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聖書に学ぶ 019

2023年7月3改訂

詩篇研究

原著:藤井 

現代語化:サカマキ・タカオ

詩篇 第23

ヤハヴェはわが牧者

Psalm 23

The Lord is my Shepherd⑴

Takeshi Fujii

ヤハヴェはわが牧者〗 ⑵   

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* * * *

ヤハヴェはわが牧者⑴

詩篇第23篇

1.

ダビデの歌。

 

〔神〕ヤハヴェはわが牧者(注1)
私は乏しいことがない。

2.

ヤハヴェは私を緑の野に伏させ、
憩いの汀
(みぎわ)に伴われる。
    
3.

ヤハヴェはわが魂を生き返らせ、
御名の故
(ゆえ)に私を正しい道に導かれる。

4.

たとえ死の陰の谷を歩むとも、
私は災いを恐れない。
あなたが私と共におられるが故に。


あなたの鞭(むち)と杖、
それらは私に勇気を与える。

5.

あなたはわが敵の面前で
わが前に宴
(えん)を設け、
わが頭
(こうべ)に油を注ぎ
わが杯
(さかずき)を満たされる。

6.

わが命ある限り、
必ず恵みと慈
(いつく)しみが私を追う。
私はいつまでもヤハヴェの家に住むであろう。

(関根正雄訳、月本昭男訳、聖書協会共同訳参照)

1 


1-①-
詩人は人生を歌おうとして、その最も良き典型を、牧〔羊〕者に飼われる羊の生活にとった。

 

思うに自分の若き日における経験から、牧者と羊の関係がいかに美しいものかを熟知していた彼は、神に信頼する生涯の幸福(さいわい)を表現すべく、これよりも適(ふさ)わしい比喩を他に求めることができなかったのであろう。

 

こうして今、詩人の眼中、牧羊生活の光景が歴然として浮かび出(い)でつつある。

この一服の画(え)をモデルとして、その中から特に人生の深き〔現〕実〔経〕験を彷彿(ほうふつ)させる面影(おもかげ)を活写(かっしゃ)し、それによって詩人は、聖化された牧羊歌を自らの琴に上(のぼ)らせたのである。

 

それゆえ我らは、この歌〔、詩篇第23篇〕の純粋な意義を探るために、まずパレスチナの野における牧羊生活の光景を、その自然の趣(おもむき)のままに少しく想い見たいと思う。

〔1-①-ⅱ〕
 パレスチナにあって牧羊区として選ばれたのは、主として開けた丘阜(きゅうふ、丘と台地。注)うち続く高原地方であった。

 

もとより一帯の荒野である。〔そこ〕緑草の繁茂(はんも)を見ること〔は〕少なく、流水の響きを聞くこと〔は〕稀(まれ)であった。

照る日は(はげ)しく、いたずらに生き物〔たち〕を喘(あえ)がせた。道とは名のみ。ただ、此処(ここ)かしこ(彼処)に定かでない足跡(あしあと)がうねりくねりして、何処(いずこ)へともなく通じるものがあるにすぎない。

それすらもあるいは、たちまち断崖に尽き、あるいは険しき岩角を越えてわずかに彼方(かなた)へと連なった。

 

また山峡(さんきょう)〔の〕影暗き所には、狼、熊など多くの野獣が身を潜(ひそ)めて柔和な群れの通りかかるのを狙(ねら)い、加えて山賊の出没さえ、決して珍しいことではなかったのである。

〔1-①-ⅲ〕
ところがまた、弱きものは羊である。

 

彼らは身を守る〔ための〕何の武器も与えられていない。彼らは糧(かて)を探し求める特別な能力を持たない。

 

彼らほど迷いやすいものはない。そして一度(た)び道を誤り、独(ひと)り迷い出て群れを離れるならば、彼らは再び〔群れに〕帰ることはないのである。

 

この世で〕まことに弱く、そして頼りないものは羊である。

〔1-①-ⅳ〕
このような者がこのような荒野に放たれて、いかにしてその生を全(まっと)うすることができようか。

 

彼らはいかにして日々、飢えを充(み)たし、渇きを癒(い)やすことができる〔だろう〕か。いかにして、常に〔道に〕迷わずにいられる〔だろう〕か。

 

いかにして、恐るべき敵の来襲から脱(のが)れることができる〔だろう〕か。

 

大いなる窮乏(きゅうぼう)と迷誤(めいご)と不安、そしてそれに基づく悲惨な破滅が、彼らの生活の全部(すべて)ではないか。


ところが事実は、全くその反対であった。

世にも頼りない羊は、荒涼とした荒野にあって、ただ破滅しなかっただけでなく、かえって最も幸いな日を送ったのである。

 

彼らは〔自らの〕生を全うするために必要なものは何一つ、欠乏を感じなかった。糧も豊かであった。道に迷う恐れもなかった。危険に対する安全も十分に保証されていた。

 

彼ら自らは、憐れむべき弱者であるにもかかわらず、またその環境は悩み多き荒野であるにもかかわらず、思い煩(わずら)うことなく、恐れ惑(まど)うことなく、静かに平安な生涯を送ったのである。


〔1-②-ⅰ〕
 この大きな謎を解く鍵は、何か。いわく、牧者!

