<神学研究(神学・論文&教義学)

神学・論文 005

2019年6月30日改訂

高橋三郎

 

〖 最後の晩餐 〗

〔-神の恵みに直に向き合う-〕

 

人物紹介「高橋三郎」へ

 すべてのものを 与えしすえ
 死のほか何も 報いられで
 十字架の上に あげられつつ
 敵を赦しし この人を見よ

 この人を見よ この人こそ
 人となりたる 生ける神なれ
 (讃美歌121番)


この〔讃美歌の〕最後の〔行の〕言葉の中に、キリスト信仰の真髄が深く凝縮していると私は感じます。
その内容をより深く理解し受け止める事が、今日のお話しの目的です。

 

1

主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、「これはあなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。(コリントⅠ 11:23~24)

 

引き渡される夜」という言葉を、もう少し具体的に説明すると、この晩餐(ばんさん)が終った数時間後には、イエスはすでに逮捕され、その後さらに数時間たった時には、すでに十字架につけられていました。つまりこの晩餐の後、12時間くらいたったとき、イエスは死刑の執行を受けていたのです。

この緊迫した死の寸前に、この晩餐が行われたのでした。

 

また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです(25~26節)。

 

この語録は、後に「聖餐式制定の言葉」として言い伝えられた大切な証言で、これを受け止めた初代の信徒たちは、これを忠実に実行したに違いありません。しかもそれは単なる記念の会食ではなく、
「私の血によって立てられる新しい契約
という言葉が示しているように、この会食の場で救いの契約が締結されたと言うのですから、弟子たちが繰り返したこの会食は、イエスの救いにあずがるための恵みの場となり、そこで受領するパンを通して救いが伝達される、と弟子たちは信じるようになりました。

 

こうしてこの会食は祭儀(さいぎ)され、聖餐式というサクラメント(聖なる儀式)になったことは、当然の成り行きであったかも知れません。

 

サクラメントとは、聖なるものという意味で、これを通して聖なる救いが与えられるとされたのです。

 

2

さてイエスが十字架につけられたとき、弟子たちは失望落胆して散り散りになったのですが、その失意の中から彼らを再び立ち上がらせたのは、復活者イエスの顕現(けんげん)でした。

第一コリント書第15章に記されているように、イエスは多くの人の前に顕現して、その聖なる御姿(みすがた)は弟子たちを別人のように立ち直らせました。

 

こうしてエルサレムへの再結集が成し遂げられたのですが、この信徒の群(むれ)は聖日ごとにこの聖餐式を繰り返すことによって、地上における教会としての歩みを開始しました。


バラバラになっていた弟子たちを一つに結び合わせたのは、生けるイエス・キリストご自身でしたが、彼らの前進の中核になったのは、この晩餐であったのです。

 

しかもこれは、〔エジプトの奴隷であった〕旧約の民イスラエルがエジプトから脱出(出エジプト)を敢行した後、「過ぎ越しの祭り」を毎年繰り返すことによって、神の民としての自己認識を更新したのに対応する出来事でした。

イスラエルにとっては、エジプトから救い出されたことが民族発祥の原点でしたから、その出(しゅつ)エジプトの記念として「過ぎ越しの祭り」が中心になったのは、当然の成り行きでした。

 

これに対応するものとして、新約の世界では「聖餐式」が、地上の教会の中心となりました。

この両者の対比を示すために、〔マルコ、マタイ、ルカの〕共観(きょうかん)福音書では、あの最後の晩餐は過ぎ越しの祭りの会食〔に相当するもの〕であった、とされています。

 

この日付は共観福音書の記者にとって、きわめて大切であったに違いありません。

過ぎ越しの祭りと聖餐式が対応していることを、この〔同じ〕日付によって示そうとしたと思われるのです

しかしヨハネ福音書はこの日付に異議を唱えて、最後の晩餐が行われたのは過ぎ越しの祭りの前日であったとしています。

それだけではなく、パンとブドウ酒についてのイエスの言葉も、ここ〔ヨハネ福音書〕には見当たりません。

そこから、〕新約聖書が成立した当初から、この最後の晩餐は論争の対象になっていたことが分かるのです。

しかもこの論争は、その後の教会史を通して、現代にまで波及しました)。

 

3

さてこのように、聖餐式がサクラメントとして祭儀化されたことは、難しい問題をもたらすことになりました。

 

これは私の体である」とイエスが言われたとされていますが、聖餐式において司祭から信徒の囗に入れてもらうパンが、本当にイエスの体なのか、あるいはそうでなくて、パンには変わりないけれども、復活者イエスがそこに共存していると見るべきか、あるいは復活者イエスを指し示す象徴だと解すべきか、多くの見方が互いに対立し、これが教会分裂の原因になりました。


