人物・評伝

評伝 010

2019年9月21日改訂

​渡部美代治

 

預言者的実存・矢内原忠雄(2)

-自由ヶ丘家庭集会の頃-

​評伝005〖矢内原忠雄〗

* * * *

1

〔1-①〕
私が初めて矢内原〔忠雄〕先生にお目にかかったのは、〔東京大田区〕大森〔新井宿〕のお宅に於
(おい)てであった。1932(昭和7)年のことであったと思う。

私は同郷の友、野津樸(しらき)君によって、『藤井武全集』の存在を知らされた。

そしてその頃目にした、伊藤祐之(すけゆき)先生の書かれたものに「この〔藤井〕全集は、食を節〔約〕し、衣(ころも)を売って〔で〕も、買うべきものである」との一句が〔あり〕、〔この言葉が〕矢のごとく私の心を貫(つらぬ)いた。私は、この全集をぜひ〔とも〕入手したいと思い定めた(注1)

そして、〕私は矢も楯(たて)もたまらず、直接、〔全集の〕発行所である〔矢内原〕先生のところへ飛んで行ったのである。

 

先生は初対面の私を御書斎に通して下さり、やさしく、親切に、全集の残っていた数冊と、藤井先生の個人〔信仰〕雑誌『旧約と新約』のあるだけのものをお分け下さった。

 

その後私は、これを貪(むさぼ)るように読んだが、〔当時は、矢内原〕先生については、『藤井武全集』の編集発行者としてしか知らなかったのである。

〔1-②〕
翌、1933(昭和8)年3月26日。〔東京〕朝日講堂に於て、内村鑑三先生〔3周年〕記念講演会が開かれた。

 

この講演会で〕矢内原先生は「悲哀(ひあい)の人」と題して〔語られ〕、満州事変における日本国の不義(ふぎ)を指摘されたのであった。

私は先生の激しい気迫に胸打たれ、手に汗(あせ)し、先生の守りを祈りながら聴いた(注2)

その時語られた、キリスト教の〔説く〕神は国家以上〔の存在〕であり、国家といえども不義を犯せば神の審判を免(まぬか)れることはできない、ということ〔ば〕は、「国家至上(しじょう)」という〔国家主義の〕考えを叩(たた)き込まれていた私にとっては、青天の霹靂(へきれき)のごとく〔であり〕、〔この言葉により〕私は全身全霊を揺(ゆ)さぶられ、そして私の〔霊の〕眼は開かれたのであった。

 

私はこの時、先生によって〔、天地・宇宙を創造し〕歴史を支配される生ける〔真の〕神の存在を知らされ、わが〔人生の〕師として就(つ)くべきはこの人である、とのはっきりとした示し(啓示)を受けたのであった。

〔1-③

まもなく〔1933(昭和8)年5月末、〕私は、すでに〔目黒区〕自由ヶ丘に転居しておられた先生のお宅を訪ねて、先生の教えを受けたい旨(むね)、率直にお願いしたのである。

 

先生は私ごとき者の願いを〔受け〕入れて〔くださり〕、〔ご自宅の二階書斎で〕集会を開いて下さることになった。これが自由ヶ丘家庭集会の始まりでありました(注3)

そのメンバーは、先生の奥様と三人の御子様、および藤井先生の御子様方、それに私と妻、野津樸君とであった。その後次々と〔信仰の〕兄姉が加えられ、1937(昭和12)年頃〔に〕は20名余りとなっ〔て、1945(昭和20)年の解散時には40名を越えてい〕た。

先生は、「この集りは、内村先生記念講演会の産物であって、単に起源においてだけでなく、その精神をも受け継いだものである」と後(のち)に記しておられる(『葡萄(ブドウ)』第5号所載「思い出」)。

2

〔2-①〕

集会では、〔会の〕始めに全員の聖句の暗唱が課せられた。

各自の暗唱が終るごとに、大きく「ウン」とうなずかれたり、つまると「ヨシ、次」と先生の応答があった。

 