一人の牧者にそのすべての解決があった。

 

羊は牧者の愛に自分の身をすべて任(まか)せ、それによって彼の知恵と能力をことごとく自分のものとしたのである。


牧者は深く、羊を愛した。

彼はもちろん、自分の群れに属するすべての羊を一つ一つ、知り抜いた。その性格、その経歴、その健康状態等について。そして絶えず、羊たち各々の必要を察知した。

彼はまた、羊たちのために荒野における緑地と水流を探索し、その所在を熟知していた。そして必要に応じて羊たちをそこに導き、そうすることによって新しい力を彼らに供給することを怠らなかった。

 

また常に、自ら群れの先頭に立って、杖を挙(あ)げつつ羊たちを正しい道に導いた。

 

道はある時は、暗き谷を過(よぎ)った。このような時には、猛獣の襲撃を受けることを十分に覚悟せねばならなかった。しかし、良き牧者は恐れなかった。彼は自分の命を捨ててでも、羊を保護しようとした。

 

羊のために〔自分の〕命を?

それは、あまりに愚かなことであるかも知れない。しかも牧者にこの覚悟がなければ、残念ながら、ついに牧者としての責任を尽(つ)くすことはできないのである。

〔1-②-ⅱ〕

イエスは言われた。〕


良い牧者は羊のために命を捨てる。牧者でなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。

――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」〔と〕(ヨハネ 10:11~13)。

 

雇い人ではない良き牧者には実際、この覚悟があったのである。他人はいざ知らず、詩人ダビデ彼自身がその人であった。

〔1-②-
彼がなお若く、ベツレヘムの辺(あた)りで父の羊を牧(かっていた時、ある日突如、獅子(しし)と熊が現れ、群れを襲って、群れが狼狽(ろうばい)、散乱している間に一頭の小羊を銜(くわ)え去った。

 

これを見た若き牧者の血は沸いた。

彼はまっしぐらに猛獣の後を追い、たちまち追いついたかと見る間に、躍り上がって渾身(こんしん)の力を込めた一撃を猛獣に(むく)いた。

 

猛獣は驚いてその口から小羊を落とすと共に、振り返って直ちに彼に猛(たけ)りかかった。しかし若き牧者は左手でその鬚(ひげ)を捉え、右手を揮(ふる)って、ついにこれを撃(う)ち殺したのである。

 

こうして失われようとした一頭の小羊は、彼〔の腕〕に抱(いだ)かれて再び、その群れに帰った。

 

何と〕雄々しくも、優しき物語〔であること〕よ(サムエル上 17:34、35)。

〔1-②-
少年ダビデにこの勇気を起こさせたものは、何だったか。

 

それは柔和な小羊に対する〔彼の〕犠牲的な愛に外(ほか)ならなかった。

 

思うに彼が羊を牧(やしな)って野にいた間、いつもこの愛をもって羊たち一つ一つに〔相〕対したのであろう。

 

そして、ただダビデだけではない。今日であっても牧者はしばしば、自分の羊を護(まも)るために自分の生命を捨てるとは、トムソンがわれらに報告するところである。

 

良き牧者は、失われようとする一頭の小羊を取り戻すためには、あたかも世界にただその者だけが存在するかのように、一切を棄(す)ててこれに当たるのである。

〔1-②-
そして牧者のこの深き愛は、無言の動物の心にも反響を呼び起こさずにはすまない

 

牧者と彼の群れ、人と動物、その間に越えることのできない谷がある。

それにもかかわらず、愛は此方(こなた)から彼方(かなた)へと通ずる。

二者は、愛を基礎とした共同の生活を営みつつあるのである。

 

寂寞(せきばく)とした荒野にあってただ独(ひと)りの牧者はただ、昼も夜も自分の羊を守って暮らす。〔夏の〕暑き日の光の下にも、〔冬の〕冴(さ)え渡った星影の下にも、彼は柔和な群れのただ一人の伴侶である。

二者は起臥(きが)を共にし、苦楽を共にし、運命を共にする。

 

このような親しい関係にあって、牧者の限りなく濃(こま)やかな同情は、たとい〔その対象が〕動物であっても、牧(やしな)れる者の心に感応(かんのう)せずにはやまない。

 

だが牧者が羊たちを識(し)るように、羊たちもまた彼を識る。そして全幅の信頼をもって彼に従う。

 

