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神学研究(神学・論文&教義学)

神学・論文 010

2019年3月21日改訂

溝口 正

最終的に十字架の立つところ

「また見ていると、大きな白い御座(みざ)があり、そこに在(いま)す方があった。

天も地も〔神の〕御顔(みかお)の前から逃げ去って、跡形(あとかた)もなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。

かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これは命の書であった。

 

死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、裁(さば)かれた。海はその中にいる死人を出し、そして、各々(おのおの)そのしわざに応じて、裁きを受けた。

それから、死も陰府(よみ)も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。この命の書に名が記(しる)されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

(ヨハネの黙示録 20:11~15)

1

〔1-①〕

これは、最後の審判について書かれたものである。


内容はすべて恐ろしいが、特に「死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、裁かれた」(20:12後半)とある言葉は、私を恐怖に落し入れる。

 

しわざ、すなわち、〔生前のすべての〕行い〔が正しかったかどうか〕によって〔容赦なく〕裁かれ、判決が下(くだ)されるとしたら、私などは(ひと)たまりもなく有罪である。

この判決に耐え得る人が、人類の中に果(はた)して一人でもいるであろうか、と私は怪(あや)しむ。

 

しかも「この命の書に名が記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた」(20:20)とある。

命の書には、有罪の判決を受けた人の名が記されていないとすれば、火の池に投げ込まれずに済む人は、果して何人いるであろうか。

この裁きは、最後の審判であるから、人間には後(あと)がないのであり、絶体絶命である。もはや、火の池に投げ込まれる以外に道は残されていない。

そんな思いに私の心は、果しなく暗くなるのであった。

そのような恐怖の支配する暗黒の中で、私は、しきりに主の十字架を思った。否(いな)、思うだけでなく、十字架につけられしキリストを仰(あお)がずには、一(いっ)ときもいることができなかった。

〔1-②〕
そのとき、私の心に不思議な思いが湧
(わ)いた。

それは、すべての人間に最終的判決の下る瞬間の出来事である。

この瞬間こそ、キリストの十字架が、その〔最後の審判の〕法廷の真〔ん〕中に立てられるのではなかろうかと。

キリストが裁き主(ぬし)であると同時に、救い主であるとは、このことではあるまいかと。

最後の審判の法廷で、当然、火の池に投げ込まるべき絶体絶命の罪人(つみびと)に対してこそ、十字架の上から〔贖い主〕キリストは「子よ、心安(やす)かれ、汝(なんじ)の罪赦されたり(子よ、安心せよ。あなたの罪は赦された)」と告げたもうのではなかろうか。

これこそ、すべての人を救う正真正銘(しょうしんしょうめい)《十字架の福音》ではなかろうか(注1)


そういう虫のいい願いが、私の心に湧いたのである。

〔1-③〕
生前、のん気に唯物
(ゆいぶつ)無神論をとなえていた人、欲望のままに快楽をむさぼり罪を犯し続けた人などが、最後の審判の法廷に立たされ、最後の判決が下る寸前、火の池を眼下にのぞみつつあるとき、法廷の真〔ん〕中にキリストの十字架が立てられ「汝の罪赦されたり」と宣言が発せられたとすれば、いかなる大罪人(だいざいにん)も「われ信ず、信仰なきわれを救いたまえ(信じます。信仰なき私をお救い下さい)」と叫び出すのではないであろうか。

(いな)クリスチャンと自認する人々でさえ、この場に臨(のぞ)んで初めて、本物の信仰告白を迫(せま)られるのではないであろうか。

 

そして、ノンクリスチャンであった人々と同じように「われ信ず、信仰なきわれを救いたまえ」と叫んで、最終的に罪の赦(ゆる)しを主から受領(じゅりょう)することになるのではなかろうか。

 

神のひとり子キリストの赦しに、全面的にすがる以外に人間の救われる道のないことが、明々白々になるのは、最後の法廷であろうから・・・。

〔1-④〕
しかし〔ヨハネ〕黙示
(もくし)録には、命の書に名の記されている人は永遠の救いにあずかるが、名の記されていない人は、第二の死(永遠の死)、すなわち、火の池に投げ込まれると明記している。

これは神の義(ぎ)の要求である。

それ故、すべての人間は、この裁きの宣告の前に、心の襟(えり)を正して自分の生き方を、命がけで反省し悔〔い〕改めなければならない。

 

最も善い生き方は、若き日に造(つく)り主(ぬし)〔、神〕を覚え、肉体の死(第一の死)の訪れる前までに、悔〔い〕改めてキリストを信じ、救いの約束を受け入れ、感謝と希望の生涯を生きることである。

2

〔2-①〕
では、信仰を持つことのできないまま死んで行く圧倒的多数の人々はどうなるであろうか。

最後の審判によって火の池に投げ込まれる以外に道はないのであろうか。

この問題は極(きわ)めてむつかしい問題ではあるが、ただ一つ希望がないわけではない。

 

