聖書に学ぶ 002

2018年11月24日改訂

矢内原忠雄

 

ヨハネ黙示録研究の一節

1 は し が き   


〔矢内原〕は自分の家の集会で、昨年(1933〔昭和8〕年)秋から今年の3月末まで〔新約聖書 ヨハネ〕黙示録(もくしろく)の話をした。

以下に掲げるのは、〔黙示録〕第20章1節から第22章5節までの部分であって、黙示録の中でも最も輝かしい場面である。

 

 「見よ、神の幕屋(まくや)が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自(みずか)ら人と共にいまし、彼らの目の涙をことごとく拭(ぬぐ)い取ってくださる。

もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、苦しみもない。最初のものは、すでに過ぎ去ったからで ある」。 (ヨハネ黙示録 21:3、4)

 

アウグスティヌスが言ったそうだ。黙示録には意味のつかみにくいところもあるが、もし、この箇所の意味がはっきりしないというなら、およそ聖書の中で、意味の明瞭なところは一つもなくなる、と。


本当にそうだ。少しでも〔人生の苦難と悲哀(ひあい)に〕涙を流した経験のある人間には、この箇所とか、「君の罪は赦された。安心して行(ゆ)け」などという聖言(みことばは、何度読んでも読むたびごとに、魂の底にまでスッと〔沁(し)み〕徹(とお)る。


黙示録に対する熱心のあまり、発熱を押して集会に出席された結果、2月のある日曜日を最後に病床につかれ、いまだに起き出られない渡辺美代治兄の慰めのために、その他、病(やまい)の床(とこ)、苦難の谷にいる既知(きち)、未知の人々の慰めのために、

わが小さき『通信』よ、翼(つばさ)を張って急ぎ飛び行け。

 

 2  第 一 の 復 活 ・・・・略


 3  千 年 王 国    ・・・・・略


 4  第 二 の 復 活

 

 ・・・・・中略・・・・・


悪魔〔サタン〕は亡ぼされ、〔最後の〕審判は完了し、神の都(みやこ)の住民としての資格のある者は、その全人数が呼び集められた。

神のが地上に下(くだ)る準備が、今や、完全に整った。

 

 

5  新 天 新 地

 

闇夜の荒海(あらうみ)に揉(も)まれて困難な航海を続けた船員が、夜明け方、波静かな港の青々とした山を見た時のように、人生の旅路(たびじ)において、人間としての苦難(くるしみ)のほかに、キリスト信徒としての特別な重荷さえ負わされて、あるいは長い病のため、あるいは貧しさのため、あるいは信仰のゆえに受けた恥辱(ちじょく)のために幾度(いくど)か心消えようとした者は、今や、聖なる都(みやこ)新しきエルサレムが花嫁のごとく用意を整えて近づくのを見る。

 

背景には、緑滴(したた)る新しき天と新しき地があり、過ぎ来た方を振り向くと、たびたび難破(なんぱ)と死の脅威を孕(はら)んだ荒海の姿は消えて、〔もはや、その〕跡(あと)もない。


ここは、ほのぼのと明け行く来世らいせ、神の国)の暁(あかつき)

終わりまで忍耐と信仰を持ち続けよと励まされてきた、その終わりの船着(ふなつき)の港、待ちに待った神の都、新しきエルサレムが、今ついに、視界に立ったのである。


何と美しいことよ、この都。何と楽しいことよ、この天地。

見よ、神は人と共に住み、人は神と共に住み、神自(みずか)ら人と共にいまして、人々の目の涙をことごとく拭(ぬぐ)い取ってくださる。

ああ、この我(わ)が眼の涙をも、拭い取ってくださる。神の温かい御手(みて)がわが眼に触れた時、この世での苦難は一瞬に消えて、今は、その記憶さえ残らない。

もうこれからは、死も悲嘆(かなしみ)も号叫(さけび)も苦痛(くるしみ)もないのだ。過去一切が無いのだ。みんな、神によって新しくされたのだ。

これからが本当の生涯、本当の人生である。


わが足の、何と軽やかなことよ。我が胸の、何と朗(ほが)らかなことよ。我が頭脳の、何と爽(さわ)やかなことよ。

われわれは〔今より後(のち)、〕、神の子のごとく生きるであろう。

 