牧者がその口を開いて呼べば、可憐(かれん)な群れは喜んで彼の許(もと)に集(つど)牧者が一度(た)び、杖を上げて先頭に立てば、見よ、羊たちは相携(あいたずさ)えて、直(ただ)ちにその後(あと)に続くのである。

 

牧者が今から何処(いずこ)にその群れを導こうとしているのか、羊たちは知らない。

 

しかしながら、たとい豊かな緑の牧場(まきば)(す)て、踏むに悩ましい道を辿(たど)って、まだ見たことのない野へと導かれても、羊たちは疑うことなく安心して、ただ彼に従い行くのである。

〔1-②-
環境は荒野である、自分は弱者である。

しかしながら、それらのことは羊の生涯の価値を決める上で、何らの条件をも形作らなかった。

 

弱者、必ずしも無力ではない。荒野における生活、必ずしも不幸ではない。いや、むしろ、〔牧者の〕愛があり、これに対する信頼があるならば、荒野も豊かな楽園と化し、弱者も恐怖を知らない勝利者として存在することができる

 

牧者の愛は、羊のために自分の生命を捨てる至高の愛であった。これに対する羊の信頼は、単純で絶対的なものであった

 

このようにして、羊は牧者の持つものすべてを自分のものとしたのである。実に、牧者の生命までが確実に羊のものであったのである。

 

羊は自ら、緑地と水流がいずこにあるか知らなかった。しかし牧者はこれをよく知っていた。それゆえ、羊たちは少しも憂(うれ)えなかった。

彼らは自ら、いずこに向かって、どのようにして進むべきか知らなかった。しかし牧者は、常に先頭に立った。それゆえ、彼らはただ安心して従った。

 

羊たちは影暗き山峡を通る時、しばしば猛獣の咆哮(ほうこう)を聞いた。しかし、恐れなかった。なぜなら、牧者が彼らとともに在(あ)ったからである。

 

羊たちは荒野にあって弱く、貧しく、愚かであった。しかしながら一人の牧者がいるがゆえに、彼らは強く、かつ富み、かつ慧(さと)くあったのである。

 

つまり〔我らは〕知る、羊たちの生涯の価値を定めるべき唯一の原因は、牧者にあったことを。

〔1-②-〕             
牧羊生活の意義を軽く見るのは、誰か。人生の深き実験を暗示する資料として、これほど適切なものがあるだろうか。

 

まして詩人〔ダビデ〕彼自身がかつては、夜となく昼となく杖を携(たずさ)えて群れの側(かたわ)らに立ったのである。そしてある時には、現実に自分の生命を羊たちのために捨てようとしたのである。

 

この人に人生を歌わせよ。

ヤハヴェはわが牧者」との彼の一言に、言い表すことのできない意義と権威がある。

〔1-③- 
人生もまた、荒野である。

そこに、〕磊々(らいらい)たる岩のいかに多いことか。悩みの谷はしばしば、わが前に当たって開く。道は幾(いく)たびか荊棘(けいきょう)中に窮(きわ)まり、それが何処(いずこ)に向かって通じ〔てい〕るのか分からない。

 

思いがけない敵が思いがけない時に、私を撃ち来る。ことに敵の中の敵であるサタン(悪魔)が「吠(ほ)えたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回って」いる(ペテロⅠ 5:8)。

 

誘惑! 誤解! 失敗! 生活難! 病気! 死別!

それらのただ一つでさえ、負い難き重荷であるのに、多くの人は時として、その幾つかを併(あわ)せ受けなければならない。その他、絶えず我らの霊と肉を痛ませる原因は、数え尽くすことができない。

人生は荒野である、というこの平凡で深刻な事実を誰が否定できよう。

そしてこのような環境の中に放たれている人類はみな、驚くべき弱者である

誰も自分の力によって、人生のなやみから脱(のが)れ出ることはできない最も華(はな)やかに見える生涯でさえ、試(ため)しに皮一重を剥(は)ぐならば、その下には、ひどく苦(にが)い経験を蔵(かく)しているのである。

〔1-③- 
享楽(きょうらく)天才と謳(うた)われたゲーテにも、次のような述懐(じゅっかい)があった。

彼は言う。

 

人はいつも、私を運命の最大寵児(ちょうじ)と呼ぶ。私自身も、今日まで取って来た〔自分の〕道について、かれこれ苦情を言おうとは思わない。

しかし実際のところ、〔私の人生には〕苦労と心配の外(ほか)、何もなかった

 

私の75年の全生涯の中で本当に楽しかった時は、ただの一月(ひとつき)もなかったのである。

 

私はいわば、いつも上へ上へと持ち揚(あ)げなければならない一つの石を、絶えず転(ころ)がしてきたに過ぎない」と(エッカーマン『ゲーテとの対話』中より)。

 

