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<信仰と人生

信仰に生きる 006

2015年9月9日改訂

矢内原忠雄

 

愛する者を天に召された人々に送る

 

聖書に学ぶヨハネ黙示録研究の一節】へ

 

詩歌【春3月】へ

P1


愛する夫を妻を、子を親を、天に召(め)された兄弟、姉妹よ。

まず第一に〔あなた方に〕申し上げたいことは、あなた方の大切な宝をあなた方からもぎ取った者は、悪魔ではなく、父なる神様だということです。


もし、それが悪魔の仕業(しわざ)ならば、それはあなた方に害を与えるための悪意から出たものであり、奪われた宝〔、すなわち愛する者〕の行方(ゆくえ)についても不安と危険が伴わざるを得ません。

 

しかし、それは父なる神様が〔ご自身の〕御許(みもと)に召されたのですから、〔それが〕あなた方にはどんなにつらく感じられることであっても、神様があなた方のために悪を図(はか)っておられるのではないということだけは、何よりもまず、知っていただなくてはなりません。


全知全能の〕神様のなさることなのですから、そのすべてが今すぐに、私たちに解(わか)るはずはありません。

ただ、〔神様は〕私たちの益(えき)になるように〔最善を為(な)〕してくださっているのだ、ということだけは固く信じて、神の為さることに従って生きていくと、自然にその意味も分からせていただけるのです。

 

〔そもそ、〕あなた方の愛した人は、どこからあなた方の所へ来ましたか。どうして、あなた方のものとなりましたか。神様が与えてくださったからではありませんか。

それは本来、神様の有(もの)であるのを〔しばしの間、〕あなた方に与えてくださっていたのです。


ですから神様に御用のある時に、その人を神の御許(みもと)に召し上げることもまた、神様のご自由であり、私たち〔に〕は、それに対し言い逆(さか)らう権利はないのです。

私たちは、神様の為さることには、解っても解らなくても、ただ従順に従うほかに道はありません。

 

それが私たちの益になってもならなくても、神は〔、宇宙の主権者として〕ご自身の必要のために、すべてのことを為されます。そして、神の意志の成ることが宇宙の最高善であり、神の意志に絶対服従することが私たちの動かぬ平安〔の基礎〕であるのです。

 

P2

 

しかし〔もともと〕、神様が私たちの愛する者を私たちに与えてくださったのは、私たちを愛するがゆえですから、いかに神の御用のためとは言え、愛する者を私たちから取り上げる時にも、〔神様は、〕私たちに対する愛なしには決して、〔事を〕為されないのです。


第一、召された当人にとっては、父なる神は〔この〕世の親や夫よりも大きい〔存在な〕のですし、天国はこの世と比べようもなく幸(さいわ)いな〔所な〕のですから、そこに召されたことは〔、当人にとっては〕最大の幸福を与えられた〔ことな〕のです。

 

主にあって召された死者は、幸いです。それは、もう、そこ(天国)では悩みも苦しみもなく、病気や堕落の心配も無く、〔召された者は、〕父なる神の御許で安らかに成長し、幸いに生きているのです〔から〕。

 

それで、〕私たちも〔また〕、天に召された者については、本当に安心していられるのです。

そして、それが召された当人に幸福なことであるなら、私たちは彼らを愛する以上、彼らの幸福はまた〔、当然、〕私たち自身の幸福〔のはず〕ではありませんか。

 

しかし、理性はそのように告げても、感情は容易にそれに従いません。私たちの感情は、そう簡単に論理的には動きません。

 

愛する者が召されたことは、神のために善であり、また召された当人にとって幸福であり、そして私たちは神の善を自己の善とし、愛する者の幸福を私たち自身の幸福とすべきことが解っても、それが私たち自身にとって悲痛極(きわ)まりない経験であることを如何(いかん)ともしがたいのです。

 

もしも、神様がこのことで私たちを直接、恵んでくださるのでなければ、神様が私たちから愛する者をもぎ取られたのは、少なくとも私たち残された者にとっては、あまりにも無慈悲な御処置と思われるのです。


それでも、神の為されことに静かに従って〔日々を送って〕いると〔次第に〕、本当にそれは私たち自身にとっても直接の益であることが解〔ってく〕るのです。

 

