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信仰と人生

信仰に生きる 005

2021年5月2日更新

原著:三谷 隆正

現代語化:タケサト カズオ

 

病床の友に送る

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* * * *

1

A君。(ぼく)が懸念(けねん)していたことが杞憂(きゆう)に終わらなかったことを本当に悲しく思います。

暑い盛りに絶対安静は、なかなか楽ではないことと思います。


しかし〔A君。〕神が無益(むえき)に私たちを苦しめられるとは、〔僕には〕どうしても考えられません。

われわれにとっては、すべてのことが相(あい)働いて益(えき)となるはずです。

どうか、〕静かにご忍受(にんじゅ)のほどを祈ります。


人生において私たちの為(な)すべき業(わざ)は、必ずしも、積極的に一定の成果を上げるような種類のものとは限りません。

むしろ、〕最も偉大な業は、しばしば、静かな忍受そのものでした。


私たちがもし、朗(ほが)らかな心をもって、喜びつつ苦難に耐えることができるならば、それだけで大きな業です

それが、どんなにか多くの、同じような苦難のうちにある人々を慰め、励ますことでしょう

A君の〕静かなる御勇奮(ごゆうふん)を〔心より〕祈らずにはいられません。


僕は、固く信じています。

もし僕に、この地上で果たすべき使命があるならば、神様は、それに必要な健康もきっと与えてくださる〔に違いない〕。

神様から〕僕に生命(いのち)の恵まれている限りは、〔それは〕また、僕の使命が終わっていない証拠だ。僕に死が恵まれる時は、つまり、僕の使命が了(お)わった時だ。

だから、僕にとっては生きるのもよいこと、死ぬこともまた恵みだ、と。


なるべくなら僕は、まだ死にたくない。自分の友だちにも、生きていてもらいたい。

しかし僕は、神様が僕たちのために計画するとき、僕たちの真(まこと)の幸福について、僕たち自身よりもはるかに親切であり、聡明(そうめい)であることを知っている。

 

だから、僕ら自身の愚かな希望や工夫が実現しないで、僕らの想像もつかないような〔大きく、深い〕神の御(ご)計画が成就(じょうじゅ)することは、僕自身にとって、どんなにか幸福(さいわい)なことだろう

2

僕には、〕君のご病気も、神様の御計画なしに君に臨(のぞ)んだものとは考えられません。

この病気を通して、〔神様の〕大きな愛の御手(みて)が君のために計画し、準備しておられるものは何でしょうか。

 

神は、無益にわれわれを苦しめることはなさいません

神が秘密にしておられる〔君への〕賜物(たまもの)は、〔一体、〕何でしょうか。〔神様の賜物を想って、〕君の心は、むしろ、楽しい期待に躍りませんか。

かりそめの病床に、病気〔のこと〕を忘れて、ただ、近づくクリスマスとその贈物(プレゼント)だけを夢見る幼児(おさなご)の心。

それがまた、君の心であるような気持ちはしませんか。


私たちは一人残らず、神の愛する愛(いと)し子です

そのことを想う時、〔私たちは、〕艱難(かんなん)も苦しみも迫害も飢えも裸も、何ものも、私たちを父なる神の愛から引き離すことはできないことを知ります。

われわれにとっては、すべてが希望であり、歓喜であり、感謝です。

 

しかしA君。私たち人間は、肉体だけでなく、心までもが弱いものです。

私たちは、〕驚くべき神の大愛(たいあい)さえも、心弱くも、疑いがちなのです。

一体、〕心の底に一抹(いちまつ)の暗影(あんえい)と不安の影を宿(やど)していない者が、誰か、いるでしょうか。


A君。その暗影があるとき、〔それは〕君の病室をいっそう暗く、淋しいものにするかも知れません。

 

しかしA君。それでも〔やはり〕、神様は愛のお父(とう)様です

どうか、悩みのときにも、悲しみのときにも、まず神様を呼ぶことを忘れないでください

〔「天のお父様!」と〕呼びさえすれば、神様は必ず答えてくださいます。

 

