人物・評伝

評伝 001

2020年10月7日改訂

タケサトカズオ

ふじい たけし

藤井武〗

 

 

聖書に学ぶ003【山上の嘉信】

聖書に学ぶ005【神の国を目指す旅人】

藤井武(1922年、34歳)

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藤井武と「山上の嘉信」

本サイトの〈聖書に学ぶ003〉に掲げた藤井武の「山上(さんじょう)の嘉信(かしん)」は、2012年7月の浜松聖書集会の夏期聖書講習会において配付した資料(現代語訳)に、手を加えたものである。


講習会で配布した資料は、もともと、1988年に千葉県・大網聖書研究会の文集に掲載したものである。文集への掲載後、24年の歳月が経過し、その間、岩波版・新約聖書の発行や聖書学の大きな進歩があった。

 

今回、それらの成果を参照し、改めて、現代語訳と補足をすべて見直した。聖書学の成果に関しては、特に、島崎暉久(てるひさ)著『マタイ福音書と現代(1)』(証言社)から大きな示唆を受けた。

 

山上の「嘉信」
マタイ福音書の5章から7章までは、一般に「山上の垂訓(すいくん)」または、「山上の説教」と呼ばれている。

「垂訓」や「説教」という言葉からは、信徒が守るべき道徳律を訓示したもの、また、教えを説(と)き聞かせたものといった含みが感じられる。


一方、藤井は、この箇所を「山上の嘉信」と呼んでいる。「嘉信」という呼び方は、彼がマタイ5章以下をどのように受けとめたかを端的(たんてき)に表している。


嘉信とは「嘉(よ)き音信」、つまり「喜びのおとずれ」という意味である。すなわち、嘉信は福音(ふくいん)と同義語である。


藤井は、マタイ5章以下のイエスの言葉を、天来(てんらい)の「喜びのおとずれ」、つまり福音として受けとめたのである。彼はこの箇所を、単に、道徳的な教え(道徳律)の体系的集合として受け取ったのではない。


ああ、幸いだ」と語るイエスの御言葉(みことば)の一つひとつを、藤井は、自らに対する「イエスの呼びかけ」また、「イエスの祝福」として聴いたのだ。

 

藤井は、人の世のさまざまな辛苦(しんく)を経験するごとに、また、何よりも、自らの罪に悩み神の義(ぎ)を求めて、イエスのもとに向かった。

 

その藤井に対し、イエスは親しく語りかけた。藤井は、イエスの細く静かな御声(みこえ)を聴いて、慰めと喜びを与えられ、希望に満たされた。


藤井は、心(霊)の耳で聴き取ったイエスのことばを文章に綴(つづ)って、発表した。それが、藤井の『山上の嘉信』である。

2

藤井武とは、だれか
藤井は、どんな人物なのか。どのような信仰に生き、どのような生涯を送ったのか。

藤井武は、1888(明治21)年~1930(昭和5)年まで、43年の地上の生涯を生きたキリスト者である。

今日、キリスト者の間でも、藤井を知る人は少ないだろう。まして、多くの日本人は、彼の名前を聞いたことさえないだろう。


藤井は、どんな人物なのか。どのような信仰に生き、どのような生涯を送ったのか。

矢内原忠雄による『藤井武全集』序文(1930年発行)
藤井武の第一次全集(1930〔昭和5〕年発行)の序文において、編者の矢内原(やないはら)忠雄(内村鑑三の弟子、元東京大学総長)は、藤井について次のように語っている。


「預言者(よげんしゃ)はその故郷において尊ばれない。

藤井武君もまた、武蔵野の一角に立ちて叫ぶこと10年、ついに国人(くにびと)は彼に耳をかさなかった。


しかし、知る人ぞ知る、彼は大正、昭和のエレミヤであった。われわれは彼のごとくに預言者らしく生き、また死んだ人を多く知らない。また彼のごとくにキリストの十字架の信仰を高唱したプロテスタント的勇者を見ない。

