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信仰と人生

信仰に生きる 039

2024年4月23日改訂

原 著:三谷 隆正

現代語化:さかまき・たかお

The Pleasures of Family Gatherings

家庭団らん

- やさしく、つましき喜び 

Gentle, humble joy

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人物紹介003【三谷隆正】

評伝006三谷隆正(1)

* * * *

家庭団らん

1

〔1-①〕  
十数年前、私がまだ、岡山在住の頃のことである。

 

春なお浅き37日朝915分、女児出生。〔私たち夫婦にとり、〕初めてのお産であった。

 

その朝、南国の春の空は真っ青(さお)に澄んで、まばゆいほど晴々(はればれ)と明るかった。私たちは、晴々した心持ちで生まれた児(こ)に「晴子(はるこ)」という名をつけることにした。


出産前の妻の体調が順調でなかったので、ずいぶん案じていたお産であった。

 

しかし特別のこともなく、割合やすやすとお産が済んでしまった時、私たちはどんなにか安心し、喜んだことか。

 

ことわざに「案ずるより産むが易(やす)し」という。全くその通りであることを〔私は〕腹の底までこたえるほどに感じた。

まことに、案ずるより産むは易しであった。

1-②〕
それにしても過去10ヶ月間、私たちはどれほど案じ、労し、また楽しみ続けたことか。

 

妻の肉体的労苦はいうまでもなく、私としても筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい心労を続けた。

 

南米のある原住民は、妻が産褥(さんじょく)に着く時、夫も褥(しとね)上に展転反側(てんてんはんそく)して陣痛の苦〔労〕を共にする風習を持つと、ある本で読んだことを思い出した。

 

原住民のこの風習は素朴な心情が流露(りゅうろ)したもので、非常に意味深いと感じた。


私はこの時初めて、人間一人がいかに貴重なものであるか、ことに親にとって子がいかにかけがえなく貴(とうと)い者であるかを悟った。痛切に自覚した。

 

そしてこの日を境に、私が学生たち〔一人ひとり〕を見る眼(め)がガラリと一変した。


なるほど〔イエスが教えたように〕、神様は九十九匹の羊を野に残して〔でも〕、迷い出た一匹を捜(さが)し歩かれるはずだ。

 

なぜなら、神様は天におられるわれらのお父(とう)様なのだから。そのことが〔、このとき〕初めて〔、心底〕納得できた。

〔 2 〕

〔2-①〕 
それから二、三日過ぎた夜。風もなく、雲もなく、来客もなく、なごやかな静かな春の宵〔のこと〕であった。

 

私は妻の枕頭(ちんとう)に座って、ただ二人きり〔で〕、そこはかとなく物語った。

 

もちろん、そこには赤ん坊の赤い赤い寝顔がある。私たちは赤ん坊の将来について、夢のような希望や期待を語り合った。

 

薄暗くしてあった電灯のやわらかい光、みどり児(ご)特有の愛すべき乳臭、静まりかえった夜気(やき)

 

その夜、その時の光景は今もなお、まざまざと私の眼底にある。いかに平和な、いかに清らかな団らんのよろこびであった〔こと〕か

 

それが私たち三人がこの地上において持つことを許された短い、そうだ、余りにも短い一家団らんのよろこびであった。


なぜなら、その翌日あたりから妻は異常な高熱のため苦しみ始め、二十日(はつか)ばかりで先ず、幼き晴子が天にかえったからである。

 

それにしても、あの夜の団らんは〔本当に〕楽しかった。その祝福を私は〔決して〕忘れることができない。

2-②〕
やがて春も暮れ、南国のぎらぎらと強烈に暑い夏がやって来た。

その74日、妻また、晴子の後を追っ〔て天に召され〕た。

 

その頃、私自身〔も〕また、ついに倒れて、臨終(りんじゅう)の妻を看(み)取ることができなかった。私は病褥(びょうじょく)に臥(ふ)したまま、黙して妻の柩(ひつぎ)を目送(もくそう)した。
その時は、涙さえ湧(わ)かなかった。

しかし、五日過ぎ、七日過ぎて、私はしだいに黙していられなくなった。強いて黙するならば、胸が張り裂ける〔。これが、その時の偽(いつわ)らざる想いだった〕。

 