それは、天地宇宙を造られた神は、正しい者にも、正しくない者にも、公平に太陽を昇らせ、雨を降らせたもうお方であり、完全にして絶対的な愛の神であるということである(注2)

 

我らの最終的希望は、ここにかかっている。

2-②〕
絶対無限愛の神であるが故
(ゆえ)(注3)、〔すべての人の救いのために〕すでにキリストを地上に派遣し、〔その〕十字架と復活を通して、すべての人の罪をあがなわれた。

 

しかるに、このように一方的に差し出された救いの御手(みて)を、大多数の人々は、約二千年間も払いのけてきた。

 

この不信仰の傲慢(ごうまん)と無知のゆえに〔人々は過(あやま)ちを犯し続け〕、20世紀末を生きる人類は、最後の審判の近づきつつある予感、すなわち、〔世界の〕終末の足音を聞きつつあるのである(注4)

2-③〕
しかし、くり返しのべたように、神は愛でありたもう(注5)
神の愛は、〔自ら創造した〕一人の滅ぶことも見逃(のが)さないであろう。

 

不信者に対して、最後の有罪判決を下し、多数の人々を火の池に投げ込むことを、〔救い主〕キリスト御自身が〔平気で〕実行なさるであろうか。

 

彼の絶対愛がこれを阻(はば)むにちがいないと私は確信する。義は最終的に愛に呑(の)まれるであろう。

それ故、最後の判決を下す前に、キリストみずから、あらゆる手段を用いて、死に至るまで〔神の前に罪を〕悔〔い〕改めなかった人々のために、十字架の福音をたずさえて陰府(よみ、注6~8にまでも追いかけ、救いへ導く努力を傾倒されるのではなかろうか。

そして、最後の法廷において、先に述べたとおり、キリストみずから十字架を立てられ、最後の赦しの宣言を与えたもうのではなかろうか、と私はひそかに信じるのである。

 

私は悔〔い〕改めることなく不信仰のまま死んで行かれた人々に対しても、十字架の福音は必ず有効であると信じたい。

だからこそ《福音》であり、《神は愛なり》である。

最後の審判は、最後の救済となる。

それ故に、〔われわれは〕「汝(なんじ)ら、悔〔い〕改めて福音を信ぜよ」と叫ばねばならない。

神が御子みこキリスト〕〔この〕世に遣(つか)わされたのは、世〔の人々〕を裁くためではなく御子によって、この世が救われるためである(ヨハネ福音書 3:17)

♢ ♢ ♢ ♢

(「最終的に十字架はどこに立てられるか」、『復活』1995年9月所収。段落番号、( )、〔 〕内、下線は補足)

注1 十字架の真実

詩歌017八木重吉〖十字架〗

注2 神は善人にも悪人にも太陽と雨を

「父〔なる神〕は、悪人に善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らしてくださるからである」(マタイ福音書 5:45b)。

注3 父の愛の物語

ルカ福音書 15章11~24節を参照。

注4 終末的様相を深める人類と世界

本の紹介島崎暉久〖ヨハネ福音書と現代 第一巻〗

注5 神は愛なり

ヨハネⅠ 4章8,9,16節、ヨハネ福音書 3章16節を参照。

注6  陰府(よみ):

旧約(ヘブル語)ではシェオール(Sheol)、新約(ギリシャ語)ではハデース(Hades)。

陰府は死者の行く、暗黒の場所。

旧約の時代には、陰府は現世と永久に隔(へだ)てられ、神との交わりが断たれる場所と考えられていた。

神の支配が陰府にまで及ぶという信仰は、旧約後期になって初めて確立した(詩編 139:8、ヨブ記 26:6)。

キリストは、陰府に対しても主(しゅ)となられた(フィリピ書 2:10,11)。

​(参考文献:小塩力、山谷省吾篇『旧新約聖書神学辞典』新教出版社、1961年、467項)

注7 神は地の果て、陰府にまで

私は〕どこへ行けば、あなたの霊(れい)から離れられよう〔か〕。


私は〕どこへ逃(のが)れれば、〔あなたの〕御顔(みかお)を避けられよう〔か〕。


私が〕天に登ろうとも、あなたはそこにおられ、
私が陰府
(よみ)に身を横たえようとも、あなたはそこにおられます。


私が〕暁(あかつき)の翼(つばさ)を駆(か)って海のかなたに住もうとも、
そこでも、あなたの〔御〕手は私を導き、右の〔御〕手は私を離さない

(詩編 139:7~10 聖書協会共同訳。( )内、下線は補足

詩歌042リベラ〖Far Away 彼方からの光

注8 キリストは陰府に対しても主

このため、神はキリストを高く上げ、

あらゆる名にまさる名を

お与えになりました。

 

それは、イエスの御名(みな)によって

天上(天国)のもの、地上(現世)のもの、地下(陰府)のものすべてが

膝をかがめ

すべての舌が

イエス・キリストは主である』と告白して

父なる神が崇(あが)められるためです」。

フィリピ書 2章9~11節。( )内、下線は補足

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