これは師と弟子との真剣のやりとりであって、私どもはこれによって聖書を生き〔たものとし〕て把握することを教えられたように思う。

先生の聖書講義は、いわゆる訓詁(くんこ)注釈ではなくて、生ける神の言葉として〔聖書を〕説いて下さった。

旧約の預言者〕イザヤやエレミヤは、先生を通して〔語られる時、まさに〕現代に語りかけるイザヤであり、エレミヤであった。

そして〔2000年前に地上を歩まれた〕イエスは、現代の学者、パリサイ人と激しく戦い、顔を堅(かた)くエルサレムに向けて〔決然と〕進む〔、今を生きる〕イエスであった(注4)。

 

私どもはイエスの十字架によって先生の十字架を理解し、先生の十字架によって、イエスの十字架をいっそう深く知ることができたように思う。

先生の大学辞職(注5)は、まさに十字架〔のできごと〕だったのである。

2-②〕

先生は私どもを主にある養子養女として受け入れ〔てくださり〕、〔霊の〕父〔として〕の厳〔しさ〕と愛とによって育てて下さった。

 

先生は、病む者に対して〔は、〕たびたび〔彼らを〕見舞って、細やかな愛を注がれ〔ると同時に〕、互いに愛し合い、助け合うことを教えて下さった〔のであった〕。

 

また〕時々の先生を中心とした散歩遠足が〔、私どもにとって〕いかに楽しく有益〔なもの〕であったことか。

先生の〕公開講演会は、私どもにとって「聴きに行くもの」ではなく、先生と共に〔世に〕出(い)でて、〔信仰の戦いを〕戦うことであった。

 

一方、〕聖書講習会は、〔師弟が〕起居(ききょ)を共にした〔、信仰的〕訓練の場であった。

 

要するに先生は、その全生活をもって教え導いて下さったのであって、〔そのような中で私どもは、〕信仰は単に個人の救い(安心立命)に止(とど)まる私的なものではなく、〔むしろ〕公(おおやけ)の事〔がら〕であり、《神の国》〔の完成〕に関わるものであることを〔魂の奥深く〕叩(たた)き込まれたように思う

2-③

こうして、この師と弟子たちの間には、あの緊迫した時局のもと、苦難と希望を共にし、死生を共にする堅(かた)い結びつきが生じたのであった。

だが、この結びつきは、人間的〔、情念的〕に固定してしまうようなものではなかった。

先生はたびたび、集会の解散を断行され、〔集会に再び参加するには〕次の機会に改めて、〔先生に〕入会を申し出て、許可されることが必要であった。

これは〔先生が、〕私どもに、〔惰性と人間的癒着とを避け〕神と信仰に対する真実と、常に新鮮な心を要求されたためであった(注6)

3

〔3-①〕

地方伝道旅行に弟子を伴なわれたことも、実践の中における弟子の〔信仰的〕訓練であり、教育の一方法であったと思われる。

1937(昭和12)夏には、山陰、山陽および四国の伝道旅行が行なわれた。〔そのさい〕数名の者が〔先生に〕随行(ずいこう)したのであるが、私もその中の一人に加えられた。

この伝道旅行は〕まず鳥取市で、この年の春、東京を離れて赴任後まもなく病(やまい)を得た、野津樸兄を慰める集会がその枕辺(まくらべ)で持たれた。

米子(よなご)市での公開講演会の演題は、「国家の理想」であった。これはこの旅行最初の、そして最大の戦いであった。

先生は〔講演会を振り返り、あの時、〕聴衆の背後に目に見えない敵の大軍が砲列を敷(し)いているのが見えた、と言われた。

また後に〔先生が〕、〔雑誌〕『中央公論』〔1937(昭和12)年9月号掲載〕の〔論説〕「国家の理想」は、この米子講演の草稿として書いたものであると記しておられるのを見れば、これがいかに力を込めてなされたかが分かるように思う(『葡萄』8号所載「思い出」)。

〔3-②〕

この戦い〔が〕終って一行は、大山(だいせん、鳥取県の最高峰1,729m)に上り、鳥取県下各地から集まった少数の〔信仰の〕兄姉と共に、〔大山〕聖書講習会に列席したのであった。

