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最終更新日:2024年10月9日
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聖書に学ぶ 005
2022年5月18日
タケサトカズオ
〖神の国を目指す旅人〗
- 詩篇84篇1~8節 -
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☆讃美
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番紅花(サフラン)
* * * *
詩編84篇は、遠い異邦(いほう)の地からエルサレムへ宮詣(みやもうで)する巡礼(じゅんれい)の歌である。
神殿を慕(した)う旧約詩人の詩(1~8節)に、《神の国》を目指して地上を旅するキリスト者のこころを学びたい。
詩篇84篇 1~8節
1節
聖歌隊の指揮者に、ギッティト式に、コラハの子の歌。
2節
あなたのみ住居(すまい)は如何(いか)に愛すべきかな、
万軍の〔神〕ヤハヴェよ、
3節
わが魂はヤハヴェの前庭(まえにわ)を慕い
絶(た)え入るばかり、
わが心と身とは
生ける神に向かって喜び呼ばう。
4節
あなたの祭壇のそばに雀(すずめ)も住処(すみか)を見つけ、
つばめもそのひなを入れる巣を見出した、
万軍のヤハヴェよ、わが王わが神よ。
5節
あなたの家に住む人に幸(さち)あれ、
彼らはいつもあなたをほめ讃える。
6節
その避け所(どころ)があなたのもとにある人に幸あれ、
その心には信頼がみちる。
7節
彼らはバカの谷を通っても
そこを泉ある所とし、
前の雨は祝福をもってそこをおおう。
8節
彼らは力より力へと進み、
シオンにおいて神にまみえる。
(関根正雄訳)
藤井武(注1)は、主著『詩篇研究』において、詩篇84篇を「来世(らいせ)憧憬(しょうけい)」と題して講じ、エルサレム神殿を慕うこの詩から「来世(神の国)を慕う心」を聴き取っている。
(1)あなたの家に住む人に幸あれ(2~5節)
2節
あなたのみ住居は如何に愛すべきかな、
万軍の〔神〕ヤハヴェよ、
3節
わが魂はヤハヴェの前庭(まえにわ)を慕い、
絶(た)え入るばかり、
わが心と身とは
生ける神に向かって喜び呼ばう。
「あなたのみ住居(すまい)」とはエルサレム神殿(壮麗なソロモン神殿)、「前庭」とは神殿の中の一般信徒の礼拝の場所を指す。
神を慕う心は同時に、神殿を、そして神殿の前庭を慕う心である。巡礼の詩人は、そこに住む神に向かって喜び叫ぶ。
「あなたのみ住居は如何に愛すべきかな!」と。
そして、「わが心と身とは」、「絶え入るばかり」に、つまり、青ざめてやつれるばかりに前庭を慕い、「生ける神に向かって喜び呼ばう」と彼は歌う。
4節
なたの祭壇のそばに雀(すずめ)も住処(すみか)を見つけ、
つばめもそのひなを入れる巣を見出した、
万軍のヤハヴェよ、わが王わが神よ。
〔神〕ヤハヴェのみ住居を慕う詩人は、神殿に巣を作る小鳥さえも、羨(うらや)ましく思う。
小鳥たちは、わが王わが神である、万軍のヤハヴェの祭壇のそばに巣をかまえ、雛(ひな)を育て、神の家を自分の家として住まうからである。
詩人にとり、神殿は心の故郷である。
5節
あなたの家に住む人に幸あれ、
彼らはいつもあなたをほめ讃える。
詩人は、「あなたの家に住む人」つまり、神殿に住む祭司(さいし)たちへの憧(あこが)れを述べる。
幸(さいわ)いなのは、常に神の家に住む人たち(祭司ら)である。彼らはそこで、たえず神を讃美することを許されているからである。
旧約の詩人は、エルサレムの神殿を憧(あこが)れ、慕う。しかし、新約の時代に生きるわれらキリスト者は、来世(神の国)を憧れ、慕う。
キリスト者が来世を憧れ慕うのは、決して、もの暗(ぐら)い厭世(えんせい)的な思いからではない。
実に、神の国を慕う心は、生ける神、キリストへの愛によるのである。
藤井は言う。
「誠(まこと)に、来世の希望は愛に始まる。愛は神秘である、永遠である。
・・もし我々が、真実にキリストを愛するならば、われらは一日〔たりと〕も天の国を思わずには生きることが出来ないはずである。・・」と。
キリストは、わが愛する贖(あがな)い主、わが喜び、わが希望、わが生命(いのち)。そして、キリストは今、天の国におられる。
それゆえにこそ、われらは、キリストのおられる天の国を慕う。
使徒パウロは、言った。
「私の願いは、世を去ってキリストと共にいることである。この方が遙(はる)かに望ましい」(フィリピ書1章23節)
「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを私たちは待っています」(フィリピ書3章20節)と。
まことに、パウロの魂は絶え入(い)るばかりに天の国を慕い、彼の心と身とは、生けるキリストに向かって、喜び呼ばわった。
彼が天の国(神の国)を慕ったのは、新婦が新郎を思うように、キリストを愛したからである。
(2)巡礼の途上(とじょう)にある者の幸い(6~8節)
6節
その避け所があなたのもとにある人に幸あれ、
その心には信頼がみちる。
確かに、ヤハヴェの家(神殿)に住み、讃美に生きる者は幸いである。
しかし、幸(さいわ)いなのは彼らだけではない。