その一例として、ドイツの宗教改革者ルターと、スイスのチューリッヒで宗教改革を推進したツウィングリとが、お互いにどこまで信仰の一致を確認できるかを確かめるため、ドイツのマールブルクで会談したとき、聖餐式についての見方で一致できなかったため、両者は決裂せざるを得ないという不幸な結果になりました。

 

ルターは文字通りに、パンは本当にキリストの体である〔共在説〕と主張したのに対して、ツウィングリは、パンはキリストの体を意味するところの象徴である〔象徴説〕と主張して、〔互いに〕譲らなかったのです。

 

のため会談は決裂し、ツウィングリはその後間もなく、カトリックとの戦場において、戦死してしまいました。新約聖書が成立した当初、かくも重大な結果が将来起こるとは、誰もが考えなかったでしょう。


次にもう一つ、聖餐式におけるパンが本当にイエスの体であり、特別のパンだという建て前を貫くためには、司祭とか牧師とか特別の聖職者だけがこの式を司(つかさど)ることができる、という秩序を守らなければならなくなり、聖職者と平信徒が明確に区別されて、制度教会がそこに成立することになりました。


しかしそれよりも、もっと重大な問題があります。

パンは人間の手中にあり、式を司る司祭や牧師も人間ですから、教会は聖餐式を手中に抱(かか)え込むことによって、宗教的支配権を確立することができたばかりでなく、やがて後には、政治的支配権までも、掌握するに至りました。

日本にいては想像できぬような事態が、ヨーロッパでは起こっているのです。


11世紀の出来事ですが、ローマ法王グレゴリウス7世が、ドイツの皇帝ハインリッヒ4世と厳しく対立して、これを破門(はもん)する事態となりました。

 

ドイツは当時神聖口ーマ帝国と呼ばれており、本来ローマ法王庁を護(まも)る役目を担っていました。

つまりその国王ハインリッヒ4世は、武力を握っていたのです。

しかしグレゴリウス7世の宗教的権威は、はるかにより強大でした。

 

そしてハインリッヒは切に赦しを乞い求めるほかなくなり、グレゴリウスがイタリア北部にあるカノッサの城に滞在していたとき、ハインリッヒはその城の前に3日間も立ち続けて赦しを懇願し、やっと赦しを受けることができました。

 

これは有名なエピソードですが、教会がかくも大きな権力を握るに至ったとは、実に驚くべきことではありませんか。

 

聖書成立当初の信徒たちは、将来このような事態に発展しようとは、考えることもできなかったでしょう。そしてこの事実は、制度教会発足の端緒となったサクラメントとしての聖餐式の制定は、間違っていたのではないか、という疑問を抱かせます。

 

もしそうだとすれば、イエスはあの夜何を意図されたのかということを、改めて問い直さなければなりません。

 

この問いに応えるため、イエスの公生涯の全体を、総括的に見直してみたいと思います。

 

4

私の見るところでは、イエスの公生涯は前半と後半とに大別できる、と思います。

 

イエスの宣教活動はガリラヤから始まり、病いの癒しや視覚障害者を見えるようにすることなど、様々な具体的救済が中心でした。

地域の点でも、ガリラヤから北に向かってツロ、シドン、ピリポカイザリヤに至り、東はデカポリス、南はサマリヤまで、色々な地域をイエスは巡回しました。

 

これが公生涯の前半であり、その終りが近づいたとき、イエスは弟子たちを連れて、決然とエルサレムへ上(のぼ)って行きました。このエルサレム上り以後と以前とに、大別できると思うのです。


エルサレムでは僅か1週間くらいの短い期間でしたが、決定的な出来事が相次ぎました。

 

その最初の御業(みわざ)は神殿の粛清(しゅくせい)でした。

福音書の記述によると、あの広大な境内(けいだい)にいた両替人の台を蹴とばし、鳩を売る者を追い出すというような実力行使によって、神殿を清めようとされた、と言われているのですが、これだけではイエスの最終的意図が何であったのか、よく分かりません。

むしろ非常に不思議な叙述との感を深くします。

 

しかし全体的に見渡してみると、当時大祭司を頂点とする宗教的組織が神殿に依拠して、民の上に君臨していたのですが、これは腐敗の極にありました。

 

諸国民の祈りの家であるべき神殿は強盗の巣と化している、とイエスが糾弾されたように、神の御名(みな)によって救いを施すという宗教組織が、〔実態としては〕堕落のどん底にまで落ちていました。

