― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
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最終更新日:2024年10月9日
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アマスト大学時代の内村鑑三
1887(明治20)年27歳
1
〔1-①〕
近代日本の歴史も年を重ねて、百年を記念するようになりました。しかし生誕百年を記念された人物はそうたくさんありません。
2、3年前に慶応義塾〔大学〕の創設百年が記念されました。これは慶応義塾という非常に大きな学校を背景にして、実質的にはその創設者である福沢諭吉を記念したものといってよいでしょうが、内村鑑三はあとに何も残さなかった。学校も残さず、教会も残さず、彼の残したものは著述だけであります。
しかるに明治以来たくさんの人物が日本に産出した中から、本年、内村鑑三の生誕百年を記念するようになりました。ただに彼の門下である無教会の人々だけでなく、教会の側においても、内村鑑三は単に無教会の内村鑑三ではない、日本のキリスト教徒全体の内村鑑三であるとして、彼の生誕百年を記念する機運にあります。
内村鑑三マイナス無教会。しかもその無教会というものは内村鑑三においては大して重要な問題ではなかったという認識のもとに、あとに残る内村鑑三の大部分を教会側においても尊敬し、彼から学ばねばならないといっている模様であります。
ひとり教会・無教会を通じてキリスト教徒だけでなく、一般の日本の国民の中にも、内村鑑三の生誕百年を記念する情勢であります。
私自身のこれまで関係したところだけをいっても、毎日新聞から、内村鑑三生誕百年について何か書いてくれという依頼を受け、短いものを書きました。読売新聞からも、内村鑑三生誕百年に際し、座談会に出てくれという依頼を受けまして、その記事が紙面に出ました。いわゆる商業新聞といわれる普通の新聞でも、内村鑑三生誕百年を記念しておるのです。
近年、明治以来の日本思想史の研究者の間に、内村鑑三をとりあげようという機運が強いそうであります。あるいは今後続々、歴史学者・社会思想史学者・政治学者などの間から、内村鑑三の研究が発表せられるだろうと思うんです。
どうして内村鑑三が、明治以来の多くの人物の中で、生誕百年を記念される少数の人の中に入ったか。個人としては、いままでのところ内村鑑三しかない。
このこと自体が一つの問題ですが、内村鑑三の生涯における人間形成と、近代日本の国民形成とが相伴っておこなわれた。そこに彼の歴史的意味があると思います。
〔1-②〕
内村鑑三の歴史的役割を、三つの点で考えてみましょう。
一つは旧日本と新日本との連結であります。
彼の生れたのは幕末でありまして、明治の初年が修学の時代であり、それから明治・大正から昭和の初めまで、普通に人々のいう明治・大正のよき時代、表面的によき時代を生きて、昭和5(1930)年、すなわち満州事変の起る前年にこの世を去られた。
彼のよく言ったことばに、「武士道の台木にキリスト教の福音(ふくいん)を接木(つぎき)する」あるいは、「武士道の台木に接木されたキリストの福音」ということを言われたのであります。
「武士道の台木」というのは何だろう。
武士道というものは封建社会の倫理道徳の体系であります。内村鑑三が武士道の台木といった意味は、君主制とか封建的な家族制とか、士農工商の社会的階級制度とか、そういうものを温存して、その上にキリスト教を接木する意味でないことは明かです。
社会制度としての封建制度を土台としてキリスト教をその上に建てるのではなくて、彼が「武士道の台木」と言ったのは、武士道の精神でありましょう。
武士道の精神とは何であるか。
これはいろいろの点で言うことができると思いますが、義理がたいこと、義を重んずることが、その特色の一つでありましょう。