それは、私たちは、この〔、愛する者が天に召された〕ことによって初めて、〔自分の〕活(い)きた目で天国を見ることができるようになったのです〔から〕。

 

今までは、天国のことを〔お話として〕耳で聞いていました。〔抽象的に〕頭で考えていました。〔自分には縁のない〕遠い所のように思っていました。

 

しかし、愛する者がそこに召されて以来、天国は本当に近い、実に親しい自分自身の国となったのです。〔そして、〕天国について活きた目が開けて以来、これまで大切なものと思っていたこの世〔限り〕の欲望〔、願望〕がつまらないものとなり、これまで恐れていた肉体の死が本当に恐るべきものではなくなり、真(まこと)の幸福はたましいの平安にあること、まことの生命(いのち)は来世永遠の生命であることが解りました。

 

ひと言(こと)言えば、愛する者を天に送って初めて、私たちは、人生の真の意味と目的を知ったのです。〔人生の〕真の宝の在り場所が解ったのです。

 

P3


これは、地上における死別の悲しみと、それによる生活上の不便を償(つぐな)って余りある永遠の幸福です。それによって、私たち自身のたましいの生活が天的水準に引き上げられるのです。

 

たとえ、私たちの地上の歩みは〔、依然として〕惨憺(さんたん)たるものであっても―  そして、愛する者をもぎ取られた後の地上の歩みは、荒涼、惨憺たらざるを得ないではありませんか。

 

しかし、どれほど地上の歩みは惨憺たるものであっても、私たちは自分の不完全さや不如意(ふにょい)や、失敗や欠乏によって阻(はば)まれることなく、まっしぐらに天に向かって生きていく、その純粋な生活態度を教えられるのです。


こころ〕崩折れた惨憺たる〔私たちの〕地上生活も、神に支えられて次第に、立ち直っていきます。支えてくださる方は、もちろん神様です。

 

ですから、〕悲しみに陥(おちい)った者は、神に呼ばわり求めなければなりません。

時がたてば悲しみの記憶が薄らぐことはあっても、〔神に〕祈らずに、悲しみを歓喜に変えることはできません。〔祈らずに、〕愛する者を天に送ったことが益であることを知ることはできないのです。


祈りは、私たちの心を〔天に向けて〕高く〔し〕、広くします。私たちの思いを神の御思いに近づけます。

 

神は、大きな聖(ご)計画によって世界を導かれます。私たちにとっては個人的な経験であっても、神はそれを神ご自身の経綸(けいりん)〔-《神の国》完成の御計画-〕の一部として為されるのです。

 

私たちの愛する者が召されたことも、単に私たちの家庭に関する私的な出来事にとどまるものではなく、それには、神の経綸の一部としての公的〔な〕意味があるのです。


神はしばしば、家庭の出来事によって、世界的経綸における神の御意(みこころ)を〔人々に〕悟らせます。〔神は、私たちの〕私的〔な〕経験を〔、世界に関わる〕公(おおやけ)の預言(よげん)とされます。

 

旧約の預言者〕ホセアの悲痛な家庭的経験も、エゼキエルの哀哭(あいこく)極まりない妻の急死も、彼らはすべて、これを公事の預言として解釈し、その経験を〔神からの〕預言として国民に訴えたのです。

 

P4


このように、私たちの個人的な経験の中にも、公事に関する神の預言を読み取るならば、私たちはもはや、単なる私的感情によって悲しむ者ではなくなります。

 

私たちに悲しみが無くなるというのではありません。かえって、私的な悲しみと公的な悲しみが重なって、いっそう私たちの悲哀(ひあい)を深刻なものとします。

 

しかし、私たちはもはや、生きがいを感じない厭世(えんせい)的〔な〕人間ではなくなります。

愛する者をもぎ取られた時、誰でも一度は、自分の人生を底の無いような空虚(うつろ)に感じ、生きていく力も甲斐(かい)もないように思います。

 

この虚無的な厭世感から私たちを救って、とにもかくにも積極的な生活態度を持たせてくれるものは、私たちの私的経験の意味が公の預言につながっていることを知ることにあります。

 

また、〕自分だけの悲しみの感情の中に閉じこもらないで、神の公人としての態度をとることにあります。


公事と言い、公人と言っても、〔それは、〕世界や国家のことだけではありません。自分以外の人々に対する関係は、すべて公事なのです。

 

