望』はまことに小さな本ではあるが、読む者の歓喜と希望の泉となると共に、著者〔内村〕の信仰と精神の真髄中の真髄(エッセンス)を伝える最も重要な代表的著作として、〔末〕永(なが)く語り伝えられるであろう。」
(山本泰次郎編『内村鑑三信仰著作全集 5』教文館、1962年、「解説」246項より抜粋。一部表現を現代語化。( )、〔 〕内、下線は補足)
注3 万人救済説の系譜
ナチ・ドイツ研究等で知られる、宮田光雄氏(政治学・ヨーロッパ政治思想史専攻、東北大学名誉教授)は、「万人救済説の系譜(けいふ)」において、キルケゴール、ボンヘッファー、カール・バルトらと共に内村鑑三の万人救済説を取り上げ、以下のように述べている。
「罪人(つみびと)の頭(かしら)である私を救うことのできる愛は、いかなる罪人をも救い得てなお余りあるであろう。
私は、〔この〕私を救ってくださった神の愛をもってしても救うことのできない罪人の場合〔というもの〕を、考えることができない。
神が世〔の人々〕に先んじて私を救ってくださったのは、私に、すべての民に神の救済の約束(福音)を伝えさせるためであるに違いない。
私は、万人救済の希望を私自身の救済〔の事実〕の上に置く者である。」
(内村鑑三「万人救済の希望」、1902年の抜粋を現代語化。( )、〔 〕内、下線は補足)
「特に内村の場合には、いわば自分の深い贖罪(しょくざい)体験から、神の恵みに対する朗々(ろうろう)たる感謝と讃美の告白として、万人が救われるという希望(待望)の表明につながっていると言うべきでしょう。
この内村における罪認識、贖罪体験が、彼の万人救済説の原体験=原点にあるのではないでしょうか。」
(参考文献:前掲宮田「万人救済説の系譜」『聖書の信仰 Ⅵ 解放の福音』、282項より引用。( )内、下線は補足)
注4 内村鑑三における万人救済説
渡部和隆氏(京都大学大学院文学研究科)は、論文「内村鑑三における予定説理解と万人救済説」(『アジア・キリスト教・多元性』第10号、2012年、以下「渡部論文」と呼ぶ)において、内村鑑三の予定説理解について分析、考察している。
以下、渡部論文より、内村の万人救済説を学ぶ上で重要と思われる部分を抜粋して、紹介したい。
*「〔内村鑑三の万人救済説理解の〕鍵となるのは『神の恩恵』『神の愛』である。
救いは人間の側の行為によるのではなく、あくまでも神の恩恵による。
『罪人の首(かしら)』である自己に自分自身を救済(きゅうさい)する力はない。
救済は神の力によるのであり、神の恩恵が先行していなければならない。・・救済における主体はあくまでも神なのである。
内村の『恩恵のみ』の立場は時に、
『私は私〔自ら〕が好んで救われたのではない。
私は私の意〔志〕に逆らって救われたのである(中略)私は神に余儀なくされて神の救済にあずかった者である。
それゆえ、私は自分が救われたことについて何ら誇る所のない者である』(内村鑑三全集 第11巻 p437)と言う形で徹底的に表現される。・・・
キリストの十字架上の贖罪(しょくざい)の死は、一部の人間しか救い得ないようなものではなく、全人類の罪を贖(あがな)い得るものとされる。・・・
神の側では万人救済の準備はイエスの十字架において完全になされ、あとは人間がそれを受け容(い)れるか否かだけが問題とされる。
かくして、神の恩恵の先行性と確実性とは保証され、『罪人の首』である内村自身の救済が保証される。
内村自身〔が罪と格闘する中で得た贖罪信仰〕の救済体験(実験)における自己の無力さと神の恩恵の偉大さ〔と愛〕との実感が論理的概念の媒介(ばいかい)を経て徹底化された結果(論理的に徹底して表現されたもの)が〔内村の〕万人救済説なのである。・・・
〔内村の万人救済説は〕神の恩恵の先行性が徹底して表現されたものである。
ゆえに、万人救済説は〔内村にとって単なる願望ではなく、〕神の恩恵の徹底した先行の内で内村自身の救済を基礎づけるものであり、
『救済は今や既成の事実なのである。私はすでに救われているのである。
ただ私は、このことを認められずに日々、苦悶(くもん)に沈みつつあるのである。
起きよ、わが霊〔よ〕。
すでに救われている〔この〕世に生まれ来て〔いるのに〕、お前が救われまいと願っても〔、それは〕不可能なことなのだ』(全集 第16巻 p408)とまで内村は言う。
〔内村の〕万人救済説は、『神は愛である。神はキリストにあってすでに人類全体を救ってくださった。救済は真(まこと)に既成の御業(みわざ)である。
ゆえにハレルヤ(神を讃美せよ!)である』(全集 第16巻 p424)とあるように、神の恩恵によって罪を赦されたキリスト者内村鑑三が放つ神讃美の『ハレルヤ』コーラスなのである。」(渡部論文:1.「二重予定説」と万人救済説、 p96)。
*「・・注目すべきことは、〔内村の万人救済説は〕万人救済が歴史的な時間軸の中におかれ、終末論的な時間構造の中にあることである。・・・
『人の救済は今世(こんせ)で終わらない。来世(らいせ)において継続される。救済は永遠にわたる神の御事業である』(全集 第19巻 p336、詩編 139:7~10参照)
個人の救済も、万人救済と同様に、終末論的な時間構造によってその完成が保証されている〔。
つまり、《キリストの再臨》によって《神の国》が完成する時に、個人と万人の救済も神の恩恵によって完成される〕。
将来において実現する救済を保証するものは『神の恩恵の約束』なのである。・・
ここから推定されるのは、救済を約束した神に対する〔内村の〕絶大な信頼であろう。実際、そのような神に対する信頼を〔内村の〕万人救済説や個人の救済に関して見て取ることができる。・・