〔逆に、〕武士道の台木に接木されないキリスト教というのは、どういうものだろう。
これは愛ということをただ甘い砂糖のお菓子のようなつもりで、「愛ですね、愛ですね」と、囗さきで言っている。
そういうキリスト教は日本には向かない。否(いな)、日本においてダメであるだけでなくて、それでは本当にキリストの福音を理解することができないだろう。
愛は貴(とうと)い。キリストの教え〔の中心〕はもちろん愛ですけれども、それが義に根拠しないと、義という台木に接木されていないと、軟弱な、軽薄な、吹けば飛ぶような〔感傷的な〕愛になってしまう。
義を重んずるということは、大きく言えば神の義を重んずることであり、小さく言えば人間の義理がたいということ、〔つまり、神と人とに対する〕真実ということであります。
それを内村は、武士道の精神として理解したのだと思います。
そのほか、利害の打算をしないということも、武士道の特色の一つであります。
損をするとか得をするとか、数でこなすとか、そういうことでなくて、正しいことであれば、ただ一人でもおこなう。間違ったならば、自分が責任をとる。
そういう利害の打算〔、損得〕を越えた精神。正しいことを正しいがゆえに述べ、かつ行う精神。これも武士の精神として、内村鑑三が体得した〔ものの〕一つであると思います。
〔実際、〕武士道の精神に接木されないキリスト教の伝道が、いかに利害の打算に走ったか。〔当時の教会は、〕一年間にどれだけの信者がふえたか、どれだけの献金があったか、そういうことでもって伝道の成績を判断〔し、一喜一憂〕した。
そういう考え方は、武士道の精神に反する〔。もとより神は、そのような宗教商売的な伝道を喜ばれない〕。
そのほか、いろいろありましょうが、この武士道の台木に接木された福音を日本に伝えることが、旧日本と新日本を連結した彼の働きであったと思うんです。
イエスが律法と預言者を完成するものとして来たり給(たも)うて、しかも新しい福音を宣(の)べ伝えられたように、内村鑑三も封建的日本と近代日本の移り変りの時代に、神から日本という国に遣(つか)わされて、彼の果した役割は、過去の善きものを受けついでそれに全然(まったく)新しい解釈を下(くだ)し、その基礎の上に新しい日本を造り上げる仕事に参与したのだと思います。
〔1-③〕
第二には、東洋日本と西洋の国々との結びつけということであります。
彼は『代表的日本人』という本を書いた。中江藤樹とか二宮尊徳とか上杉鷹山とか西郷南洲とか、数人の人物の評伝を英文で著述しまして、これを西洋人に読ませた。
〔彼の前半生の自伝である〕『余(よ)は如何(いか)にして基督(キリスト)信徒となりし乎(か)』という本も、もとは英文で書いたのであり、日本人の精神と理解を英文の筆を通して外国人に知らせた。
同時に彼はきわめて天才的な直観をもって、外国の思想や文学を日本に紹介した。外国文学の輸入者・紹介者の一人として、彼の名が比較文学者の間にも挙げられる。
カーライルとか、ホイットマンとか、ダンテとか、ミルトンとか。イプセンでさえも、彼が初めて日本に紹介したのだと言われます。
このように日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に伝えるという役目をいたしました。
この二つの点、すなわち旧日本の中に生れて新しい日本を造り出すという仕事と、東洋日本に生れて東西の思想・文化の交流を図るということは、内村鑑三ひとりの仕事ではない。
明治初期から大正・昭和の初めにかけて働いた日本の思想家・学者・文学者たちは、ことごとくと言ってもいいくらい、その歴史的な、時代的な役割を果してきたのです。
〔1-④〕
ところで、内村鑑三が連結の役目をしたもう一つの問題があった。それは神と人とを結ぶことでありました。
内村鑑三は札幌農学校の学生であったときにキリスト教の信仰に入ったのですけれども、同級生のうちで、彼は初めキリスト教の信仰に抵抗した最大の抵抗者でありました。