先生はここで、詩篇「京詣歌集」を講じて下さった。


涼しい山の上で、《天国》を目指して〔地上を〕歩む者の喜悦(よろこび)と希望と、戦いと苦難とを私どもは心静かに学ばされた〔のであった。注7〕。

(この講義は後に、嘉信(かしん)文庫第4冊『京詣歌集』として出版された。)

〔3-③〕

山を下りて〕、〔全国〕各地で次々と講演会が催(もよお)され、先生は《神の国》の理想を語り、〔また、神の平和(シャーローム)〔の道〕を説(と)かれたのであった(注8)

 

その間にも先生は〕、長島、大島の癩(らい)療養所を訪れ、あるいは家庭的〔な〕小集会において、病める者、悲しめる者を《福音》によって慰め、励まされたのであった。

この伝道旅行は、時あたかも日支事変(日中全面戦争)勃発(ぼっぱつ)の直後であり(注9、各地とも応召(おうしょう)軍人を送る、万歳(ばんざい)の声と、軍歌と楽隊等〔で〕騒然としており、〔《平和と慰めの福音》を静かに語りつつ、天国を目指して旅する我々一行とは〕まことに対照的であった。

〔3-④

8月24日、〕旅行中〔の〕岡山で、『中央公論』〔9月号〕に掲載された〔巻頭論説〕「国家の理想」が〔検閲により全文〕削除〔処分と〕されていることが判(わか)った。早くも、反対勢力の反撃である。

この年の秋〔、1937(昭和12)年〕10月1日。〔日比谷公園の市政講堂にて〕藤井武7周年記念講演会が行なわれ、先生はその時の講演「神の国」において、

「〔今日は、虚偽(いつわり)の世において、我々のこれほどまで愛した日本の国の理想、あるいは理想を失った日本の葬(ほうむ)りの席であります。

 

私は怒るにも怒れません。泣くにも泣けません。

 

どうぞ皆さん、もし私の申したことがお解(わか)りになったならば、〕日本の理想を生かすため、一先(ま)ずこの国を葬(ほうむ)って下さい」と叫ばれ〔た。注10、11〕、

 

この言葉と、あの『中央公論』〔掲載〕の〔論説〕「国家の理想」とが彼ら〔反対勢力〕によって利用され、〔同年〕12月2日、先生はついに、大学を辞任されるに至ったことは、〔先生が〕「顔をエルサレムに向けて」進まれたことの〔必然的な〕結果であったのである(『通信』第6号所載「悲哀(ひあい)の人」第1参照)。
この頃、鳥取県の米子では大山聖書講習会の関係者が警察に留置され、あるいは呼び出されて、取り調べられるという事件が起きた。)

これより1931(昭和6)年〕に、〔矢内原〕先生は藤井全集を心血を注いで編集発行された。それは〔ご自身が〕藤井先生の〔信仰の〕戦いを戦い継ぐためであった〔のである。注12〕。

そして〕今、〔天にある矢内原〕先生は先生〔ご自身の〕の全集(『矢内原忠雄全集』29巻)を武器として更に戦いを進め、活(い)きて語っておられる

4

この〔矢内原〕全集について、〔その〕信仰篇のみを分離してもらえないかとの声をたびたび聞く。

 

思うに学術篇は専門書であるから、素人(しろうと)にとっては無縁、もしくは不必要なものであるとの考えがあるのであろう。

 

だが、〔矢内原〕先生においては〔、神の前に真理(真実)を探究する〕《学問》と〔神・キリストを信じ仰ぐ〕《信仰》とは一つのものであったし、先生の信仰をより深く理解するために、学術書を学ぶことは非常に有益なことと思われる。

 

その根底に信仰が流れている先生の御著作は、〔先生の信仰を踏まえて読むならば〕素人にとって〔も、決して〕理解が困難なものではないと思う。

私は無学の一市井(しせい)人にすぎないが、〔それでも〕先生の学問上の御著作を読んで非常に面白く感じる。

また〔確かに、〕われわれ貧しい者にとって、〔全集〕全巻の購入は〔経済的に〕なかなか重い負担である。

 