いまだ巡礼の旅路(たびじ)半(なか)ばにあっても、神を「避け所」とし、神の家を望み、その心が神の都(みやこ)シオンにある者、すなわち神への信頼と希望に生きる者も同様に、幸いである。
7節
らはバカの谷を通っても
そこを泉ある所とし、
前の雨は祝福をもってそこをおおう。
乾燥の谷に茂るバカの木と、干(ひ)からびた砂漠のような谷。エルサレムへの旅路にも、このような谷があった。
「バカの谷」は、涙の谷であり、苦難と歎(なげ)きの谷である。そこは、普通の旅人(たびびと)には耐えがたく、悩ましく、危険な場所であった。
しかし、神の住居を目指す巡礼者は、このようなところを「泉ある所」に変えつつ、前進する。
あたかも、夏の日照(ひで)りの後の《前の雨》(10~11月)が、荒れ地を一面の緑野(りょくや)に変えるように。
8節
彼らは力より力へと進み、
シオンにおいて神にまみえる。
多くの旅人が疲労から疲労へと落ち込んでいく中で、希望の巡礼者は、「力から力へと進む」。
なぜなら、彼らの心に神の霊(聖霊)が宿(やど)り、彼らは、神の御翼(みつばさ)によって守られ、支えられるからである。
彼らは、旅路が終わりに近づけば近づくほど、新しい力が増し加えられる。
まことに、「神を待ち望む者は新たな力を得、鷲(ワシ)のように翼(つばさ)を張って昇る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ書40章31節)と書かれているとおりである。
そして巡礼者は、ついに、目指す神の都シオンにたどり着き、神にまみえて、彼らの歓喜は頂点に達する(注2)。
神殿を目指す巡礼者の心は、まさに、《神の国》を目指して地上を旅するキリスト者の心そのものである。
(3)その心、シオンの大路にある者は幸いなり
藤井は、6~9節を「その心、シオンの大路(おおじ)にある者は幸いなり」と題して、感銘深く語っている。
藤井の言葉に少しく耳を傾けて、詩篇84篇の学びを終えたい。
* * *
この一段〔詩篇84篇6~9節〕は、来世(らいせ)の希望に生きるキリスト者の経験を表して、いかに切実かつ美(うる)わしいことか。
おそらく、聖書中、もっとも美わしい本文の一つであろう。
「彼らはバカの谷を通っても、そこを多くの泉ある所とする」という。
希望の子〔とされた者〕で、この奇蹟(きせき)を経験しない者が誰かいるだろうか。
かつて私も、一つの大(おお)いなるバカの谷に臨(のぞ)んだ。
そこは誠(まこと)に焼けた砂の地、火と硫黄(いおう)の坑(あな)を思わせる禍(わざわい)の谷であった。
私は愕然(がくぜん)として恐れ戦(おのの)き、立ちすくんだ。
暫(しば)し、荒野のペリカン、廃墟(はいきょ)のフクロウのように惨(いた)ましく悲哀(ひあい)の声を挙(あ)げた。
しかし、まもなく目を挙げて私は見た。シオンの大路(おおじ)を私は想(おも)い起こした。天の国をひたすら〔仰ぎ〕望み続けた。
その時、見よ、奇(く)しくも焼けた砂は池となり、潤(うるお)いなき地は水の源(みなもと)と変わったのである。
荒野はたのしみ、砂漠はよろこんで番紅花(サフラン)のごとくに咲き出(い)でたのである(注3)。
真実の意味における私の生活は、実に、このバカの谷から始まったのであった。
この大いなるバカの谷は、今もなお私に続いている。
おそらく、それは私の〔この世の〕巡礼が終わるまで尽き〔ることは〕ないであろう。
しかしながら、私は恐れない。
なぜなら、〔神の恵みによって〕新たに湧(わ)き出る泉もまた無限であるばかりでなく、ついにシオンにいたって彼〔、主〕にまみえる日のますます近いことを思えば、私は「力より力へ進む」からである。
今や往年(おうねん)の学友たちが漸(ようや)く人生に倦(う)み疲れつつあるのを見る。
これに反して私自身は、年とともに高き希望を加えられつつある。いよいよ大(おお)いなる夢を私は見つつある。
今よりのち、私は鷲(ワシ)のように翼(つばさ)を張って昇(のぼ)るであろう。
〔私が〕世を去る日が来たら、おそらく雀躍(こおど)りしながら去るであろう。
〔それゆえ、わが〕友よ、私が〔天に〕召(め)されたと聞くとき、どうか、私のために悲しまないでほしい。
歌いつつシオンの城門の中に姿を没(ぼっ)しゆく巡礼者を見送るような、晴れやかな歓呼(かんこ)もって私を送ってほしい。
(『旧約と新約』第75号、1926年9月。一部表現を現代語に変更し、引用。( )、〔 〕内、下線は補足)
♢ ♢ ♢ ♢
注1 藤井武(ふじい たけし)
注2 神の国
注3 番紅花(サフラン:英 saffron crocus)
口絵写真参照。
サフランは地中海東部・西アジアに自生するアヤメ科サフラン属の耐寒性球根多年草で、別名「薬用サフラン」、「番紅花(ばんこうか)」と呼ばれる。
秋(10月から11月)に、美しい薄紫色の花を咲かせる。
草丈は15~20cmで、1つの株に最大で4つの花(花茎5~6cm)を付ける。
「サフラン」という名前は、アラビア語の「ザアファラーン」に由来するともいわれる。
開花後の赤い雌しべを摘み取って乾燥させ、水に溶かすと鮮やかな黄色に発色するため、様々な料理の色付けに重宝される。また乾燥させた雌しべは、高価なスパイスとしても利用される。
参考文献:
『藤井武全集 第4巻』「詩篇研究」岩波書店、1971年
『ATD旧約聖書注解13 詩篇 42-89篇』(A.ヴァイザー著、塩谷 饒訳)ATD・NTD聖書注解刊行会、1985年
『旧約聖書』(関根正雄訳)教文館、1997年