彼は札幌神社の神前にぬかずいて、どうぞこの夷狄(いてき)の教え、外国の教えを日本から追っ払って下さいと、札幌神社の神様に祈った少年であったのです。彼は道を歩きまして社(やしろ)や祠(ほこら)の前を通ると、何を祭っている神社であろうとも、帽子をぬいで拝むことをしました。
神社がたくさんあるから、首が痛くなるほどお辞儀をして通ったという、そういう少年であったのです。
ところで、まことの神は神社の神々ではない、神社の〔祭っている〕神々は、人間〔か動物〕だ〔。それらは、人間の願望や不安・恐れの投影にすぎない。つまり、人間が作り上げた神々だ。しかし、まことの神は違う〕。まことの神は、〔人間を超越した、〕天にいますただひとりの神だ。
天地〔・宇宙〕万物をお造りになり、人間をお造りになったただひとりの神がいますことを、キリスト教の聖書において学んだときに、彼は真(まこと)の神と同時に、真の人間を発見した。
今までのように、たくさんあるお宮の前で頭を下げる苦労がなくなってよかった、と彼がユーモラスに言っておりますが、彼はこれによって、本当の自分の人間形成の道と、そして旧日本を新日本にし、東洋日本を世界の日本にする国民形成の道の根本はこれであることを知ったのであります。
神についての考え方、神とは何であるかということについて、彼にこの大変化が起りました。
まことの神を知ってみると、まことの人間の姿が分かる。自分というものが分かる。〔つまり、〕〔神の前に〕いかに自分が罪人であるか、〔また、〕いかにつまらない、弱い、悪い人間であるかが分かりました。
この神と人との間を結ぶものを、彼はイエス・キリストにおいて示されたのであります。彼の信仰に入ったコンバーション(回心)というものは、それであったのです。
旧日本を新日本にし、東洋日本を世界の日本にする役割を多くの人がしましたけれども、内村鑑三の特別な役割は、その第三の点にありました。
2
〔2-①〕
神がいかに内村の人間形成をし、かつそれを通して近代日本の国民形成に参与せしめたかを理解するために、彼が少年時代に札幌農学校に学んだという事実をどうしても忘れることはできません。
彼の学んだ札幌農学校の性格を、三つの点で挙げることができる。
第一は、理学、今日のことばで言えば科学でありますが、科学を修(おさ)め、産業を通して近代日本の建設に貢献することが、札幌農学校創設の趣旨でありました。
日本における学問・教育の中心は、明治の初めから東京でありました。
東京大学が創設せられまして、天下の秀才はここに入学することを願った。東京大学に入った者は政治家となり、官吏(かんり)となって、日本の国の近代化に貢献した。自分自身にとっては、大臣となり参議となるという立身出世主義が、当時の青少年をして勉強をさせた指導的精神であったのです。
これに対し、日本の国の建設のためには、政治家や役人や、つまり法律や経済の学問だけではだめだ。
理学を通して産業を興(おこ)さなければならないということが、札幌農学校創立の趣旨であり、内村鑑三はそれに共鳴して札幌農学校に入学した少年たちのひとりでありました。
もう一つ、札幌農学校は官費でありまして、金がかからない。これも一つの理由であって、内村鑑三とか新渡戸稲造など、武士の少年たちが札幌農学校に入った。
けれどもそれよりも大切なことは、何をもって日本の国民形成に貢献すべきかという、少年の志望決定において、札幌農学校に入学した少年たちは政治家とか官吏とかの立身出世主義と異ったフィールドを選んだのであります。これが第一の点です。
〔2-②〕
第二の点は、明治9年のころの北海道は、今日とうてい想像もできないくらいの辺鄙(へんぴ)の地でありましたが、そこに新しい学校をつくって、アメリカからウィリアム・S・クラークが来て教育に当った。