けれどもこの〔信仰の〕剣(つるぎ)を買うためには、食を節し、衣を売るくらいの覚悟も必要ではあるまいか〔。私はそう思っている〕。

(元西洋人形製造業)

♢ ♢ ♢ ♢

(渡部美代治「自由ヶ丘家庭集会の頃」、南原繁・大内兵衛・黒崎幸吉・楊井克巳・大塚久雄編『矢内原忠雄-信仰・学問・生涯-』岩波書店、1968(昭和43)年、176~181項に収載。一部表現を現代語化。( )、〔 〕内、下線は補足)

注1 ​藤井武(たけし)

評伝001〖藤井武〗

注2 ​内村鑑三記念講演-矢内原の決死行

矢内原伊作(イサク、忠雄の長男は、その著『矢内原忠雄伝』において、講演「悲哀の人」について、以下のように記している。

「・・・東京での〔内村鑑三3周年記念〕講演会で壇上に立ったのは、彼〔矢内原忠雄〕のほかに塚本虎二、畔上賢造、三谷隆正の4人で、一人3,40分ずつということだったが、忠雄は『悲哀の人』と題して20分〔、心血を絞って〕語った。・・・

このときの講演を回顧して彼(忠雄)は書いている。

-「昭和8(1933)年の3周年記念講演会には、東京、大阪、京都及び名古屋の各地で講壇(こうだん)に立った。

東京の会場は朝日講堂であり、私は『悲哀の人』と題して満州事変以後神の前に罪を犯し〔、神の審きと滅びの道を突進し〕つつある日本のために泣いた。

 

それは私に〔社会的地位は勿論、身体の自由をも賭(と)す〕覚悟を要した講演であったが、家に帰った後で家内が聴講の感想を語るには、『一瞬身が引きしまる思いがしましたが、家のことはどうなってもよい〔、すべては神様にお任(まか)せである〕と決心して、一生懸命神様にお祈りしました』と。本当によく言ってくれた。

私は(うしろ)を顧(かえり)みないで面(かお)をエルサレム(決戦場)に向け、急速にファッショ化(全体主義的・国家主義的な支配)のはげしくなって行く時局に対抗して立つことができたのである(「私の伝道生涯」、『矢内原忠雄全集』第26巻、202項)