日本は確信をもって、彼を世界に誇ることができる。


神を絶対に義(ぎ)とした彼は叫んだ、神には打ち据(す)えられよと。神に絶対に信頼した彼は歩んだ、全く打算なき生活を。

真実は彼の生命(いのち)、孤独は彼の糧(かて)。純潔は彼の生活、希望は彼の歌。

エレミヤとダンテとを愛した彼の革嚢(かわぶくろ)には、国を愛して、しかも国に愛されない預言者の涙が満たされた。

 

ことに数年前、彼の妻の天国に召(め)されし(のち)、彼の生活は、この世に属(つ)けるものの歩みではなかった。彼は、全く来世(らいせ)の希望に生きた。

 

彼の研究、思索、詩歌(しいか)、感想は、かくのごとき生活をもってする聖書真理の表現に外(ほか)ならない。

その〕独創清新の香気(こうき)、〔野の〕百合(ゆり)の花のごとし。一言(ごん)一句、斬(き)らば、生命(いのち)がほとばしり出(い)づるであろう・・と。

南原茂による『藤井武全集』序文(1972年発行)

また、1972(昭和47)年発行の藤井武全集の序において、南原(なんばら)茂(内村の弟子、元東京大学総長)は、次のように語っている。


「藤井武氏を知るほどの人は、彼の生涯が何よりも闘(たたか)いの生涯であったことを知らぬ者はないであろう。


ことに、その最後の約10年、夫人を喪(うしな)った後の家庭において、多くの幼児を抱(いだ)き、〔自〕身もまた痼疾(こしつ胃潰瘍の持病)に悩みつつ、独立伝道者としての貧苦をつぶさに嘗(な)めながら闘ったのである。

 

伝道称しても、通常の方法とは異なって、世を退(しりぞ)き、武蔵野(むさしの)の自然を友とし、自宅に極めて少数の人たちの集会を持ったほかは、もっぱら個人雑誌『旧約と新約』を通して、聖書の福音的真理の証明に従事したのである。


彼がいかに苦難に耐え、世の名利(めいり)と一切の〔栄達の〕誘惑を糞土(ふんど)のごとく顧(かえり)みず、よく自己に打ち克(か)ち、自己に死んで、自ら正しと信ずるところに向かって闘ったかは、実に驚嘆の限りである。

 

彼は東大法学部卒業後、人生と社会の経験を得るために、当時の内務省に奉職(ほうしょく)し、ことに山形県においては彼の発案にかかる「自治講習所」を開設して、地方青年の育成を図(はか)った。

 

だが、福音の真理の直接伝道は夢寐(むじ)なお忘れず、ついに意を決して上京し、恩師内村鑑三(かんぞう)先生の共助者として、彼の新生が始まるのである。

それは世に対する闘いであると同時に、彼自身との闘いでもある。そして、彼は見事(みごと)にこの闘いをたたかい了(おお)せたのであった。


人は、そこに強靱(きょうじん)な意志的性格、果敢(かかん)な勇士の面影(おもかげ)を見るでもあろう。

実際、彼はもと軍人の家庭に生まれ・・・武と命名されたのも故(ゆえ)あること思われる・・・。

 

だが・・彼は他面、誰よりも弱い人であった。愛を求めて已(や)まず、純情にして人一倍感じ、泣き、悶(もだ)え、悩んだ人である。

この意味において、最も人間らしい人間は彼であった。弱きが故(ゆえ)に、弱きに徹したのである。

 

いささかの抵抗も虚飾もなく、そのまま、ある偉大なる者(神)の前に己(おのれ)を投げ出したのであった。

そして、その大きな腕に抱(いだ)かれて、疲れたときに休み、起(た)たされた間を闘ったまでである。彼には、それを「闘い」と呼ぶには、あまりに「自然」の生活であった。・・・


晩年、肉の血色(けっしょく)の著しく褪(あ)せゆくのに比例して、輝きを増し加えたのは、彼の眸(ひとみ)であった。

あの人懐(なつ)っこい、微塵(みじん)の疑惑の根跡(こんせき)をも止(とど)めぬ信頼深い目なざし! 