事はすべて、完成した。神の御経綸(ご計画)は成就(じょうじゅ)した。

まさにこの時を我々は待って、耐え忍んだのである。まさにこの〔天の〕国を得るために、われわれはすべてのものを棄(す)てたのである。

何と(こころよ)いことよ、生命(いのち)の泉から水を飲む時。


われわれは勝ったのだ。あの、怖(お)じ気づいて信仰から離れた者、あの、妥協して世の悪に染(そ)まった者、あの、偶像(ぐうぞう)を拝んだ者、あの、信仰を偽(いつわ)った者は、どこへ行ったのだろうか。


われわれの弱き足を守り、躓(つまず)きと苦しみにもかかわらず、われわれを救い、かつ励まして、ここ〔神の都〕に導き入れてくださった主イエス・キリストに感謝あれ〔!〕

 

 

6  神 の 都

 

神の都の光輝(かがやき)は、きわめて高価な宝石のようであり、また透き通った碧玉(へきぎょく)のようである。・・・・


都の中には神殿もなく、〔また〕太陽や月によって照らされる必要も無い。

なぜなら、〕神と〔神の小羊〕キリストがおられる所はすべて神殿であり、このように〔神とキリストが〕おられることによって、その栄光が〔都を照らし〕輝くからである〔イザヤ60:19〕。

神と小羊〔キリスト〕が常に〔人と共に〕在(いま)すこと、ここにこそ、人のすべての希望がある


もはや、神について考えるのではない。〔じかに、〕神ご自身を〔仰(あお)ぎ〕見るのである。

神が共におられ、神自ら、われわれの眼の涙を拭ってくださる以上、今さら、神の性質について何の議論があろうか。

神を〔直接、〕見ることのできた〔旧約の〕ヨブのように、〔われわれは、〕無条件に〔神を〕礼拝し、讃美するだけのことである(ヨブ記42:1~6参照)。


この都に〔は、〕透き通った生命(いのち)の水の河(かわ)があり、河の左右には生命の樹(き)があって、月ごとに〔、1年で〕12種類の実を結び、四季、絶えることがない。


生命の樹〔!〕。これこそ、〔人類の始祖〕アダムが〔エデンの〕楽園を追われた時以来の、人類の渇望(かつぼう)ではなかったか。

 

人類の歴史とそのすべての営みは、要するに、この生命の樹の実を食べたいとの願いによって、〔衝(つ)き〕動かされ〔てき〕た〔のではないか〕。

しかも、一切の文明と人間の努力は、ことごとく、この点において失敗したのだった。


それが今! 〔見よ、〕生命の水の河のほとりに並び立つ、これらの生命の樹。心も澄(す)む清き流れ、目も憩(いこ)う緑の葉末ようまつ

朝に夕に満ち足りるまで、われわれは、ここに永遠の生命(いのち)を呼吸する。・・・

神の都の構造と内容は、上記のとおりである。

その広さはまた、何という広大さであることか。・・・・これほどに広大な〔都の〕面積は、神の都の人口収容力が絶大であることを象徴するものである。

 

旧約の諸聖徒、新約の信徒〔たち〕、〔そして〕有名な人から無名な人に至るまで、キリストを信じて生命(いのち)の書に名前を記(しる)された者は一人残らず、この都に受け入れられている。

イエスは彼の御名(みな)を信ずる者を守り、その一人さえも亡びることなく、この神の都に送り届けてくださったのである(ヨハネ17:12)。


見よ、先立ち逝(い)ったわが夫のなつかしい姿!

(いと)しいわが子の笑顔!

