― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年10月9日
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ネパールの夕映え
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◆真の成功者
内村鑑三は、伊藤邦幸先生の信仰的、思想的源流に位置する人物である。
1897(明治30)年、内村は、『後世への最大遺物(いぶつ)』という書を世に著した。長く読み継がれることになった、人生指針の書である。
その序文で、内村は、次のように述べている。
「・・『天地無始終、人生有生死』(天地、始終(ししゅう)なく、人生、生死あり)である。しかし、生死ある人生に、無死(永遠)の生命(いのち)を得る道が備えられている。
〔たとえ〕天地は失(う)せても、〔なお〕失せないものがある。それを幾分(いくぶん)なりとも得ることができるならば、人生は真の成功であり、また大きな満足である。・・」(現代語による引用)
伊藤先生は、内村の言葉のとおり、キリストにあって、生死ある人生に永遠の生命を得た人であり、天地は失せても失せないものを得た人であると思う。
それゆえ、先生は真の成功者であり、また大きな満足をもって人生を終えた人である。
◆活動の日々
伊藤先生の活動は、常人(じょうじん)のスケールを大きく超えていた。
先生は天与(てんよ)の才能を存分(ぞんぶん)に磨(みがき)き、しかも、それを決して私物化(しぶつか)することなく、人々に献(ささ)げた。
実際、先生は、10年間にわたる東京大学(カントとパウロ研究)と京都大学(アウグスティヌス研究)での研鑽(けんさん)の日々を経て、第五次南極観測隊に参加後、1963年(31歳)、京都大学医学部に編入し、医師となった。
先生は、カント、パウロ、アウグスティヌスといった信仰、思想界の巨匠(きょしょう)に挑(いど)んで真理を探究したばかりか、医学までも修(おさ)めた。
そして医師になってからは、同じく医師である聡美(そうび)夫人とともに、ネパールの貧しい人々への医療奉仕に人生を捧げた。
また、先生は、ネパールと日本での医療活動と平行して、彼(か)の地と日本の青年たちの人間教育に情熱を注がれた。
私は、若き日の1983年から1年間、浜松の職場に出向した。
さっそく浜松聖書集会(小林進一先生、溝口正先生共催)に出席した私は、Tさんに誘われて、伊藤先生のご自宅(山猿(やまざる)庵、後の風声(ふうせい)寮)で週3回もたれていた読書会- カール・ヒルティのドイツ語原典講読会、東西の古典読書会、ギリシャ語聖書原典講読会 -に加えていただいた。
こうして、私も伊藤先生を通して恩恵を戴(いただ)く者の一人となった。
◆先生の真価−晩年の日々
その伊藤先生は、1992年9月(61歳)、脳幹(のうかん)梗塞に倒れ、手足が不自由となって、ベッドから立ち上がれぬ身となった。
しかし、先生は、その後、リハビリに励みつつ、神への感謝を表白(ひょうはく)し、信仰と真理の証言を続けた。そして、10ヶ月の療養の後、1993年8月8日、先生は62歳で天翔(あまがけ)っていかれた。
人は、先生の華(はな)やかな経歴や世界を舞台にした活躍に目を奪われもするだろう(実態は、地道な努力の積み重ねであった)。
実際、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)も伊藤先生に注目し、同大学に先生を招聘(しょうへい)したほどである(なお先生は、この招聘を断った。神馬『実践家に負(お)わされたるの義務』参照)。
確かに、先生の活動の一つひとつは、それぞれ重要な意義を持ち、また研究と学びに値するものである。
しかし、先生の晩年の日々は、活動の日々にも増して光り輝いていたと私は思う。
否(いな)、むしろ先生の晩年の日々こそ、先生が後世に残してくれた最も大きな贈り物−後世への最大遺物−だったのではないか。
なぜなら、晩年の日々にこそ、先生の生きざまの本質が最も単純に、かつ鮮(あざ)やかに示されていると思われるからである。
伊藤先生ご自身、こう記(しる)している。
「海外において貧しき者に奉仕しうることは大(おお)いなる恩恵である。
しかし、己(おの)が臥所(ふしど)に留(とど)まって神を義(よ)しとすることは、さらに貴(とうと)いことである。」
(『なくてはならぬもの』補論。武井『人の計(はか)らい・神の計らい』参照)