ケネディ大統領が「ニュー・フロンティア」- 新しいフロンティア精神ということを言っておりますが、北海道は正(まさ)しく日本のフロンティアであったのであり、そこで勉強した学生たちは、クラーク博士の指導の下に、たくましいフロンティア精神を養成された。
つまり文化的な都会で楽しい享楽(きょうらく)生活をすることを魅力に考えないで、熊が出るような未開の土地に進んで入っていき、そこで勉強し、かつそこの開拓に従事するという精神の少年たちでありました。これが第二の点。
〔2-③〕
第三の点は、札幌農学校はクラーク博士がアメリカのカレッジの特色を移して教育をしたところでありまして、その長所の一つとして一般教育を盛んにしたのであります。
戦後の日本では大学制度が改正されまして、一般教育がおこなわれるようになりましたが、日本の大学当局者も社会も一般教育の精神を理解すること甚(はなは)だ薄くて、そのため新制大学の制度はいまだに宙に迷っている様子であることは甚だ遺憾(いかん)でありますが、札幌農学校において一般教育が実施されたことが、内村鑑三その他、札幌農学校の初期の学生たちの人間形成上、非常に意味があった。
彼は魚の学問を専攻に選びましたけれども、そのほか歴史学や哲学や、いろんな学問に対して興味をもちました。その上にもう一つ、キリスト教の信仰をそこで学んだ。
内村鑑三を日本におけるアウトサイダー、すなわち局外者のひとりであるとして、河上徹太郎氏が興味ある評論を書いておりますが、札幌農学校の出身者は日本の文化の主流の外に立った人々であると言ってもいい。
内村鑑三に満ち溢(あふ)れている預言者(よげんしゃ)的精神。その在野(ざいや)的精神。
権力に媚(こ)びず、権力を欲(ほっ)しない精神が養成されたのには、彼の生れつきもあるでしょうけれども、しかしながら札幌農学校の教育が非常に大きな力をもったでしょう。いずれにしても彼は野に叫ぶ預言者でありました。
彼は主流に属する多くの人々から攻撃されました。
国家主義者たちからは、内村鑑三は皇室(こうしつ)を尊ばないもの、国を愛さないものとして批難を受けました。
宣教師や教会側からは、彼はキリストの教えの本質をわきまえないものとして排斥されました。
彼がアメリカから帰って最初に就職したのは、新潟の北越学館という学校でありまして、そこで英語や歴史を教えた。ところで彼が、日本の産出したすぐれた思想家として日蓮とか法然(ほうねん)とか、そういう人々の話をしたときに、宣教師たちはこれを批難して、キリスト教主義の学校において非キリスト教徒の話をするのはけしからんと言った。
これが宣教師と衝突した最初であったのです。
3
〔3-①〕
旧日本と新日本の連結とか、東西文明思想の交流とか、そういう仕事をしたものは内村鑑三ひとりでなかったということを申しましたが、二、三の人物を挙げて比較をしてみましょう。
第一は、福沢諭吉です。福沢諭吉はなかなかの人物で、彼は政府に仕えず、在野の人として一生を過しました。かつ思想の広い人でありまして、庶民教育を勧め、家庭を潔める必要を説き、婦人を向上させなければならない等々、デモクラシーの思想を紹介した人として功績のあった人ですが、内村と福沢との違いはどこにあるかと言えば、福沢は、日本の国を興(おこ)す道は富国強兵であるという立場でありました。それゆえに彼は日清戦争の時に率先して軍費献納の運動を起しました。
第二には、福沢は、晩年にやりたいと思う事業として、一つには婦人の教育をすること。第二は宗教を保護するということだ、と申しております。
宗教は世道人心を養うのに有益なものである。自分自身はこれという宗教は信じないけれども、仏教でもいい、キリスト教でもいい、宗教を保護して宗教家の活動を助けたい、ということを言い、またいくらかそれを実行しました。
野にいたこと、家庭を潔くすること、庶民の教育を勧めること、いわゆる民主的な思想家・教育家として内村は福沢と共通なものをもちましたが、違っている点は、福沢は権門勢家と交際し、内村は藩閥・財閥を攻撃した。
