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さんじょうのかしん

山上の嘉信

〔1〕

イエスがまだガリラヤの村々を巡(めぐ)り、神の国の福音(ふくいん)を宣(の)べ伝えていた頃であった。


彼の(うわさ)を聞いて、多くの群衆が集まってきた。イエスは群衆を見るとき、たいてい、これを避ける。

 

このときも彼は避けるようにして、ある山にのぼった。そして爽(さわ)やかな微風に吹かれながら、青草の上に腰を下ろした。

 

群衆はほぼ麓(ふもと)にとどまり、ただ、イエスを師と仰(あお)いで尊敬する少数の弟子たちだけが、彼の跡(あと)を追ってきて、足許(あしもと)に集(つど)った。

 

すなわち、この熱意ある人々を見おろしながら、彼はおもむろに口を開いて言った──

 

第一信 祝 福

 

〔2〕

(さいわ)いな! それはどういう人ですか。

神に(よ)りすがる〕心の貧しい人です。

心の富、心の財産というものを有(も)たない人です。自分の胸の中に、誇るべき何ものをも見いださない人。

 

かえって、さまざまの恥ずべき霊的(れいてき)ガラクタのゆえに、我(われ)ながら愛想(あいそ)を尽かしている人。

自分は罪人(つみびと)の頭(かしら)だと言うことのできる人。

そのたましいが、〔壊れた〕陶器(せと)の断片(かけら)のように砕けてしまった人。

 

そういう人が、ほんとうに幸福(さいわい)なのです。なぜかというと、天の国(神の国)はそういう人のものですから。

 

天国といっても、たくさんの徳を積んだ立派な人たちに〔当然のものとして〕与えられるご褒美(ほうび)ではないのです。

 

反対に、それは霊的(れいてき)無産者たちに恵まれる〔神からの思いがけない〕賜物(たまもの)です。嬰児(おさなご)のような虚(むな)しい心の者だけが、そこに受け入れられるのです(注1、2)。

 

〔3〕
さいわいなのは、悲しむ人だ。悲しんで泣いている人だ。

心を何かに噛(か)まれている人、その痛みのために呻(うめ)いている人。

(なげ)のために疲れている人。

眼瞼(まぶた)は涙のためにただれ、心臓は熱のために破れようとしている人。

たましいが石のように重くうなだれている人。

 

そういう人は幸福(さいわい)です。なぜかというと、その人は慰(なぐさ)められるから。

 

そうです、悲しむ者はきっと慰(なぐさ)められる。

この世では、悲しむのが当たり前なのです。〔心の目を見開いてよく観察すれば、〕悲しむべきことが、あなたがたの内にも外にも、満ちているではありませんか。

 

今の世に〔何事もないかのように〕笑いさざめく者は、誰ですか。ここでは、悲しむ人が本当に〔人生の真実を〕生きている人です。

 

だから、その人はきっと慰められる。その目の涙が〔神によって〕みんな拭(ぬぐ)われる時が来る。その心の傷がすっかり癒(いや)される時が来る。来ないはずはないのです。

 

〔4〕
さいわいなのは、柔和な人です。

(しいた)げられ、踏みつけられて、なお暴(はげ)しい言葉も出さず、羊のように〔ジッと〕我慢(がまん)している人。

 

(あざむ)かれ、(かす)め取られて、なお取り返そうともせず、奴隷(どれい)のように甘んじている人。

そういう人は、この世では一番みじめな人でしょう。

 

けれども〔よく〕憶(おぼ)えていなさい。後に〔約束の〕地を〔受け〕継(つ)ぐのは、この人たちなのです。

 

虐げる者、掠める者たちが、いつまでも〔そのままに〕許しておかれるはずがない。

 

何らかの深い理由(わけ)によって、〕今でこそ、世界は彼らのもののように〔為(な)すがままに〕任(まか)されているが、しかし、これは暫(しばら)くの事です。やがて時が来るのです。

 

