4月<内村鑑三「一日一生」現代語訳

 

4月26日~4月30日

(2019年5月2日更新)

 

 

このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。

【4月27日】すべての人を救う神の愛万人救済 注2

私は〕どこへ行けば、あなたの霊(れい)から離れられよう〔か〕。


私は〕どこへ逃(のが)れれば、〔あなたの〕御(み)を避けられよう〔か〕。


私が〕天に登ろうとも、あなたはそこにおられ、
私が〕陰府
(よみ)に身を横たえようとも、あなたはそこにおられます。


私が〕暁(あかつき)の翼(つばさ)を駆(か)って海のかなたに住もうとも、
そこでも、あなたの〔御〕手は私を導き、右の〔御〕手は私を離さない

(詩編 139:7~10 聖書協会共同訳)

 

神のおられない所は〔、どこにも〕ない。

しかもその神は、今や赦しの神である。

神はどこまでも、どこまでも、その赦免(しゃめん)の霊(愛)によって〔、迷い出た〕自分の子〔-人類の一人ひとり-〕の後(あと)を追う。

 

また、神の忍耐は〔人間とは違い〕無窮(むきゅう、無限・永遠である。

人がこの世で悔い改めない〔、神に立ち帰らない〕からといって、神は人を〔切り〕捨て〔はし〕ない。

 

迷子になった愛児を探し求める親のように、〕神は未来永劫(えいごう)まで〔決して諦(あきら)めず、自ら創造した〕人の後を追い〔続け〕、彼の悔い改め(立ち帰り)を促(うなが)す(注1)。

 

たとえ〕天に登ろうとも、陰府(よみ、注3)に下ろうとも、海の彼方(かなた)に住もうとも、人は神の愛を離れ、神の恵みから遠ざかることはできない〔。

 

神の愛は、最終的に人類のすべての罪に勝利しすべての人をご自身の恵みの圏内(けんない)に閉じ込めるであろう。

 

すでに神は、キリストの十字架によって全人類を救ってくださった(注4)。

もはや神の救いから漏(も)れる者は、誰(だれ)一人いないであろう(注5)。

終わりの日、迷い出た、神の家族の最後の一人が家に帰るとき、神の家族-宇宙-は完成するであろう(注6)。

 

と《勝利者キリスト》に感謝と讃美あれ。ハレルヤ! 注7〕。

​* * * *

(「救済の希望-人類の普遍的救済-」『歓喜と希望』1909年、信5・129の抜粋を現代語化。〔  〕、(  )内、下線は補足)

注1 彼方(かなた)からの光

詩歌042 リベラの【Far Away】クリックしてYou Tube

注2 万人救済説(ばんにんきゅうさいせつ)

万人救済説とは、すべての人の救いということ、「イエス・キリストにおいて実現される神の救いの意志が、ついには最後の罪人にまでいたる」という終末論的な待望〔と神への根源的信頼〕をあらわすもの。

新約聖書の典拠(てんきょ)としては、さまざまな箇所があげられる(→注4を参照)。

万人救済説は、予定説、とくに二重予定の教理と対照されて、つとに教理的な正当性を争われてきた。

それにもかかわらず、古代以来、今日まで、キリスト教史を通じて、さまざまの代弁者を見出してきた。

新約聖書には、釈義(しゃくぎ)的には、どちらの説にも関連するようにみえるテキストが含まれている。

こうした中で、おそらく日本で、もっともよく知られているのが内村鑑三の万人救済説ではないだろうか。

(参考文献:宮田光雄「万人救済説の系譜(けいふ)-オリゲネスからボンヘッファーまで-」『聖書の信仰 Ⅵ 解放の福音』岩波書店、1996年、278項、〔 〕内は補足)

注3 陰府(よみ)

旧約(ヘブル語)ではシェオール(Sheol)、新約(ギリシャ語)ではハデース(Hades)。

陰府は死者の行く、暗黒の場所。

旧約の時代には、陰府は現世と永久に隔(へだ)てられ、神との交わりが断たれる場所と考えられていた。

神の支配が陰府にまで及ぶという信仰は、旧約後期になって初めて確立した(詩編 139:8、ヨブ記 26:6)。

キリストは、陰府に対しても主(しゅ)となられた(フィリピ書 2:10,11)。

​(参考文献:小塩力、山谷省吾篇『旧新約聖書神学辞典』新教出版社、1961年、467項)

注4 十字架の真実

詩歌017 八木重吉【十字架】

注5 すべての人の救い(万人救済)の典拠となる聖句
私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。」(ヨハネ福音書 12:32、イエス・キリストのことば)