夫を失った人には姑(しゅうとめ)が残っているでしょう。それなら、夫〔の分〕と〔合わせて〕二人分の孝養を姑に尽くすことが、夫との死別によって生じた人生の空虚を満たす最も手近な道です。

 

子どもを失った親には、別の子が残っているでしょう。たとえ、自分の家に子がいなくても、社会には助けを必要とする子どもたちが沢山います。その子らのために尽くすことが、愛児との死別による悲しみを益に変える手近の方法です。

 

夫を失い子もない孤独の未亡人でさえ、神に仕え、聖徒を助け、世の弱き者をいたわる時、その人生は積極的な意味の光栄に輝くのです。


要するに、人を助け、身近な義務を果たすことが、私的な悲しみに沈みがちな私たちを引き起こして、積極的な人生態度をとらせてくれるのです。

 

それによって、愛する者を天に召されたことは、神の御用に役立ったことであり、召された当人の幸福であり、かつ、残された私たちにとって、たましいの益であるばかりでなく、社会にとっても善を生むことを〔、私たちは〕知るのです。


、悲しみの記憶を和らげるために神が送ってくださる鎮痛剤であり、「仕事」は、消極的な心を引き起こして人生の生きがいを知らせるための刺激剤です。

 

P5

 

しかし時も仕事も、私たちの悲しみ〔そのもの〕を消してしまうことはできません。

私たちからもぎ取られた私たちの愛する者が、再び私たちの手に返されるのでなければ、死別の悲しみはどうしても消えないのです。

 

でも本当に、神様はあなた方の愛する夫を妻を、子を親を、ふたたたび、あなた方に返してくださるのです。

 

かも、神様が天に召した時よりもずっと輝きの優(まさ)った、瑕(きず)なく汚点(しみ)なき者として、お返しくださるのです。

 

そればかりか神様は、愛する者の個性を大切に保存してくださいます。ですから、〕それが幼児であったなら、幼児としての無邪気(むじゃき)な面影(おもかげ)を失わないで、しかも立派な青年に成長しているでしょう。

 

それが老人であったなら、老人としての落ち着きを失わないで、しかも活気に満ちた姿で〔私たちの眼前に〕現れるでしょう。


(なく)したその子から「お母さん」と言って抱きつかれ、逝(せ)いたその父から「娘よ」と言って慈(いつく)しまれる〔その〕時〔にこそ〕、初めて私たちの涙は完全に乾き、心は満ち足りて歓喜に溢れるでしょう。


藤井武が逝いた妻を慕って作った歌に、こういう〔も〕のがあります。

 

いやまさる輝きおびてわがまえに 

 〔はるかに優る輝きを帯びて、私の前に〕
 顕
(あらわ)れむ日ぞああ躍らしき

 〔(わが妻の)顕れる日こそ、ああ胸躍る〕
   
これが、復活の日のよろこびです。神様は、私たちの愛する者を天に召し、御許で安らかに守り、美しく磨き上げてくださいます。

 

復活の(あした)、再び彼らと会う時に恥ずかしくないように、私たちも信仰によって天国の幸福を待ち望みつつ、地上の歩みを勇ましく、正しく送らねばならないではありませんか。

もしも、愛する者の死によって私たちが崩折(くずお)れてしまったら、召された者は、私たちのためにどんなに悲しむか分かりません。


愛する兄弟姉妹よ。あなた方の大切な宝が天に召されました。

しかし〔彼らは〕、決して死滅〔-消滅-〕したのではありません。地上にいた時よりも更に充実した生命で、キリストの中に生き続けているのです。彼らが地上にいた時に勝る力添えと慰めとを、天からあなた方に送ってくるのは、このためです。

 

あなた方の心に宿った悲しみを、〔この世の〕姑息(こそく)な手段で紛らそうとしてはいけません。かといって、悲しみに耽(ふけ)り、悲しみに溺れてもいけません。

 

悲しみの中から、神を呼び求めなさい。神様を信頼しなさい。そうすれば、あなた方の深い悲しみも、朝(あした)には必ず歓喜に変わるでしょう。


 まだ申し上げたいこともありますけれども、今日はこれだけに致しておきます。

(以上)

 

 

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(原著:矢内原忠雄「愛する人々を天に召されし人々におくる」『嘉信』第7巻第6号、1944年を現代語化。〔 〕、( )内は補足)

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