内村も初めは日清(にっしん)戦争を義戦(ぎせん)であるとして弁護したが、後その非を認め、日露開戦に当っては、職をなげうってこれに反対した。
福沢は、みずからは宗教を信じないが、宗教はいいものだからこれを保護すると言ったが、内村は福沢の態度を批難し、宗教を保護することではなく、宗教を信ずることこそほんとうに人を救う道であることを説いた。
〔3-②〕
第二の人物として、加藤弘之を挙げます。
いまでも日本学士院という学者の団体がありますが、福沢諭吉が最初の学士院長です。
二番目が西周、三番目の学士院長が加藤弘之。加藤弘之は三度学士院長を勤めております。
東京大学の総理を二度、勤めております。明治時代の日本の学界における最高の指導者でありますが、この加藤弘之は、若い時からスペンサーの学徒でありまして、合理主義者でありました。後に日本の国体(注1)を重んずる国家主義者になりまして『国体新論』その他の本を書きました。
合理主義的な国体論者として、加藤弘之は宗教一般を攻撃し、中でもとくにキリスト教を批難したのです。
彼は『吾(わが)国体と基督(キリスト)教』という著書の中で、神というものは無いものだ。無いものを拝む宗教一般が迷信である。中でもキリスト教は、人間というものはみな神から造られたものである。そして神の前にひとしく罪人(つみびと)であって、キリストにあがなってもらわなければ救われない、ということを言っている。
しかるに日本では天皇が最高の至尊である。その天皇よりさらに上に、天地万物の造り主(ぬし)という神があるなどというキリスト教では、天皇も人間であるとするんだから、当然、罪人であって、キリストによらなければ救われないことになるではないか。
それだけでも、キリスト教が日本の国体に合わないことは明白だ。キリスト教が日本の国体に同化できるという説は間違いである、と論鋒鋭く論じました。
これは、キリスト教会の側から、日本の国体にキリスト教が同化できるという妥協的なことを言って、伝道の助けにしようとした説がありましたのに対して、加藤博士は、だめだ、キリスト教は日本の国体には同化できない、と断言されたのです。
内村鑑三も、その〔教育勅語〕不敬(ふけい)事件のゆえに、加藤博士から批難攻撃されております。
〔3-③〕
第三に、中江兆民から幸徳秋水に伝わる無政府主義・社会主義の思想があります。
福沢諭吉は英米の思想を輸入し、加藤弘之は初めはイギリス、のちにはドイツの思想を日本に輸入しました。
フランスから来た無政府主義・社会主義の思想は、中江兆民・幸徳秋水の流れを汲むものですが、この人々は平民主義を唱えました。
平民を貴(とうと)び、またその利益を伸ばすことを主張し、藩閥・財閥を攻撃し、かつ戦争に反対しました。
内村は『万(よろず)朝報』により、また理想団をつくって、幸徳秋水・堺枯川らの社会主義者と共同戦線を張ったことがあります。非戦論において、藩閥・財閥の攻撃において、また平民主義を鼓吹(こすい)する点において。
しかしながら根本の違いは、キリストを信ずる信仰に対する態度にありました。
中江兆民・幸徳秋水・堺枯川らは唯物(ゆいぶつ)論者であった。唯物論者であるという点においては、中江兆民や幸徳秋水も加藤弘之も同じであった。
しかるに内村鑑三は、神を信ずること、キリストの救いを受けることが、人間を真に人間たらしめる人間形成の道であり、かつ日本の国を救い、日本の国民をまことの国民として形成する道であることを堅(かた)く信じて、その立場をとりました。
しかしおもしろいことには、内村鑑三の信仰的態度には、事実に即し、実験(現実経験)を重んずるという点において、唯物論者と共通のものが感ぜられる。
三枝博音氏が日本における唯物論者の系譜(けいふ)のようなものを『理想』という雑誌に書かれたことがあるが、その中に内村鑑三を挙げている。