イエスは断固としてこれを粛清しなければならぬという重大な課題を、突きつけられていたのです。

 

そしてこの神殿宗教がかくも強大な権力を掌握できた根拠は、動物の犠牲と引き換えに、大司祭が罪の赦しを宣言するという仕組みにありました。

これによってこそ大司祭は、神の名において支配権を行使できたのですが、これが腐敗の極あったとすれば、イエスはこれを放置できなかったでしょう。

 

偽瞞(ぎまん)絶頂に達していたこの神殿宗教を、根源的に粛清することこそ、イエスの生涯の最終目標であった、と思うのです。


この必死の突撃に対して、大祭司を頂点とする祭司集団が、存立の危機を感じて反撃に出たのは、当然のことでした。こうしてイエスは十字架の死へと追い詰められて行ったのです。


ここまで理解を深めて行くと、イエスが死の直前に行われた最後の晩餐において、何を意図したのかという内容を、明らかに理解することができる、と私は思います。

 

神と民との間に神殿宗教が割り込み、両者の間を遮断していることが問題でした。

民は困窮の中に弱り果てていたにも拘(かかわ)らず、祭司集団は見向きもしないで、自分の権威を誇っていたのです。

 

この事態に対するイエスの戦いが、どうしても貫徹できなくなったどん詰まりにおいて、イエスはご自分の存在を通して神と民との間を繋(つな)という、全く新しい道を開かれたのです。実に驚くべき根源的な宗教改革でした。

 

イエスの死を通して、神殿宗教とは全く別に、新しい救いの道がここに開かれたのです。

私の流す血によって立てられる新しい〔救いの〕契約」というイエスの言葉は、人類史上空前絶後とも言うべき宗教改革の宣言でした。

 

繰り返して申しますが、神殿宗教を媒介とするのではなく、イエスという神の独り子を通して、神と民との間が〔直接、〕繋がりました。

 

私共はこの恵みの故に、信仰によって生きることを許されているのです。

 

5

このように見てくると、あの最後の晩餐こそ、イエスの生涯のクライマックスであったことが分かります。

 

今や神殿宗教の媒介を必要とせず、御子イエスの生命(いのち)を通して神の救いにあずかる道が開かれました。

 

これが最後の晩餐の示す結論であったのですが、弟子たちがこれを祭儀化してサクラメントとしたときこの儀式を通して救いが伝達されるという新しい思想が現れたばかりでなく、教会はこの聖餐式を手中に握ることによって、ここ〔教会〕以外には救いはない、と宣言できる立場に立つことができました。

教会の外に救いなし」というキプリアヌスの命題が、3世紀から第2バチカン公会議(1965年閉幕)に至るまで、カトリック的救済観の中核となりました。


しかもそれだけではなく、魔術への道もそこから開かれる可能性が生じました。

 

使徒教父の一人として令名高きイグナチウスは、聖餐式のパンを「不死の霊薬」と呼びました。

このパンを食べれば永遠に死なない、パンはその為の薬である、と言うのです。そこからほんの一歩進めば、魔術の領域に入るではありませんか。


今から数十年前のこと、日本のカトリック教会は、フランシスコ・ザビエルの日本伝道400年の記念式を行ったのですが、そのとき彼らは、ザビエルの腕と称する遺物(いぶつ)をかついで練り歩いたのです。

 

ザビエルの腕と我々の救いに一体何の関(かか)わりがありますか。もしその腕に何かご利益(りやく)があるとすれば、それは魔術的思想ではありませんか。

当時矢内原忠雄先生が厳しくこれを糾弾されたことを、私は昨日のことのように思い起こします。
 

その上更に重大なのは、既に述べたように、教会は聖餐式を抱え込むことによって、かつてエルサレムの神殿宗教が民の上に宗教的支配権を握っていたのと、全く同じ姿に帰ってしまったことです〔。

こうして驚愕すべきことに、弟子たちが祭儀化したサクラメントとしての聖餐式は、最後の晩餐に込めたイエスの精神と正反対のものに変質してしまったのです〕。

 

これがいかに重大な問題状況を生み出したかという実情を、分かり易く理解するためには、天皇を神と仰いだ日本の皇国(こうこく)思想が、東亜(とうあ)の天地に残虐非道な侵略戦争を推し進める宗教的母胎となったことに、一つの類比を求めることができるでしょう。

 

絶大なる宗教的・政治的支配権を確立した教会が、いかに戦争に次ぐ戦争を行ってきたか、第1次・第2次世界大戦は、キリスト教国どうしの間で戦われたこと、またブッシュの率いるアメリカの戦争への執念を、キリスト教右派の人々が支えていることを、見のがしてはなりません。