そのとき、彼らは籾殻(もみがら)のように吹き去られざるを得(え)ないのです。そうして地は彼らの手からもぎ取られて、〔かつて彼らに〕踏みつけられ欺かれた者たちに渡されるのです。

 

世継ぎが家督(かとく)を継ぐように、柔和な人は自(みずか)らの相続として必ず地を継ぐのです。

 

実に、このみじめな者、この無きに等しい者こそ、やがて全世界を領有(りょうゆう)し、統治(とうち)すべき未来の王者たちに違いないのです。

 

〔5〕
さいわいなのは、〔神の〕義
(ぎ)に飢(う)え渇(かわ)く人です。〔罪に泣く人です。〕

です。義(ただ)しさです。〔神の前に〕義しくありたい。〔神の〕義がほしい。

 

断食(だんじき)した人が食物を求めるように、熱病を患(わずら)う人が喉(のど)の渇(かわ)きをおぼえるように、義に飢え渇く人。

牝鹿(めじか)が渓川(たにがわ)の水を慕(した)いあえぐように、義を慕いあえぐ人。

何よりも先ず第一に、義しくありたいとの願いに燃えたっている人。

 

その人は幸福さいわい)です。なぜかというと、その人は飽(あ)き足りることができるから。

 

ほかの願いは聴かれなくとも、この願いだけはきっと〔神に〕聴かれる。心ゆくまでに、満ち足りるまでに〔完全に〕聴かれる。

 

自分を取り巻くすべての関係、自分の存在のあらゆる状態が完全に義(ただ)しくなるまで、たましいが義(ぎ)によって飽和されるまで、およそ義でないものは内にも外にもその痕跡(こんせき)さえ残さなくなるまで。

 

何と幸福ではありませんか。

 

〔6〕
また、さいわいなのは、憐
(あわ)れみ深い人です。

神の無限の赦しを身に受けて、〕人を想いやる心、かわいそうだ、気の毒だという心の先立つ人。

責めるよりも、まず赦そうとする人。

自分を忘れ、自分を棄(す)て、自分を犠牲(ぎせい)にして、人を立てようとする人。

受けるよりも、むしろ与えることを喜ぶ人。

 

その人は幸福です。なぜかというと、その人自身が、ある大きな憐れみを受けるからです。

 

実に、人は〔神の〕憐れみなしには生きることができないのです。

神があなたがたを憐れんでくださるのでなければ、あなたがたは〔自(みずか)らの罪のために〕滅びるよりほかない。

恐ろしい審判(さばき)というものがある。〔ごまかしのきかない、厳粛(げんしゅく)な人生の総決算がある。〕

どうして、それを免(まぬが)れることができようか。ただ、神の憐れみによ〔り縋(すが)〕るばかりです。

 

神は、憐れみ深い者を憐れんでくださるのです。神に憐れまれる者は、幸福です。


〔7〕

さいわいなのは、心の清い人です。

すなわち、心が透きとおって外から見通せる人。

思いが単純であって、裏表のない人。

二心(ふたごころ)(いだ)かず、虚偽(いつわり)を行わない人。

 

なぜかというと、その人は神を見ることができるから。

 

不純な心では、神は見えない。黒い肚(はら)には、聖なる者の姿は映らない。

 

神に(よ)り頼みつつ、〕ただ一筋(ひとすじ)の真実(まこと)をもって神の御前(みまえ)に出る者のみが、目(ま)の当たりに彼の御顔(みかお)を仰ぐことが許されるのです。

 

そして、神を見るに勝(まさ)って幸福なことが何処(どこ)にありますか。

 

〔8〕
さいわいなのは、平和を造
(つく)る人です。

闘争を蛇蝎(だかつ)のごとく憎み、できるならば平和を実現しようと絶えず努める人。

分裂を見ては堪(た)え難(がた)さに心おののき、いかなる代価を払っても、これを癒(いや)さなければやまない人。

分裂や闘争の根本原因をつきとめて、身をもってこれを取り除こうとする人。

平和の殿堂(でんどう)のためには、人柱ひとばしら)に立つことをさえ厭(いと)わない人。

 