都大路(みやこおおじ)のあちらにも、こちらにも、喜ばしき再会のさざめきがある。実に、楽しくも賑(にぎ)やかな神の都の集(つど)いである。


ただ、旧約と新約の信徒〔たち〕だけではない。「諸国の民は都の光の中を歩み、地の王たちは自分たちの光栄を携(たずさ)えて、都へ来る」(21:24)。

 

われわれはたぶん、あるいはソクラテス、あるいは孔子(こうし)、あるいは釈迦(しゃか)、あるいは日蓮(にちれん)が、この都の光の中を歩むのを見るであろう。また、キリストを知らずに死んだわれわれの愛する先祖、または父母の姿を、ここ〔都〕に見出すかもしれない。


キリストを拒(こば)む者は、ここに入ることはできない。その道理は明らかである。

しかし、たとえばソクラテスや孔子の教えと人格が神の都に取り入れられず、都の外に投げ出されて当然であるという考えは、智恵と力に満ち溢れたものであるはずの、この神の都に相応(ふさわ)しくない思想である。

 

また、〕ソクラテスや孔子ほど有名な人でなくても、敬虔(けいけんと誠実の中にその生涯を送った多くの人々が、キリストを伝えられる機会がなかったというだけのことで、神の都に受け入れられないだろうという〔宗教人の教えもまた、何か、神の正義と憐れみにそぐわない気がしていたのであった。


しかし、〕やはり、そうではなかったのだ。

ソクラテスも孔子も、楽しげに都の光の中を歩み、自分の光栄と誉(ほま)れを携(たずさ)え来て、この都の輝きの中に奉献(ほうけん)している。

彼らをここに見出して、われわれは、心からの満足と感謝を禁じ得ない。


(わざわ)いだ、〔君たち、神の国を独占しようとする〕形式的な名ばかりのキリスト信者よ。そして、神の国に入る者の資格を、公式的に、その〔教派が認定した「信者」の〕名義〔を持つ者〕だけに限定した偏狭な教師よ。


君たちは、この問題について、どれだけ無理解、無同情の言葉によって、単純〔素朴〕な信徒〔たち〕の心を暗くしたことか。


その名前生命の書に記されていない者は、もちろん、誰も神の国に入ることは許されない。しかし、誰の名が〔生命の書に〕記されているかは、ただ神のみが知っておられる〔のだ〕。


たとえ、この世でキリストを知る機会のなかった人々でも、その人が誠実な人である限り、あるいは他の何かの理由により、神がその〔人の〕名を生命の書に記しておられないとは誰も断言できない。

 

神の都の生命の樹の葉が「諸国の民を医(いや)」〔22:2〕というのは、これら大小、有名無名の異邦人(いほうじん)が医されて、完全な神の子とされることを意味するのではあるまいか。


神の都、新しきエルサレムは、神が〔ご自身の〕栄光によって自ら設計し、かつ整えて、神の許(もと)から下(くだ)されるのである。神は、この都に著(いちじる)しい包容力と美しい構造を備えてくださる。

 

人は、二、三の幼稚な神学的公式によって、神の意志と能力を推測することはできない〔。人の意表を絶して、驚くべきみ業(わざ)を神はなされる〕。

 

神の都が天より下ってわれわれに示される時、ただ、われわれの涙が拭われるだけでなく、一切の疑問も朝日の前の霧のように晴れ、神の正義と憐れみが、欠けなき正立方体〔の完璧な構造〕において秩序整然と調(ととの)えられていることを〔われわれは〕見るであろう。


この都こそ、われわれの本籍地、往(ゆ)き、そして住むべき永遠の故郷(ふるさと)である。

 

何と心躍(おど)ることよ、この希望〔〕 

病の(とこ)、悩みの座に〔あって〕、頭(こうべ)を上げてこの都を〔仰ぎ〕望む時、力なき者にも〔天来の〕力は〔満ち〕溢れる。

(以上)

 

♢ ♢ ♢ ♢

 (原著:矢内原忠雄「黙示録研究の一節」『通信』第17号、1934〔昭和9〕年5月を現代語化。〔 〕、( )内、下線は補足)

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