三枝氏の言うのに、内村鑑三がキリスト信者であることは、だれもが知っている事実であり、唯物論者の列伝の中に彼の名を挙げることはおかしいと思われるだろうが、観念的・抽象的でなく、事実を重んじ実験を重んずる点〔、つまり実証的、学問的精神〕において内村の信仰の仕方、ものの考え方が唯物論者と共通するということを指摘している。
内村鑑三は幅の広い人でありますから、いろんな人と共通な点がありますが、決定的に異る点はどこにあるかと言えば、キリストを信ずる堅(かた)い信仰にあります。
〔3-④〕
それならば、植村正久、海老名(えびな)弾正(だんじょう)、小崎弘道、本多庸一等々、彼と同時代の教会の先生方と内村鑑三とはどこが違うか。
一つには、彼は無教会(むきょうかい)主義を唱えた。
人は教会員にならなくても、キリスト信者でありうるということであります。洗礼を受けて教会員にならなくても、キリストに救っていただけて、天国に行けるということを彼は唱えた。
これは教会の伝統に対して、革命的な大胆極まる挑戦でありまして、キリスト教会の考え方を根本から覆(くつがえ)す思想でありますが、それゆえにこそ、彼は非常にたたかれたのであります。
第二に、内村鑑三の特色とするところは、彼が信仰のゆえに国民から迫害され、嘲罵(ちょうば)を受けたことであります〔。不敬事件によって内村は国中、枕する所がなくなり、教会も内村を見捨てたのであります〕。
信仰のゆえに彼はまた、衣食の道をみずからなげうった。〔日露開戦を前にして、内村は〕万朝報(よろずちょうほう)社の勤めを〔信仰に基づく〕非戦論のゆえに捨てて、生活の道を捨てた。
〔信仰のゆえに、またキリストの御名のゆえに〕社会から辱(はずか)しめを受け、苦しみを受けたということにおいて、内村鑑三は特異の存在でありました。
彼の無教会の信仰と、キリストのみ名のゆえに実際に苦しみを受けたという二つのことの間にどのような関係があるか〔。それ自体、非常に重要なテーマではありますが、本日〕、それについてお話しする時間はありません。
本年、彼の生誕百年を迎えたのでありますが、彼がこの世を去ってから30年であります。
この30年の間の日本の変化というものは、ほんとうに先生に見せたくなかった。聞かせたくなかった変化でありました。
先生はその死の床において、「日本国の隆盛を祈る」という〔祈りの〕ことばを残して〔、1930(昭和5)年に〕この世を去りましたが、その後の日本国の歩んだ〔無謀な戦争と無残な敗戦への〕道は、先生の心臓(ハート)をかき裂き、かき破る情勢でありました。
内村鑑三生誕百年のうち最後の30年は、われわれ自身がその中で苦しんで通ってきた30年でありました。
先生の生誕百年を記念することは、先生の生涯を記念するだけではなく、その後の30年を併せて記念するのであります。
4
〔4-①〕
そうしてこれからどこへ行くだろう。これからどうなるだろうという、われわれ自身の問題となります。
その際に、内村がこの世に遣わされて70年の生涯をこの日本という国で、キリストのため、日本国のために過したことが、今日(こんにち)なお生きて働く生命力をもっておるか、どうか。
もっておらなければ、彼の生誕百年を記念することは、ただ昔話になります。
今日および今日以後のわれわれが生きていく生き方、われわれと、われわれの子供や弟や学生たちの人間形成、また戦後新たに生れ変ったはずである日本国の国民形成のために、内村鑑三の生命、精神が生きているとすれば、それは何だ。
〔4-②〕
第一に、キリストを信ずる信仰が、人間を造る上において、日本の国を救う上において、また世界の平和をきたす上において根本的に必要だ、ということであります。
戦後の日本の民主主義がなぜ空転しているか、なぜほんとうに地についていないか。
それについてはいろいろの説明はありましょうが、内村鑑三の答えは、それは日本人が〔、天地・宇宙万物を創造し、個人のみならず人類の歴史を導く、キリストの父である〕まことの神を知らないからである、〔その結果として、〕まことの人間を知らないからである、人間ができていない、人間の罪ということも人間の救いということも、人間の貴さということも人格〔の尊さ〕ということもわかっていない〔からである〕。