パウロの万人救済の希望

​「すべての人を救う神の恵みが現れた。」(テトス 2:11 口語訳)

「〔神は、〕その〔キリストの〕十字架の血によって平和を造り、

地にあるものも

天にあるものも

万物を御子〔みこ、キリスト〕によってご自分と和解させてくださったのです。」

(コロサイ 1:20)

神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたのです。」(ローマ書 11:32)

「〔始祖〕アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです。」(コリントⅠ 15:22)

「一人(アダム)の過(あやま)ちによってすべての人が罪に定められたように、一人(キリスト)の正しい行為によって、すべての人が義とされて(=救われて)命を得ることになったのです。」(ローマ  5:18 ( )内は補足)

6 父の愛の物語

ルカ福音書 15章11~24節を参照。

W.バークレーの万人救済論

20世紀英国の代表的聖書学者であるW.バークレー(1907~1978)は、自らの万人救済説を説明して、次のように述べている。

私は、確信を持った万人救済論者である。

私は、最終的にすべての人は神の愛の御手(みて)の中に集められる」、つまり、救済されると信じている。

そして、「すべての魂(たましい)が神と和解することによって、悪はついに滅びる」と信じている。


キリスト教史において、万人救済説は、いわゆる正統的なキリスト教信仰ではなかったが、同時に異端(いたん)としての烙印(らくいん)を押されたこともなかった。
 

万人救済の信仰は、新しい信仰でも、現代の異端でもない。それは教会(エクレシア)の思想に深く根ざしたものである。

 

その最初の偉大な代弁者であり、現在も最も偉大な代弁者であり続けているのは、オリゲネス(185~254年、アレキサンドリア学派の代表者、ギリシア教父)である。・・・

 

第4に、万物が神に従う時、神がすべての者にあってすべてとなられる時(コリントⅠ15:24~28)、すなわち、神の究極的かつ完全な勝利の時を、私は心底、確信している。

このことは、私にとって重要な意味を持っている。

究極的に神は愛である(ヨハネⅠ 4:8,16、ヨハネ Ⅰ4:9、ヨハネ 3:16参照)。

神の力を支配するものは、彼の愛である。彼の聖(せい)や正義すらも、究極的には彼の愛によって支配される。

もし、〕終末において神の愛の外に取り残される者が一人でもいるならば、その一人が神の愛〔の絶対性を〕を覆(くつがえ)すことになる-しかし、そのようなことはあり得ない。

私たちが神の勝利について考え得る方法は、ただ一つしかない。


神が〔人間と同じような〕単なる王や審判者に過ぎないとすれば、神に敵対する者が〔永遠に〕地獄で苦悶(くもん)しているとか、すべて完全に抹殺(まっさつされ一掃されれば、〔それで〕神の「勝利」を口にすることができる〔であろう〕。


しかし、神は、王であり審判者であるだけではなく、神は〔実に〕「〔イエス・キリストの〕父〔なる神〕」である-まことに、神は他の何ものであるにもまして〔すべての者の〕「父である。

自分の家族に永遠に苦しむ者がいるならば、父たる者は〔決して〕安らかでいられるものではない。

自分に従わない家族がいるからといって、その者を抹殺することを勝利と考える父親は〔、一人もい〕ない。

 

父親が唯一、勝利〔の思い〕をおぼえるのは、家族全員が家に帰った時である。

愛が享受(きょうじゅしうる唯一の勝利は、自らの愛が愛の応答によって報いられる時である。

唯一可能な終極の勝利は、神によって愛され、神によって包まれた宇宙〔の実現〕なのである。・・・・

万人救済説に対し通常、二つの反論が浴びせられている。

その一つは、〕万人救済説は〔永遠の刑罰という〕脅威を取り除くので、キリスト教から筋金を取り去ってしまうという不満である。・・・

ここで〕忘れられていることは、神〔の恩寵〕が働く永遠の世界があるということである。

神の恩寵の働きは、この世だけに限定されるものではなく、この宇宙と同じように広大であると、私は信じる。詩編 139:7~10参照


万人救済説の核心は、審きの恐怖によって〕いわば人間を天国へ駆り立てる神を問題にするのではなく、どれほど頑(かたく)なな心も崩(くず)おれ、どれほど手に負えない罪人も〔ついには〕悔い改めに至るまで、永遠に働きかける神を問題とすることなのである。
(参考文献:滝沢陽一訳、W.バークレー『奇跡の人生-わが生涯と信仰の歩み-』ヨルダン社、1976年、100~105項、「われ信ず-私は万人救済論者である」より抜粋。
〔 〕内は、W.バークレー『使徒信条新解』日本基督教団出版局、1970年、295~306項による補足