 

内村鑑三は、教会と可戦論とは不離一体の関係にある、と断言しましたが、その根源は、聖餐式を手中に握ることによって、教会が宗教的支配権を握ったところから始まった、と私は思うのです。

 

6

次にもう一つ、救いの確かさについての不安という問題にも、目を向けなければなりません。

 

私共は信仰によって救われると信じているのですが、これだけでは頼りなく不安なので、もっと確かな保証が欲しいという人のために、サクラメントはありがたい逃げ道を提供することになりました。

 

洗礼を受けたから私は救われている、聖餐にあずかることによって、私は永遠の生命を与えられた、というような思想がまかり通るとすれば、それは福音信仰の自殺と言わねばなりません。

 

パウロはこの問題の重要性を認め、サクラメントによって救いは保証されないということを、次のように語りました。

 

私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属する者となる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。

彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。

しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、私たちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、私たちが悪をむさぼることのないために。(コリントⅠ 10:1~6)

 

パウロはここで、イスラエルのエジプト脱出の歴史を回顧しながら、サクラメントの問題を、そこに見据えています。

 

この民は紅海を渡ってモーセに従ったのですが、これは洗礼を受けた事になる、とパウロは見ました。

またこの民は荒野で天から降って来たマナによって養われたのですが、これは霊的な食物を食べたということで、モーセが杖で岩を叩(たた)くと水が湧き出て、民はそれを飲んだのですが、あの岩はキリストであって、民は霊的な飲み物を飲んだ、とパウロは解したのです。

 

このようにイスラエルの民はバプテスマを受け、聖餐にあずかったにも拘らず、大部分が荒野で死んでしまったではないか。サクラメントは救いの保証にならぬということが、はっきり分かるではないか、というのがパウロの結論でした。

 

これはパウロの信仰義認論の根幹に触れる問題であり、「人が義(ぎ)とされるのは、律法の行いによらず、信仰による」(ローマ 3:23)という命題は、「人が〔神の前に〕義とされるのは聖餐式によらず、信仰による」と言い換えることもできましょう。

 

これが、信仰のみによって救われるという、彼の信仰の中核でした。

 

7

以上で、聖餐式をめぐる諸問題が、一応明らかになったかと思います。

 

要約して述べると、「私の記念としてこのように行いなさい」というイエスの御言葉に従って、カトリックの信徒は、聖日ごとに聖餐式を行うという道を歩みました。

 

しかしプロテスタント教会は、御言葉を重視する立場に立って、説教に重点を移したのですが、洗礼と聖餐式は離しませんでした。教会は洗礼と聖餐式なくしては、存立できないのです。

 

以上の二つの流れに抗して、無教会は聖餐式なき信仰共同体として歩んできました。これはイエスの戒めを無視しているかのように見えるかも知れませんが、今まで述べてきたことで分がるように、それなりの理由がある、と言うことができましょう。


だがそれにしても、「私の記念としてこのように行いなさい」というイエスの御言葉を、無教会はどのように受け止めたのでしょうか。

 

この問題に関連して、忘れることのできぬ一つの問題提起を、申し上げることにいたします。

今から50年程前のことですが、マインツ大学のホルステン教授が、私に向かってこう言われたことがあります。

聖餐式が救いの条件だとは、我々は言わない。しかしあなた方は、聖餐式を全面的に拒否することによって、自分の気づかぬ内に、何か大切なものを失うのではないか」。―


当時私は、この言葉にいかなる含蓄がこもっているのかを、理解できませんでした。しかし最近になって、やっと分かりました。

 

我々の集会は、いま危機に直面しています。

ここで捧げられる祈りや、ここで語られる聖書講話の中で、神が御子イエスを我らのためにお捧げ下さったという絶大なる恵み、絶大なる犠牲を、視野の中心に据える発言に、私はこの半年の間、一度も接したことがないからです。

 

いやそれだけではない。我々は3月28日が近づくと、毎年内村鑑三記念講演会を行い、これが無教会の統合の中心になっているかのような観を呈しますが、これは受難週と重なる場合が少なくありません。

しかし無教会は、主の受難を記念する集会はほとんどしないで、内村鑑三という人物を、連綿と記念してきました。

 

重点の置き方が、ずれているのではないでしょうか。信仰の原点復帰が成し遂げられていないのではないか。

 

無教会の危機を口にする人が最近多くなりましたが、こういう事態を招いた根本的理由は、あの最後の晩餐を通して私共に与えられた尊い贈物を、真向から受け止めようとする真剣さが欠けているからではないか、と私は思うのです。

 