それを誰か忘れることができよう。

 

それ故に、恩師〔内村〕との間における少時の疎隔(そかく)の間にも、つねに師を忘れず、ふたたび〔師のもとに〕帰り来たり、師また大きな愛の手をもって迎えたことは特筆されていい。

 

ことに昭和5(1930)年3月、恩師が没したとき、告別式において、自ら病躯(びょうく)を押して「私の観(み)たる内村先生」と題して、烈々の追悼(ついとう)演説を行ったのは、実に彼であった。


このように、彼をして永遠の人》、〔来世〕待望の詩人たらしめたのには、特別の理由がなければならない。

それは、夫人喬子(のぶこ)の死である。

 

実に、この出来事こそは、彼の魂(たましい)に一大飛躍をもたらし、その双眸(そうぼう)と全霊とを天界に向けさせたところのものである。・・・


夫人は、また現代まれに見る女性の典型であった。彼女こそは、善と美とが常に共にあったような人であった。・・・

彼女が独立伝道者の若き妻として、窮乏(きゅうぼう)の中に、いかに一家の生活と子女の教育の一切を、か弱い肩に担い、かつ夫君(ふくん)の仕事を助けて、日夜(にちや)心を砕いたか。

夫君が時に心崩折(くずお)れ、あるいは逡巡(しゅんじゅん)したときに、いかに彼女が彼を励まし、決意させたことか。

それは、彼自身の告白するところである。


だが、人生半(なか)ばにして、突如この人を取り去られたときの彼の心の暗黒と苦悶(くもん)は、察するに余りがある。

それは、まことに地獄を通しての魂の呻吟(しんぎん)彷徨(ほうこう)にほかならない。

しかし、その呻(うめ)きと彷(さまよ)いの中から、やがて〔長編詩〕『羔(こひつじ)の婚姻(こんいん)』が高らかに歌い出されるのであった。

それこそ、地獄から煉獄(れんごく)を貫いて天界への魂の上昇であり、永遠の世界を望み観(み)た者の歓喜であり、凱歌(がいか)である。・・・

 

それは、最後の完結を見ないで終わったとはいえ、実に彼の労作中の労作であり、作者の性格と存在の全体が、そのなかに織りなされている。


彼の労作はそれのみではない。全集10巻のうちには『新生』『楽園喪失(そうしつ)』等の名著や、・・・アウグスチヌス等に関する研究もある。

いずれも、真摯(しんし)な魂の奥底から迸(ほとばし)り出る叫びと珠玉(しゅぎょく)の文字でないものはない。

 

ことに恩師の没後、たまたま日本が曾(かつ)てない一大危機に直面しつつあったとき、早くもその崩壊〔の予兆〕を看(み)て取り、預言者的熱情をもって、同胞国民に警告を発し、さらに日本と広く世界に向かって、〔唯物論的無神論の〕マルキシズムと〔享楽(きょうらく)的物質主義の〕アメリカニズムの二大時代精神に対し、真理の名において挑戦したのは、彼であった。


(よわい)43、人生の真昼時、陽(ひ)も赫々(かくかく)と輝いた夏の真盛りに、十有五年の闘いのさ中を、5人の可憐(かれん)な愛児らを残して、言(こと)一言も彼らの上に触れず〔神に委ねきって〕、黙って永遠の国を仰いで、彼は旅立ったのであった。

 

われわれは彼においてこそ、語の深い意義における近代の戦士の面影(おもかげ)を見るのである。・・と。


以上のように矢内原と南原は、藤井の生涯と信仰の本質について感銘深く語っている。

本サイトで藤井武とその文章を紹介できることは、大きな喜びであり、感謝である。

 

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