そういう人は幸福だ。

なぜかというと、その人は神の子と呼ばれるから。

 

神は平和を造る方です。

彼は自ら絶大な犠牲を払って、万物との間に平和を実現しようとしておられる。

だからまた、〔神は〕すべて平和を造る者をお喜びになる。

そうして、「わが子よ」と言って彼らに呼びかけられるのです。


〔9〕

さいわいなのは、義(ぎ)のために責められた人です。

(ただ)しさのために人から憎まれ、排斥され、迫害された人。

不義姦悪(かんあく)なこの世が、置くに堪(た)えなくなった人。

 

そういう人のためにこそ、別の国が備えられる。

すなわち、天の国です。

 

天の国は、〔この世本位に生き、〕この世に安住する者のためには無用です。それは、ただ義のために責められた人たちのものです。

 

義のために迫害されるほどに天の国を慕い求める者たちに天の国が属するのは、自明の理です。〕

 

〔10〕

皆さん 

あなたがたは遠からず私のために人々から罵(ののし)られ、責められ、偽(いつわ)ってあらゆる悪口(あっこう)を言われるようになるのですよ。

 

その時、あなたがたは幸福です。喜びなさい。大悦(よろこ)びしなさい 

なぜなら、あなたがたの報(むく)いは天において大きいのだから。

天の国は豊かな饗宴(きょうえん)の準備をして、あなたがたを待っているのだから。

 

考えてみなさい。あなたがたより前の預言者(よげんしゃ)たちも、〔神の義を主張したために、〕皆そういうふうに迫害されたではありませんか。

エリヤでもエリシャでも、アモスでもホセアでも、イザヤでもエレミヤでも。

 

そうして、彼らは皆、天にある〔永遠の〕ものに希望をおいて、喜んでその迫害を受けたではありませんか。

 

真理を退(しりぞ)けるこの世に妥協迎合(げいごう)して、要領よく迫害を回避する人は、すくなくとも神に従う者ではありません。

 

また、神のくださる慰めは、現世においてあなたがたを力強く活(い)かすとともに、終わりの日に神の国において完成されるのです。〕


〔11〕

人々は、あなたがたを軽んじるでしょう。世の芥(あくた)のように、地の垢(あか)のように扱うでしょう。

しかしそのために、あなたがたは自分の地位の重さを忘れてはなりませんよ。

 

あなたがたは、何ですか。垢ではない、塩です。〔預言者と同じく、〕地の塩です。

塩があればこそ、物は腐(くさ)らずに保存されるのです。

 

塩が役立つときは、自身は溶けてしまって、どこにあるのかわからない。いわば自分の存在を無(む)にして他を救い、生かすもの。これが塩です。〕

 

あなたがたが(い)ればこそ、世界は滅びずに存(のこ)るのです。

 

何でもない人たちのようだが、あなたがたの存在意義は実に深い。

 

ところが、その塩がもし愚かに〔も、塩気をうし〕なったらどうですか。何によって、それに塩づけるのですか。

 

もうそうなっては、しようがない。

味を失った塩は、〕外に棄(す)てられ、人々に踏まれるだけだ。

 

あなたがたが、もし俗化(ぞくか)してしまったら、それこそ無用の長物(ちょうぶつ)だ。〔神の国にも、この世にも役立たない。〕

 

信仰は純粋でなければならない。

天的には神の義によって塩付けられ、人間的には涙と汗とによって塩付けられた信仰であって、はじめて純粋に信仰の味を保つことができるのです。〕

 

〔12〕
また、あなたがたは世の芥
(あくた)ではない、世の光です。

芥なら、谷底に埋められるがいい。けれども、光なら高く輝かなければならない。

山の上にある町は、隠れないものです。それは、何処(どこ)からでも見えるのです。

 

また人はランプを点(つ)けたとき、〔わざわざ〕升(ます)の下に置きますか。置かないでしょう。

必ず、ランプ台の上に載(の)せるでしょう。

 

そうしてこそ、ランプは初めて家の中にあるすべてのものを照らすのです。すなわち、ランプとしての〔本来の〕役目を果たすのです。

 