顔をエルサレムに向けて』というのは、イエスが十字架にかかるべく、エルサレムに向かったことをさしている。・・・」

(参考文献:矢内原伊作『矢内原忠雄伝』みすず書房、1988年、433~434項より引用。( )、〔 〕内、下線は補足

注3 ​自由ヶ丘家庭集会

この家庭集会は、1933(昭和8)年5月21日に始まった。

注4 顔をエルサレムに向けて-イエスの決死行

自著『イエス伝』第10章の「エルサレムに向かう」において、矢内原はイエスの決死行を次のように描いている。


ヘルモン山を下りたイエスは、異邦テラコニテの地方(ガリラヤ湖の北東)を去り、決然、ヨルダン川を西に渡ってガリラヤに入られた。

しかし、これはご自分の郷里に落ち着くためではありません。一路邁進(まいしん)、エルサレムに向かうためでした。

神の都〕エルサレムでは近く、年1回の過越祭(すぎこしさい)が行われようとしていました。


ユダヤ全国から多数の国民が、この祭りのために〔​エルサレムに〕上るであろう。

今まで〔人々に〕説いて聴き入れられなかった《悔い改め》の教えを、今一度この機会に、国民大衆に訴えよう。

幸いにも彼らがこの最後の機会に私〔の教え〕に聴き従えば、イスラエルは救われ、《神の国》は成就(じょうじゅ)するであろう。


しかし、おそらく彼らは聴き従わないであろう。

そればかりか、常に嫉妬(しっと)と敵意に満ち、私の命さえも〔つけ〕狙う祭司長、学者、ファリサイの徒、ヘロデ党など、偽の指導者階級は到底、私を黙認しないであろう。

人々は私を殺すであろう。


しかし、それが何だというのだ。

私は神のため、《神の真理》を説くために〔、世に〕生まれてきたのだ。その〔使命の〕ために召されたのだ。

私が〔この道から〕退けば、《神の国》は実現しないのだ。〔救い主としての〕わが生涯の意義は失われるのだ。行こう。〔そして、〕死ななければならないのなら、死のう。


しかし、神は私を3日後に復活させてくださる。


私は人々の罪によって、殺されるのだ。人々の罪を〔背〕負って、殺されるのだ。人々は私を殺して初めて、自分たちの罪を知るであろう。自分たちの罪がいかに深いかを知り、初めて悔い改めの心を起こすであろう。

そして私の《復活》を見て、初めて私が《神の子》であることを知るであろう。

 

私が〕生きて真理を説いても〔人々が〕悔い改めないのであれば、死んで真理を示して彼らを救おう。〔私が〕生きるのも《神の国》の成るため、死ぬのも《神の国》のためだ。行こう。-


このように思い定めて、イエスは今、ヨルダン川を渡られたのです。・・」
(矢内原忠雄『聖書講義Ⅰ イエス伝
-マルコ伝による-』岩波書店、1977年、152~153項「第10章 エルサレムに向かう 1ガリラヤを過ぐ (1)決死行」より現代語化して引用。( )、〔 〕内は補足。なお『イエス伝』の初版は、『イエス伝講話』の書名で、1940(昭和15)年に嘉信社から自費出版された)

注5 矢内原事件

帝国主義下の台湾』などで日本の〔帝国主義的な〕大陸政策を批判していた東京帝国大学教授矢内原忠雄は、軍部ににらまれていたが、1937(昭和12)年12月、論文「国家の理想」と講演「神の国」が反戦思想として右翼から攻撃され、辞職を余儀なくされた事件。

(参考文献:鳥海靖『山川 日本近代史』山川出版、2013年、233~234項、全国歴史教育研究協議会編『日本史用語集』山川出版、2014年、326項)

近代の預言005〖帝大聖書研究会終講の辞〗

注6 自由ヶ丘家庭集会の性格

この集会の性格について、矢内原自身、次のように書いている。

この集会の性格は終始、〔戦時中の〕『家庭集会』であったから、当然閉鎖的なものであり、傍聴者は許さなかった。

会員は私の養子、養女となるものであり、お互いは兄弟姉妹の家庭的関係に入るものであった。

私より10年以上年齢の若い者でなければ入会させなかったことも、〔信仰的訓練のために〕私が思う存分、叱りうることが必要であったからであった。

 

戦時下で〕時局が緊迫し〔、また政府はキリスト教を『敵性宗教』と見なして弾圧し、随時監視も行っ〕ていたから、この集会は『カタコンブ』的性格をもつことを必要とした外部に対しては秘密、内部的には〔キリストに呼び集められ兄弟姉妹として〕親密であることを必要とした。

私の言論が会員の不注意によって警察の耳に入ることがないよう、警戒する必要があった。また会員自身、信仰上の理由によって世間から迫害を受ける危険があることを覚悟しなければならなかった。

 

それゆえに会員の選考はすこぶる厳重にした。

第一には、私と生死を共にする覚悟を要求した。第二には、本人が私の仲間であることによって世間からあるいは就職上、あるいは結婚に関し、その他不利益を受ける覚悟をもつことが要求された。第三には、本人だけでなく両親の許諾(きょだく)が要求された。

集会は厳しい秩序の下に行われた。定刻には玄関の入口が閉ざされ、1分でも遅れた者は入ることを許されなかった。事実、一人の遅刻者もなかった。

 

集会の始めには、全員聖句の暗唱が励行された。私の聖書講義は、預言者イザヤが教えを弟子の中に『閉じこめる』と言った気概をもって行われた。

私は若い人々の胸を切り開いて、その中に聖言(みことば)を押し込んで、私亡き後において私の志(こころざし)を受けつがせようと期待したのであった」(『矢内原忠雄全集』第26巻、196項より引用)