内村個人の救済の希望も全人類の救済の希望も、これを将来(歴史の終末=キリストの再臨)において実現すべき事柄として神が約束したということ、さらにはその神の約束を信じる(信頼する)ということの上に成り立っているのである。
キリスト者とはこの神の約束を胸にし、神と目的を共有しているものだとされる。
『われら、召されて神の子とされた者は、神のこの心をわれらの心とし、万民救済のためにわれらの身を委(ゆだ)ねるべきである』(全集 第19巻 p343)
キリスト者は万人を救おうとする神の『聖旨(みこころ)』を自己のものとしなければならない。『ここに伝道の必要が起こるのである』(同上 p344)と内村は言う。」(渡部論文:3.神の約束、p100~104)。
*「・・〔自己の〕救いを他者のためとし、自己が救われたのは自己の救いを通して他者が救われるためであったと解釈するならば、両者(少数救済説と万人救済説)の関係は目的と手段の関係になる。
〔つまり、〕万人救済が目的であり、少数救済はその手段として位置づけられるのである。
その際、注意すべきことは、この〔少数救済は万人救済に至るための手段であるという〕予定説理解においては、歴史的な時間、とくに終末論的な時間構造が存在していることである。
救済は、個人の救済であれ、全人類の救済であれ、目的として将来(歴史の終末)に置かれ、現在(歴史の進行)はそこに至る過程であるとされる。
それ(個人と全人類の救済)を実現するのが『キリストの再臨』である。この将来〔における救済の完成〕を保証するものが『神の恩恵の約束』であり、『神の愛』であった。
内村が〔贖罪の〕『実験』によって把握していた実在とは、救済という『神の恩恵の約束』であり、万人救済を最終的にもたらそうとしている『神の愛』であったと言えよう。
だから、内村は『人類の救済は〔すべての人の〕父〔である神〕の事業である。
われらもまた、この事業をわれらの事業となさざるを得ない』と、神の『聖旨』である万人救済を目指して働くべしと断言することができたのである。」(渡部論文:4.結語、p104)
(渡部和隆「内村鑑三における予定説理解と万人救済説について」、現代キリスト教思想研究会『アジア・キリスト教・多元性』第10号、2012年、91~110項、京都大学学術情報リポジトリより抜粋。なお、論文中の内村の引用文は現代語化した。( )、〔 〕内、下線および太字は引用者による)
*なお、このページを閲覧された方は、渡部論文の論旨を正確に把握するため、ぜひ原著をお読みくださるよう希望いたします(以下のリンクにより閲覧可能です)。
渡部和隆【内村鑑三における予定説理解と万人救済説について】クリックして京都大学学術情報リポジトリへ
注5 すべての人の救い(万人救済)を告げる聖句
「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。」(ヨハネ福音書 12:32、イエス・キリストのことば)
パウロの万人救済の希望:
「すべての人を救う神の恵みが現れた。」(テトス 2:11 口語訳)
「〔神は、〕その〔キリストの〕十字架の血によって平和を造り、
地にあるものも
天にあるものも
万物を御子〔みこ、キリスト〕によってご自分と和解させてくださったのです。」(コロサイ 1:20)
「神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたのです。」(ローマ書 11:32)
「〔始祖〕アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです。」(コリントⅠ 15:22)
「一人(アダム)の過(あやま)ちによってすべての人が罪に定められたように、一人(キリスト)の正しい行為によって、すべての人が義とされて(=救われて)命を得ることになったのです。」(ローマ 5:18 、( )、〔 〕内、下線は補足)
注6 父の愛の物語
ルカ福音書 15章11~24節を参照。
注7 代理(ドイツ語:Stellvertretung)
「《代理》とは、たとえば父親が、子供たちのために労働する・心を配る・代弁者として戦う・苦しむといった行為によって彼らの代わりに行動する、というようなことである。
〔そのようにして、父親は、ほんとうに子供たちの代理となるのである。〕
人間は孤立した個人としてでなく、多くの人の《私》(das Ich)を自らの内に〔一つに〕統合して生きている。
だから、責任的に生きようとするならば、どうしても《代理》が起こらざるを得ない。
そしてこのことは、〔人間のために神の前に代理となられた〕イエス=キリストの生〔と死〕において最も深く示された。
『イエスは自己のうちに、すべての人間の《私》(das Ich)を受け入れ、担(にな)われる方として生活された。
彼の生涯、行動、〔十字架を含む〕苦難の全体は、〔すべての人間の〕代理である。人間が生き、行動し、苦しむはずのことは、彼において〔すでに〕成就(じょうじゅ)している。
彼の人間的実存を形造っているこの真実の代理的行為において、彼は、端的に責任を負う方であられる』(ボンヘッファー『倫理』より)。
『イエスは-生命そのもの・われわれの生命であるイエスは-、人となった神の子としてわれわれの代理として生きた。
それゆえにすべての人間的生は、彼によって本質的に代理された生である』(同『倫理』)。」
(村上伸『人と思想 ボンヘッファー』清水書院、1991年、84項「同時代人としてのボンヘッファー」、宮田光雄『ボンヘッファーとその時代』新教出版社、2007年、201~202項「《責任倫理》を生きる代理」より引用。( )、〔 〕内、下線は補足)
注8 《キリストの救済》を自己の管理下に独占した制度教会の歴史
南小倉バプテスト教会の「信仰告白」
注9 十字架の真実
注10 キリストの王としての支配