先生は、海外で医療奉仕活動をすることよりも、病床にあって神を義しとすることの方がより貴い、と言われる。
◆癒(いや)さるも、癒されざるも
1993年4月20日に先生から戴いたハガキ(代筆)に、こう書かれていた。
「お見舞いありがとうございました。
癒さるも癒されざるも共によし
愛の御神(みかみ)の御業(みわざ)にあれば 」
「癒さるも癒されざるも共によし 愛の御神の御業にあれば」−私は、この言葉に驚いた。
同時に私は、この言葉に先生の生きざまと信仰の本質が凝縮していると感じた。
この言葉に見られるものは、晩年の病床における先生の姿-神への一途(いちず)な信頼と、神に自らを委(ゆだ)ねきった幼児(おさなご)の姿-である。
そして、この言葉に込められた深い意味と晩年の先生の内面を理解する上で、三谷(みたに)隆正著『病(や)める友に送れる』(1929年)が重要な視点を与えてくれると思う。
先生は、三谷隆正(法哲学者、1889~1944年)を「書物上の恩師」と呼んでいる(『風声寮開寮礼拝における挨拶(あいさつ)』参照)。
事実、伊藤先生は、三谷の著作を繰り返して読み、その信仰と思想に深く学ばれた。
また、先生は、三谷と同じく、(聖書はもちろんのこと、)内村鑑三とヒルティに学び、カントとアウグスティヌスを研究している。
さらに、風声寮での読書会でも、三谷の著作を取り上げている。
先生の書かれたものを読むとき、先生が三谷の著作を血肉(けつにく)としていたことが確認できる。
たとえば、先生は、病床口述で「私の場合は人間は義務を果たすまでは死なないものだとは思っていた」(『三つのちがい』)と述べているが、これと同じ思想を『病める友に送れる』に見いだすことができる。
したがって、三谷の『病める友に送れる』を手がかりに先生の「言葉」に込められた意味を探(さぐ)ることは、おおきく誤ってはいないだろう。
◆病床の先生と三谷隆正著『病める友に送れる』
三谷の『病める友に送れる』は、大正期の当時、恐らく《死の病(やまい)》であった結核を病み、療養中であった友に対し、三谷が励ましを綴(つづ)った手紙であろう。
同時にこの手紙は、三谷による《苦難の神義論(しんぎろん)》でもあると思われる。
旧約のヨブは言うまでもなく、さまざまな時代、さまざまな地域で、自己を圧倒する苦難に直面した人々が、深刻な問いを発した。
「なにゆえ神が創造された世界に、このような苦難が存在するのか」、また「私は、一体、この苦難をどのように受けとめたらよいのか。そして、どう生きていったらよいのか」との根源的な問いである。
友のこの無言の問いかけに対し、三谷は、自らの信仰と全存在をかけて答えようとした(三谷自身、結核を患(わずら)い、また生後間もない乳児と妻を続けて喪(うしな)っている)。
そして三谷は、病床の友に向かって優しく語りかけ、力強く励ます。三谷のメッセージは、要約すれば以下であると思われる。
苦難の中にあって、君の眼(まなこ)を愛の神に向けよ。そして、神に信頼し、神にすべてを委ねよ。
苦難に押しつぶされることなく、かえって希望と歓喜の中に生きよ。喜びつつ苦難に耐えよ。
以下、『病める友に送れる』(原著)の現代語版である『病床の友に送る』(拙著、注1)を参照しつつ、病床の先生が語るメッセージに耳を傾けてみたい。
苦難の日に、私たちもまた、自問する。「なぜ、こんなことになってしまったのか」、「自分の人生は、これで終わりなのか」「これから、どうやって生きていったらよいのか」と。
これらの問いに対し、病床の伊藤先生は三谷と共に、こう答えているのではないだろうか(以下、「 」内は、『病床の友に送る』からの引用)。
①苦難の日々に心にとめること
「神が無益(むえき)に私たちを苦しめられるとは、〔僕には〕どうしても考えられません。
われわれにとっては、すべてのことが相働(あいはたら)いて益となるはずです。〔どうか、〕静かにご忍受(にんじゅ)のほどを祈ります。
人生において私たちの為(な)すべき業(わざ)は、必ずしも、積極的に一定の成果を上げるような種類のものとは限りません。〔むしろ、〕最も偉大な業は、しばしば、静かな忍受そのものでした。
私たちがもし、朗(ほが)らかな心をもって、喜びつつ苦難に耐えることができるならば、それだけで大きな業です。
それが、どんなにか多くの、同じような苦難のうちにある人々を慰(なぐさ)め、励ますことでしょう」。
②生きるのもよいこと、死ぬこともまた恵み
「僕は、固(かた)く信じています。
もし僕に、この地上で果たすべき使命があるならば、神様は、それに必要な健康もきっと与えてくださる〔に違いない〕。