注7 山上の嘉信(かしん)

聖書に学ぶ003藤井武〖山上の嘉信〗

注8 講演旅行に対する神の護(まも)

矢内原は、この講演旅行を振り返り、次のように述べている。

「〔講演〕旅行に出る前はロクに声も出ないほど身体が疲れていたが、ともかく20余日にわたり旅行しては講演、講演しては旅行の旅を続け、多い時は1日3回、もしくは6時間にわたる講演をして来た。やればやれるものだ。

 

しかし、神様のお力添えがなかったらもちろん、なし得たことではない。神の力と神の護りとを、今回の旅行ほど感じたことはない。」

(『矢内原忠雄全集』第26巻、岩波書店、1965年、600項より引用。一部漢字をひらがなに変更)

注9 日支事変(日中戦争

1937(昭和12)7月7日夜、北京(ペキン)郊外の盧溝橋(ろこうきょう)付近で、日本軍と中国軍の小衝突が発生した(盧溝橋事件)。

 

現地では一時停戦協定が成立し、近衛(このえ)内閣も始めは事件不拡大の方針をとったが、陸軍部内や政府部内の強硬派の意見に押されて強硬方針を打ち出し、立憲政友会・立憲民政党・社会大衆党や、言論機関などもこれを支持した。それに押されて政府は、一転して軍の増派を認めた。


7月末には日本軍は、北京・天津を、8月には中国中部の上海(シャンハイ)も占領した(第2次上海事変)。

 

9月には、中国側は国民政府(国民党)と共産党が協力して抗日民族統一戦線を結成した(第2次国共合作)。こうして事変は、本格的な日中戦争に発展した。


同年12月、日本軍は首都の南京(ナンキン)を占領したが、この時、日本軍は多数(少なくとも数万人以上)の中国人一般住民(婦女子を含む)および捕虜を殺害し、国際的に激しい非難を浴び(「南京大虐殺」)、かえって中国人の抗日意識を奮(ふる)い起こさせた。


日本は短期間で中国側が屈服すると考えていたが、首都南京を占領されても、国民政府は首都を漢口、さらに奥地の重慶へと移し、ソ連やアメリカの支援も受けて抗戦を継続し、戦争は長期戦となった。


日中全面戦争は初めは北支事変、のち支那(しな)事変と称したが、実態は宣戦布告のない戦争であった。
(参考文献:佐藤信編『詳説 日本史研究』山川出版、2008年、449~450項、元木泰雄、伊藤之雄共著『理解しやすい日本史B』文英堂、2014年、413項、木下康彦ら編『詳説 世界史研究』山川出版、2008年、492項)

注10 ​非戦の訴え-講演「神の国」

赤江達也(社会学、思想史、宗教研究専攻、台湾国立高雄第一科技大学助理教授)は、その著『矢内原忠雄』(岩波新書)において、講演「神の国」について以下のように述べている。

「・・〔講演『神の国』において、〕講壇の矢内原は、厳粛な態度で聞き入る約350人の会衆を睨(にら)みつけるように見渡しながら、威厳に満ちた声で訴える。

 

日本の国民に向かって言う言葉がある。汝(なんじ)らは速(すみ)やかに戦(いくさ)を止(や)めよ!

 

ここでの戦争とは、言うまでもなく、日中戦争のことである。

その年〔1937(昭和12)年〕7月7日、盧溝橋(ろこうきょう)事件によって、日本と中国の戦争が本格化する。

 

それから3ヶ月後、矢内原は、日本国民に向かって戦争を止めるように語りかけている。

 

矢内原がキリスト教の講演をするときには、すでに前年ころから、妨害や襲撃があることが予想されていた。

そのため、講演『神の国』のときにも、会場の最前列付近には、いざというときに飛び出して登壇(とうだん)者を護衛しようとする学生や青年たちが陣取っている。

 

そうした状況のなかで、矢内原は、危険をかえりみず、非戦の立場を会衆と国民に向けて語るのである。

 