A君。君の病気を〔根本的に〕癒(いや)すことができる者は、実は神様だけで、医者ではないのですよ。

3

病気にかけては僕も、ずいぶん色々な経験をしました。

僕の経験によると、病気に伴う一番の苦しみは病苦(びょうく)そのものではなく、病苦に伴う自己執着(しゅうちゃく)です

朝から晩まで自分の脈を見たり、熱を気にしたり〔して〕、自分自身を看護することだけが天下の一大事となり、そのほか何ものも自分の心を占(し)めるものが無くなることです。

それが病気に付随する最大の危険で、また最深の苦しみだと思います。


〔いかに多くの人々が、〕自分一個の肉体を、また、その病体を〔神さまとして〕床(とこ)の間に祭り上げて、朝から晩まで「御病気様々」で平身低頭、ひたすらその御意(ぎょい)をうかがっている〔ことでしょう〕。


ご覧なさい。方々の海浜(かいひん)や湯治(とうじ)場などに行くと、そのようにして「御病気様」にご奉公している紳士淑女がたくさんいる〔ではありませんか〕。

しかし、〕それで〔は、貴重な〕人生を徒(いたずら)に費(つい)やすことにならないでしょうか。


毎日を「御病気様」に仕(つか)えて過ごすこと。〔他の人はどうであれ、〕少なくとも僕には、それは耐えられないことだ。

僕はもう、自分一個に仕え、その御意を迎えることには堪(た)えられない。僕はもう、自己一個の狭さに耐えられない。

僕は、もっと広やかな、もっと自由な天地に躍(おど)り出たい〔と思う〕。


もし病気が自己一個を投じ尽(つ)くす契機(きっかけ)にならないで、反対に自己一個に執着する契機になるようなことがあったら、それは、真(まこと)に悲しむべきことです。

それは、人の霊〔、つまり存在の根底〕までも病気にすることです。〔実に、〕恐ろしいことです。


そして、病気にこだわり、自己看護に執着することは、病気そのもののためにも良くないことです。

昔から、「病(やまい)は気から」と言うでしょう。気にして熱を計れば、無い熱も出てくるようになります。

 

病気のことは神様にお任(まか)せして、私たち自身は、静かに待っていさえすればいい

(あせ)らずに、〔神様の〕癒(いや)しの御手(みて)に信頼していさえすればいい

 

4

私たちがこだわるべき問題は、他(ほか)にたくさんある。

(ぎ)問題、清浄(きよめ)の問題、愛の問題。これらの問題だけが、私たちの心を占めるのにふさわしい問題です。


A君。愛の実行は、体力が無くてもできますよ。

実際、絶対安静の病床にさえ、私たちは愛の祈りをすることができます。そして、愛の祈り以上に深い愛の業(わざ)があるとお思いですか。

 

A君。こちらでは、かなり暑い日が続いています。御地(おんち)は、いかがですか。

そちらでは、〕夜の涼しさに、甦(よみがえ)ったような心地よさを君もお感じですか。


ご両親の御心中(ごしんちゅう)、ご兄弟方の御心痛などを思い巡(めぐ)らすとき、〔君が〕涙ぐむ夜も稀(まれ)ではないだろうと御(お)察しします。


しかしA君。一切は、大愛の〔神の〕ご計画のうちにありますすべてを感謝して、受け入れようではありませんか。

君の上に〔、神様の〕聖なる御(おん)励ましが豊かにあり、言い尽くせぬ慰めが絶えず注がれるよう、〔切に〕祈ります


当地にいる君の友人たち一同は、君の快癒(かいゆ)を祈る、その祈りを一つにしています
 

時々、ご病状をお知らせください。

(以上)

♢ ♢ ♢ ♢

(三谷隆正著「病(や)める友に送れる」、『問題の所在』一粒社、1929〔昭和4〕年を現代語化。( )、〔 〕内、下線は補足)

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