8

しかし私は、単なる批判を語ろうとしているのではありません。

 

私の記念としてこのように行いなさい」という戒(いまし)めを、無教会は祭儀によってではなく、信仰によって具現しようと努めてきた、と私は思うのです。

これを見事に実践した方がありますので、それをお取り次ぎすることにします。


いま札幌で晩年を過ごしておられる竹内常一郎氏(88歳)は、ご自分の信仰の生涯を総括する貴重な証言を、島崎暉久(てるひさ)主筆の『証言』誌164号(2005年9月号)にお寄せ下さいました。

 

それによると竹内さんは、高等小学校を卒業した後、ただちに小樽市役所に給仕として就職されたとのことです。当時は小学校6年の上に、2年の高等科が接続していましたから、竹内さんは小学校八年の過程を終えた後、就職したことになります。つまり15、6歳の少年時代に給仕として就職したのです。

 

この給仕時代に、一つの尊い出会いが与えられ、聖書の使信を語る小冊子を手にして、熱心に読み耽(ふけ)りました。

 

そこには天地の創(つく)り主(ぬし)なる神と、その独り子なるイエスについて述べた後に、「そのイエスを求めて祈るならば、イエスが与えられる」とも記されていました。これは「求めよ」という勧めの言葉だと受け止めて、彼は熱心に祈り始めました。


それで私は、この小さな冊子をかかえて、とにかく祈りました。

仕事が始まる1時間前に、市役所の議事堂に入って、祈りました。そして祈ることができる場所と時間があれば、いつでもどこでも祈りました。

 

祈りの内容は、『神さま、どうかイエス様を下さい』というものでした。・・・・6ヶ月ほど、毎日毎日、生けるイエス様を求めて祈りました・・・・


祈りの最中に、本当にイエス様が現れました。イエス様が私の前にお立ちになったのです。

あまりの荘厳さに圧倒され、私は畳に頭をつけて、拝しました。暗黒に閉ざされていた私の心が、超越者の光で隈(くま)なく照らされる。

 

見ると、荘厳なお方が、雲のような天使に囲まれて、立っておられる。『キリストだ!』喜びが湧いて来て、歓喜となって心に満ち溢れる。・・・・ここが竹内の故郷なのだ、竹内の故郷を発見した!

 

貧窮のどん底から、死よりつらい罪意識の絶望から、この言葉を口にしながら、這い上がってきた」。


こうして竹内さんはキリストへの讃美と歓喜に踊る身となったのですが、これだけを見ると、体験中心の熱狂主義が連想されるかも知れません。

しかし この顕現が単なる幻想であったか否(いな)かということを、その後の生涯が証言するものとなりました。

 

生けるキリストが現存するのかどうか、この一点を証言することが、私の生涯のすべてとなった、と氏は述べておられます。

 

あの〔太平洋戦争の〕戦時中に〔、竹内さんは〕非戦平和の主張の故に投獄され、同じく獄中にあった浅見仙作翁に獄中でめぐり会ったこともありました。

 

このとき浅見仙作(せんさく)翁は竹内さんに声をかけ、「小樽(おたる)は大丈夫か」と問いかけた由です。迫害の嵐の吹きすさぶ小樽で、信仰を守り続けている友の安否を気遣う問いかけでした。

これに竹内さんがどうお答えになったのか知りませんが、お二人はそれぞれに見事な勝利を収めました。

 

そして竹内さんはこう言うのです。「死んでから天国に行くのが私の信仰ではない、勝負はこの地上で決まる。死んでからのことはイエス様にお任せしてある。この地上においてイエスの証しを守り続けることが私の戦いである」。


この言葉は、信仰によって主の死を記念し、主の復活を仰ぎ、信仰の中心をイエスに集中して生きる無教会の生き方を、典型的に示しているではありませんか。


私の記念としてこう行いなさい」と言われたイエスの御言葉(みことば)〔の精神〕を、我々も実行しましょう

聖日ごとにイエスの死と復活によって救われたことを感謝し、神の御名にすべての栄光を帰して御前にひれ伏すならば、聖餐式という形は取らなくとも、精神においては、イエスの遺(のこ)して行かれた教えに、最も忠実な生き方がそこに展開される、と私は信じています。

 

この混沌とした終末的時代に対して、無教会に託された真理は、灯のような役割を果たしています。これを守り抜くことこそ、主の僕(しもべ)としての道だと私は思うのです。

 

♢ ♢ ♢ ♢

『十字架の言』2005年12月号所載。高橋三郎・島崎輝久共著『真理の深奥に迫る』証言社、2006所収。ルビ、〔 〕内は補足、下線は引用者による)

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