さいわいなことに、この講演会は無事に終わる。

矢内原の『講演会記』によれが、それは『真摯(しんし)厳粛(げんしゅく)(きわ)まる講演会』であった。『焦燥〔しょうそう、緊迫〕の時局』において、『帝都〔東京〕の中央』で、このような講演会が無事に開催されたことを、矢内原は『奇蹟的なる神の恩恵であった』と記している。

 

これほど明確な非戦の訴えは、当時の言論状況においては例外的なものであった。・・」

(岩波新書・赤江達也『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』岩波書店、2017年、「はじめに 預言者の肖像 非戦の訴え」ⅰ、ⅱ項より抜粋。( )、〔 〕内、下線は補足)

11 ​矢内原に臨んだ神の聖声(みこえ)

神の国」講演の翌年3月、矢内原は個人信仰雑誌『嘉信(かしん)』に「10月1日の回想」と題し、「神の国」講演を前にして神から臨(のぞ)んだ御声(みこえ)について記している。

ある日私は〔神の〕聖声(みこえ)を聞いた。

(ゆ)そして語れ。

しかしこれが最後である。この民にふたたび平和を語るな。

私は彼らの心を頑(かたく)なにして、わが審判を成し遂(と)げるであろう』

これを聴いて私はひどく恐れ、五体が震(ふる)えに震えて(や)まなかった。

 

今日はしも 我(われ)は世界に 世は我に

(そむ)き立つ日ぞ 五体ひた震う

(今日この日は、私は世界に 世は私に

(さか)らい立つ日。全身、震え止(や)まず)」

(『矢内原忠雄全集』第17巻、82~83項より引用。( )、〔 〕内、下線は補足)

注12 ​藤井武記念講演「真理の敵」

内村鑑三の高弟藤井武は、矢内原忠雄が学生時代以来、最も尊敬する先輩の一人であり、結婚後は敬愛する義兄であった。

矢内原は、特に藤井の純粋な信仰と真実な人柄に対して、大きな尊敬を抱(いだ)いていた。

1930〔昭和5〕年3月28日に内村鑑三が天に召された時、藤井武は重症胃潰瘍(いかいよう)の病床から内村の告別式に駆けつけて熱烈な追悼(ついとう)の辞(じ)を述べ、同年5月29日の内村鑑三記念講演会でも病躯(びょうく)をおして壇上に立ち、あらゆる真理の敵への宣戦布告を力強く述べた。

しかし、その1ヶ月半後の7月14日、今度は藤井武が世を去ったのである。

尊敬する二人の預言者の相つぐ死によって、矢内原は奮(ふる)い立った。この二人の死を乗り越えて、彼らの戦いを受け継ぎ、真理のため、正義のために戦わなければならない

1931(昭和6)年1月14日、日比谷市政講堂で開かれた藤井武記念講演会で、矢内原は「真理の敵」と題して語った。

〔藤井武〕は恩師〔内村鑑三〕の屍(しかばね)を〔乗り〕越えて戦うと言った。あらゆる真理の敵に向かって宣戦を布告する、と叫んだ。

 

その声はなお、われらの耳たぶに残〔ってい〕る。しかも彼〔藤井武〕その人が早くも戦死してしまったのだ。〔ああ、〕何ということか。

 

地上の戦いは、われらに遺(のこ)された。われらは彼の剣(つるぎ)を拾(ひろ)いあげて、敵に向かう。彼の屍を乗り越えて、真理の敵と戦う。

私は彼の死を悲しまない。〔むしろ、〕私は彼の剣を拾いあげて、敵に向かう。

内村先生は死んでも藤井が戦うと宣言したように、藤井も死んでもわれらが戦うことを、人類に向かって宣言しようと願うものである」(『矢内原忠雄全集』第24巻、783項。現代語化して引用)

こうして社会科学の一学究(がっきゅう)である矢内原忠雄は、福音のための戦士、正義のための預言者として立つべき使命を自覚し、戦場へと出(い)でたったのである。​(参考文献:同上『矢内原忠雄伝』、410~413項より抜粋。( )、〔 〕内、下線は補足)

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