それゆえに日本の民主主義は空転しているのである。掛声だけなのだ。
どうしても聖書を学んで、ただひとりの神を信じ、キリストの福音を信じなければなりませんということを、内村鑑三は70年の生涯をかけてわれわれに教え、それを残した。
われわれはそれを受けついで、古い戦いを新しく戦っていきます。
〔4-③〕
もう一つ、内村鑑三はみずから辱(はずか)しめを受けた。この世からほめられる存在ではなかったのです。
とすれば、われわれがキリストにありて真に日本の国民を愛し、また日本が世界の平和に寄与するため、キリストにありてのわれわれの働きは、世人(よびと)からほめられるものではない、かえって恥辱と批難と嘲(あざけ)りを受けるのが当然だということであります。
〔4-④〕
今日、無教会はだんだん世に認められておるそうでありますが、無教会が認められてきたということが、ある意味においては無教会の勝利です。
教会員にならなくても人はクリスチャンでありうるということを、教会自身が認めざるをえなくなり、一般の社会の人々も認めざるをえなくなってきた。
たとえば私は教会員ではありませんが、しかし私をそのために、すなわち私は教会員でないからクリスチャンとは認めないとは、今日誰も言いません。
教会員でも、ほんとうにキリストを信ずる者はもちろん救われる。
教会員は神に救われないなどということを言うのではありませんが、しかし教会員でなくてもキリストによって救われる、クリスチャンでありうるということを、日本の人々が承認せざるをえなくなった。
それのみならず、エミール・ブルンナー博士のごとき〔20世紀の代表的〕神学者も、日本の無教会の行き方がほんとうのキリスト教の行き方だということを認めたことは、無教会の勝利です(注2)。
内村先生にわれわれはその勝利を報告しますと同時に、世間が無教会を認めるということが、無教会を一つの勢力として認めるのであるならば、これは無教会の危機です。
無教会は〔、人為的な宗教〕勢力〔、党派・教派〕ではありません。〔信仰復興・覚醒〕運動でもありません。
無教会は一つの精神です。清純な、清水のような精神であります。〔同時に、〕一つの信仰です。まじりなき純粋な信仰です。
この精神と信仰とに生きていくときに、われわれはこの世から抵抗を受け、われわれは彼らに抵抗し、必ずや彼らから辱しめと嘲(あざけ)りと反対を受け〔、悲哀の人とな〕るでしょう。
無教会を一つの勢力として認めること、認められることそのことが、無教会の危機を招きます。
いまやわれわれは内村鑑三の霊に対して申し上げる。われわれは無教会の精神を、その精神と信仰を、純粋に守っていきます、受けついでゆきます(注2) 。
♢ ♢ ♢ ♢
(1961年3月26日、女子学院講堂における講演。矢内原忠雄『内村鑑三とともに』東京大学出版会、1962年所収。一部表現を現代語化。( )、〔 〕内は補足。下線は引用者による)
注1 国体(こくたい)
現人神(あらひとがみ)天皇が統治する国家体制のこと。
注2 無教会による純福音の真理の把握とその世界史的意義(矢内原忠雄)
「無教会は純粋なキリストの福音の日本的把握であるが、それは純粋な福音の把握であることにおいて、世界史的な意味を持つものである。
無教会によってとらえられた福音の真理は、これを全世界に向かって宣べ伝えられなければならない。これは日本より出でて世界万民に宣べ伝えられるべき救いの音ずれである。それは無教会の宣伝ではなく、キリストの純福音の宣教として、世界的意義を持つものである。・・
無教会は、内にありてはそれ自身の純粋性を保ち〔、生きた信仰の体験を持ち〕、外に向かっては世界にその真理が宣べ伝えられなければならない。・・・」
(高橋三郎『無教会主義の反省と未来展望-ドイツ通信-』聖泉会、1958年の矢内原よる「序文」抜粋)