人物紹介008〖W.バークレー〗

注7 内村鑑三の万人救済説

7-①

神学009内村鑑三万人救済論〖わが信仰の真髄〗

7-② 内村鑑三「万人救済の希望」

「罪人(つみびと)の頭(かしら)である私を救うことのできる愛は、いかなる罪人をも救い得てなお余りあるであろう。

 

私は、〔この〕私を救ってくださった神の愛をもってしても救うことのできない罪人の場合〔というもの〕を、考えることができない。

 

神が世〔の人々〕に先んじて私を救ってくださったのは、私に、すべての民に神の救済の約束(福音)を伝えさせるためであるに違いない。

 

私は、万人救済の希望を私自身の救済〔の実験〕の上に置く者である。

(内村鑑三「万人救済の希望」、1902年の抜粋を現代語化。( )、〔 〕内、下線は補足)

7-③ 宮田光雄「万人救済説の系譜」

「特に内村の場合には、いわば自分の深い贖罪(しょくざい)体験から、神の恵みに対する朗々(ろうろう)たる感謝と讃美の告白として、万人が救われるという希望(万人救済説)の表明につながっていると言うべきでしょう。

 

この内村における罪認識、贖罪体験が、彼の万人救済説の原体験=原点にあるのではないでしょうか。

(参考文献:前掲宮田「万人救済説の系譜」『聖書の信仰 Ⅵ 解放の福音』、282項より引用。( )内、下線は補足)

7-③ 渡部和隆「内村鑑三における予定説理解と万人救済説について」

「〔内村鑑三の万人救済説の鍵となるのは『神の恩恵』『神の愛』である。救いは人間の側の行為によるのではなく、あくまでも神の恩恵による。

 

罪人の(かしら)』である自己に自分自身を救済(きゅうさい)する力はない。

救済神の力によるのであり、神の恩恵が先行していなければならない。・・救済における主体はあくまでも神なのである。


内村の『恩恵のみ』の立場は時に、
私は私〔自ら〕が好んで救われたのではない。私は私の意〔志〕に逆らって救われたのである(中略)私は神に余儀なくされて神の救済にあずかった者である。

それゆえ、私は自分が救われたことについて何ら誇る所のない者である』(内村鑑三全集 第11巻 p437)と言う形で徹底的に表現される。・・・


キリストの十字架上の贖罪(しょくざい)の死は、一部の人間しか救い得ないようなものではなく、全人類の罪を贖(あがな)い得るものとされる。・・・

神の側では万人救済の準備はイエスの十字架において完全になされ、あとは人間がそれを受け容(い)れるか否かだけが問題とされる。


かくして、神の恩恵の先行性と確実性とは保証され、『罪人の首』である内村自身の救済が保証される。

 

内村自身罪と格闘する中で得た贖罪信仰〕の救済体験(実験)における自己の無力さと神の〔愛と〕恩恵の偉大さとの実感が論理的概念の媒介(ばいかい)を経て徹底化された結果〔、つまり論理的に徹底して表現されたの〕が〔内村の〕万人救済説なのである。・・・


このように、内村の万人救済説は〕神の恩恵の先行性が徹底して表現されたものである。

 

ゆえに、万人救済説は神の恩恵の徹底した先行の内で内村自身の救済を基礎づけるものであり、

救済は今や既成の事実なのである。私はすでに救われているのである。

ただ私は、このことを認められずに日々、苦悶(くもん)に沈みつつあるのである。

 

起きよ、わが霊よ。

すでに救われた世に生まれ来て〔いるのに〕、お前が救われまいと願っても〔、それは〕不可能なことなのだ』(全集 第16巻 p408)とまで内村は言う。


万人救済説は、『神は愛である。神はキリストにあってすでに人類全体を救ってくださった。救済は真に既成の御業(みわざ)である。ゆえにハレルヤ(神を讃美せよ!)である』(全集 第16巻 p424)とあるように、神の恩恵によって罪を赦されたキリスト者内村鑑三が放つ神讃美の『ハレルヤ』コーラスなのである」
(渡部和隆「内村鑑三における予定説理解と万人救済説について」、現代キリスト教思想研究会『アジア・キリスト教・多元性』第10号、2012年、91~110項、京都大学学術情報リポジトリより抜粋。なお、論文中の内村の引用文は現代語化した。( )、〔 〕内、下線および太字は引用者による。)

7-④

渡部和隆内村鑑三における予定説理解と万人救済説についてクリックして​京都大学学術情報リポジトリへ

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【4月28日】偉大なる凡人

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