〔神様から〕僕に生命(いのち)の恵まれている限りは、〔それは〕また、僕の使命が終わっていない証拠だ。僕に死が恵まれる時は、つまり、僕の使命が了(お)わった時だ。
だから、僕にとっては生きるのもよいこと、死ぬこともまた恵みだ、と」。
③神のご計画
「僕は、神様が僕たちのために計画するとき、僕たちの真(まこと)の幸福について、僕たち自身よりもはるかに親切であり、聡明(そうめい)であることを知っている。
だから、僕ら自身の愚(おろ)かな希望や工夫が実現しないで、僕らの想像もつかないような〔大きく、深い〕神の御(ご)計画が成就(じょうじゅ)することは、僕自身にとって、どんなにか幸福(さいわい)なことだろう。
〔僕には、〕君のご病気も、神様の御計画なしに君に臨(のぞ)んだものとは考えられません。
この病気を通して、〔神様の〕大きな愛の御手(みて)が君のために計画し、準備しておられるものは何でしょうか。
神は、無益にわれわれを苦しめることはなさいません」。
④父なる神の愛
「私たちは一人残らず、神の愛する愛(いと)し子です。
そのことを想(おも)う時、〔私たちは、〕艱難(かんなん)も苦しみも迫害も飢(う)えも裸も、何ものも、私たちを父なる神の愛から引き離すことはできないことを知ります。
われわれにとっては、すべてが希望であり、歓喜であり、感謝です」。
⑤悩みのときにも、悲しみのときにも
「私たち人間は、肉体だけでなく、心までもが弱いものです。〔私たちは、〕驚くべき神の大愛(たいあい)さえも、心(こころ)弱くも、疑いがちなのです。
〔一体、〕心の底に一抹(いちまつ)の暗影(あんえい)と不安の影を宿(やど)していない者が、誰か、いるでしょうか。
A君。その暗影があるとき、〔それは〕君の病室をいっそう暗く、淋しいものにするかも知れません。
しかしA君。それでも〔やはり〕、神様は愛のお父(とう)様です。
〔どうか、〕悩みのときにも、悲しみのときにも、先(ま)ず神様を呼ぶことを忘れないでください。
〔「天のお父様!」と〕呼びさえすれば、神様は必ず答えてくださいます。
A君。君の病気を〔根本的に〕癒すことができるのは、実は神様だけで、医者ではないのですよ」。
⑥病気の真の危険と苦しみ
「僕の経験によると、病気に伴う一番の苦しみは病苦(びょうく)そのものではなく、病苦に伴う自己執着(しゅうちゃく)です。
朝から晩まで自分の脈を見たり、熱を気にしたり〔して〕、自分自身を看護することだけが天下の一大事となり、そのほか何ものも自分の心を占(し)めるものが無くなることです。
それが病気に付随(ふずい)する最大の危険で、また最深(さいしん)の苦しみだと思います」。
⑦癒しの御手(みて)に信頼する
「病気にこだわり、自己看護に執着することは、病気そのもののためにも良くないことです。
昔から、「病(やまい)は気から」と言うでしょう。気にして熱を計れば、無い熱も出てくるようになります。
病気のことは神様にお任(まか)せして、私たち自身は、静かに待っていさえすればいい。
焦(あせ)らずに、〔神様の〕癒しの御手に信頼していさえすればいい」。
⑧病床における愛の業
「A君。愛の実行は、体力が無くてもできますよ。
〔実際、〕絶対安静の病床にさえ、私たちは愛の祈りをすることができます。そして、愛の祈り以上に深い愛の業(わざ)があるとお思いですか」。
⑨すべてを感謝して、受け入れる
「一切は、〔神様の〕大愛(たいあい)の御計画のうちにあります。すべてを感謝して、受け入れようではありませんか。
君の上に〔、神様の〕聖なる御(おん)励ましが豊かにあり、言い尽くせぬ慰めが絶えず注がれるよう、〔切に〕祈ります」。
伊藤先生は天にあって、今も、私たちのために祈りつつある。
◆結語
私たちに生命(いのち)が恵まれている限り、私たちには使命が残されていると知ること。
苦難の日にも、決して絶望することなく、神と救い主(ぬし)イエス・キリストに固く結ばれること。
自らの苦難もまた、父なる神の愛の御計画(摂理せつり)のうちにあると信じること。
そして神に信頼し、神にすべてを委(ゆだ)ねて、喜びつつ苦難に耐えること。
伊藤邦幸先生の病床からのメッセージは、私たちへの、また、後世への最大の贈(おく)りものであると思う。
私たちは、先生の《後世への最大遺物》をしっかと受けとめ、許された活動の日々にも、また苦難や病床の日々にも、精一杯生きてゆきたいと願う。
♢ ♢ ♢ ♢
(原著:三谷隆正「病める友に送れる」、『問題の所在』一粒社、1929〔昭和4〕年、( )、〔 〕内は補足)
注1 病める友に送れる