そのとおりに、あなたがたもあなたがたの光を〔覆(おお)い隠すことなく、〕人々の前に輝かさなければなりません。

それが、あなたがたの役目です。

 

あなたがたがそうしなかったら、〔いったい〕誰が世〔の暗黒〕を照らしますか。

誰が〔永遠の〕真理を伝えますか。

誰が〔生命(いのち)の〕道を示し〔、世の道標(みちしるべ)となり〕ますか。

 

全世界は、今や真暗(まっくら)ではありませんか。人々は皆、牧(か)う者のない羊のように〔神を見失い、さ〕迷っているではありませんか。

 

(た)〔上がり〕なさい、光を放(はな)ちなさい! 

私があなたがたの〔内から輝き出る〕光になってあげるから。

 

そうしたら、人々はあなたがたの〔自然な〕良い行為を見て、天にいますあなたがたの父〔なる神〕を崇(あが)めるだろう。

 

♢ ♢ ♢ ♢

(「信仰生活」『旧約と新約』第104号、1929年2月を現代語化。〔 〕、( )内は補足)

 

​注1​ 貧しさの中に宿る神

金持ちになりたいと思っている人たちに囲まれながら、〔私たちは、〕どうすれば貧しさを神に到る道として受け入れることができるでしょうか。

貧しさには多くの姿があります。

『わたしの貧しさって何?』と自分に尋ねてごらんなさい。

 

それは、お金がないことですか。

感情が安定していないことですか。

愛し合う相手がいないことですか。

安心できないことですか。

安全がないことですか。

自信がないことですか。

 

人間誰しも、どこか貧しいところをもっています。そこが、まさに神が宿ろうとしておられるところです。

 

貧しい人々は、幸いである』(マタイ5:3)とイエスは言われます。すなわち貧しさの中に、私たちのとっての祝福が隠されているのです。

 

私たちは自らの貧しさを覆(おおい)い隠したり、無視しようとするあまり、貧しさの中に宿っておられる神を見つけるチャンスをしばしば見逃しています。

 

私たちの宝物が隠されている場である自分の貧しさを、思いきって見てみようではありませんか

(ヘンリ・ナウエン著、河田正雄訳『今日のパン、明日の糧(かて)』日本キリスト教団出版局、2019年、265項より引用。原著:"Bread for the Journey A Daybook of Wisdom and Faith" by Henri J. M. Nouwen,1997

 

​注2​ 貧しい人々の中におられる神に出会う

「自分自身の貧しさを恐れずに言い表すとき、私たちは、それぞれに貧しさを持った他の人々と一緒にいることができるようになるでしょう。

 

私たちの貧しさの中に住まわれるキリストが、他の人々の貧しさ中に住まわれるキリストを見出すからです。

 

自分の貧しさを無視しがちな私たちは、同様に他の人々の貧しさをも無視しがちです。

 

私たちは極貧(ごくひん)の中にある人々に会わないですむなら会わずにいたいし、体に障害を負った人々に目を向けたくありません。人々の苦しみや悲しみについて語るのを避け、傷つき、助け手もなく、援助を必要としている人々の状況から遠ざかろうとしてしまいます。

 

このように避けてしまうことで、私たちは人々との接触を失ってしまいます。その人々を通して、神が私たちにご自分を現そうとしておられるのに。

 

けれども、私たち自身の貧しさの中にいてくださる神を見出した時、私たちは貧しい人々を恐れなくなり、神に出会うために貧しい人々のところへ出かけていくようになるでしょう。

(上掲『今日のパン、明日の糧』、266項より引用


 

参考文献:
・矢内原忠「山上垂訓(すいくん)講義」『聖書講義Ⅰ』岩波書店、1977年。
・塚本虎二『塚本虎二訳新約聖書』新教出版社、2011年。
・新約聖書翻訳委員会訳「マタイによる福音書」『新約聖書Ⅰ』岩波書店、1995年。
・島崎輝久『マタイ福音書と現代(1)』証言社、2006年。

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