常に人生を風刺して、自ら驕(おご)っていたヴォルテールなども、その晩年に至り〔、人生を〕嘆(なげ)いて言った。

私は生まれて来なければ良かったのに」と。

 

このように「ヴォルテール主義の最後の言葉は、一種の呻吟(うめき)だったのである」(ケーヤンズ)。

 

そして彼らは〔、人類〕多数の代表者にすぎない。いつの世にあっても人は皆、彼らと同じように呻吟(しんぎん)し、嘆息(たんそく)しつつある。

 

まことに「人類の最も深い心情-その永遠の基調は、悲観(ペシミズム)である」とハルトマンが述べた通りである。

 

彼らの有する僅(わず)かばかりの知恵と能力は、彼らのたましいに平安を供給するには、何の役にも立たない

〔1-③- 
現在の世界の状態が、そのことをよく証明している。

万国の民が総立ちとなって、歴史上比類ない、新しくかつ熱心な努力を試みているにもかかわらず、いたずらに思想の混乱と社会組織の動揺を募(つの)らせるのみであって、人類は日々、大いなる不安を繰り返しているではないか。

 

しかも、昨日の「真理」は今日すでに、誤謬(ごびゅう)として葬(ほうむ)られ、今日の「希望」は明日、早くも失望と化す。

 

国際連盟または過激主義その他、最近行われた数多くの主義または〔改革〕運動のはかなき運命は、人類の無能についての皮肉な風刺(ふうし)である。

 

何故(なにゆえ)、20世紀の今日、世界的戦乱という高き代価を払いながら、なお平和の曙光(しょこう、夜明け。注)さえ見出すことができないのか。

何故に革命の巷(ちまた)から文明国の首都に至るまで、民〔は〕みな不安の中に座しているのか。

 

奇観と言えば、奇観である。しかし実は、不思議に思うまでもない。

 

それは、〕人類は驚くべき弱者だからである。彼らは人生の荒野にあって自己に頼る限り、とうてい窮乏と迷誤(めいご)と不安から逃れるべくもない〔のである〕。

 

〔つづく

♢ ♢ ♢ ♢

(原著:藤井武「エホバはわが牧者なり(詩篇 第23篇)」初出『旧約と新約』第93号、1928〔昭和3〕年3月。「藤井武全集 第4巻』岩波書店、1971年、231~238項を現代語化。( )〔 〕内、下線は補足)

 

注1 ヤハヴェ  Jahweh

旧約聖書の神の固有の名。ヤウェとも標記する。

 

口語訳聖書や共同訳聖書では、「主」と訳されている。文語訳聖書では「エホバ」と訳されたが、聖書学的には非歴史的な誤訳とされる。

ユダヤ教では神名を口にすることをおそれ(十戒の第3戒、出エジプト 20:7)、その名をアドナイ(「主人」の意)と読ませた。

神はご自身の名を、イスラエルを選び、エジプトから救い出して(「出エジプト」)ご自身の民とする恵みと召命(しょうめい)を示すさいに顕(あらわ)されたが、後に天地宇宙の創造者、万民の主として自らを顕し、ついにキリストにおいて万人に対するご自身の愛を啓示された。

​(参考文献:山谷省吾著、東海林勤補訂『新約聖書小辞典』新教出版社、1989年、175項

聖書学002〖神名ヤハヴェとエホバ〗

注2 詩篇研究 「エホバは我が牧者なり(詩篇第23編)

Psalm Study "The Lord is my Shepherd  Psalm 23"

以下に、原文の一部を引用する。

​原 文

Original text

1.エホバは我が牧者なり、

  我れ乏しきことあらじ。

2.エホバは我を緑の野に臥させ、

  憩ひの水浜に伴ひ給う。
・・・

・・・

人生も亦た曠野である。磊々たる岩のいかに多きことよ。悩みの谷は屢々わが前に当たりて開く。途は幾度びか荊棘中に窮まり、その何処に向て通ずるかを知らない。思はざる敵は思はざる時に我を撃ち来る。殊に敵の中の敵なるサタンの「吠ゆる獅子の如く歴巡りて呑むべきものを尋ぬ」るがある(前ペテロ 5の8)。誘惑! 誤解! 失敗! 生活難! 病気! 死別! それ等のただ一つでさへ負ふに難き重荷であるに、多くの人は時としてその幾つかを併せ受けねばならぬ。其他絶えず我等の霊と肉とを痛ましむる原因は数へ尽すことが出来ない。人生は曠野であるといふ此の平凡にして深刻なる事実を誰か否定するものがあらうか。

・・・

(『藤井武全集 第四巻』岩波書店、1971(昭和46)年、「詩篇研究  エホバは我が牧者なり(詩篇第二三編)」、236項より原文のまま引用)

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