たまらなくなって私は、無茶苦茶に三十一文字を並べて枕元の手帳に記(しる)した。


いも逝(ゆ)きて十日を経(ふ)なり朝まだき
   ふと泪
(なみだ)わきてとどめあえざり

(大意:妻が逝(い)って〔、はや〕十日が過ぎた。朝早く、〔目覚めたが、彼女の姿は無かった。思わず涙が湧き出て、止(とど)めることができなかった)

 

君逝けど君のいましし室(へや)にいて
   もの言いかわすまねしてみたり

(大意:君は逝
ってしまったが〔いまだ信じられず〕、君がいた部屋で言葉を交わすまねをしてみた。〔そうすれば、君が今にも戻ってきそうな気がした〕)

〔 3 〕

〔3-①〕 

幸いにして、私の病気は順調に良くなっていった。熱も、ほぼとれた。

 

ある朝、私は床(とこ)を出て、まだ埋葬せずに〔置いて〕あった二人の遺骨を合わせて一つの壺(つぼ)に納め、それを床の間に安置した。
 
いもとあこと灰にしあれどひとつ壺に
 おさめてなにか心なごみぬ

(大意:妻とわが子は〔今は〕遺灰になっているけれど、〔二人を〕ひとつの壺に納めたら、なぜか心和
(やわ)らいだ)

灰となりてかたみにいだくかあこといもと
   わが膝の上の骨つぼをはや 

(大意:遺灰となって〔ふたりの〕形見として抱
(いだ)くのか、わが子とわが妻よ。ああ、わが膝の上の骨つぼを)

〔 4 〕

〔4-①〕 
やがて秋が来た。私〔の健康〕は、ほぼ回復した。

なんだか体も心も何者かに洗い清められて、秋空のように澄み切った気持ちがした。

 

体力はまだ不十分だったけれども、「よし、これからは弔(とむら)い合戦だ」とばかりに学校にも出勤し、予定していた勉強にも精を出し始めた。

 

とても静かな、しかし底深い力が、どこか天の方から私を支えてくれているように感じた。

 

家の周囲に林のように群生していたコスモスが、眼も鮮(あざ)やかに咲きそろい、幾(いく)百枚の友禅の晴着を野一面にうちひろげた〔かの〕ようだった。

 

毎日のように、近くの女学校の生徒たちが花を貰(もら)いにきた。

妻は、この花が好きだった。

風さやにコスモス咲けりこの花を
   ともにめでにし妻よ月日よ

(大意:風にそよいで〔今年も、〕コスモスが咲いた。この花を一緒に愛
(め)でた妻よ、〔その〕月日よ。〔ああ、愛(いと)おしい!〕)

 

君逝(ゆ)きてこの秋をなみだしげけれど
 さやけきひかり天にあふるる 

(大意:君が逝
(い)ってしまい、この秋をしきりに涙を流して〔過ごして〕いるけれど、〔涙にぬれた眼で見上げれば、君のいる〕天には清らかな光が溢れている)

聖国(みくに)にて君われを待て土にいて
   われきみを仰ぐちからあわせん

(大意:君よ、天の御国
(みくに)で私を待っていてくれ。〔今、〕私は地上にあって、君を見上げる。〔再びまみえるその日まで、天と地で、ふたり〕力を合わせよう)

〔 5 〕

〔5-①〕 
晩秋、そろそろ寒さが近づいてくる時分〔のこと〕であった。

 

ある朝学校に出勤すると、同僚の一人が私の肩をたたいて「おめでとう」と言う。何がおめでたいのか見当がつかないため、私は面食らって、けげんな顔を彼に向けたまま、言葉が出なかった。

 

彼は続けて、「昇給(昇進)おめでとう」と言う。私は依然として、「ふーん」である。

 

こういう問題を本人が知らないでいて、他人だけが知っているのは不都合なことだと思ったが、彼の説明によると、最近はこのような辞令は官報に載るだけで、辞令書は出ないのだそうだ。しかし校内では、昨日、教官室に〔辞令が〕掲示されていたそうだ。

 

やっと事情が判明したので、私は「ウン、そうか。それなら悪くない。イヤありがとう」と答えたのだった。

5-②〕 
そしてその瞬間、私はふと〔妻菊代のことを〕思い浮かべた。

菊代がいたら、〔きっと〕喜ぶだろうにナ」と。主婦として家計を預(あず)かる彼女にとって、昇給は福音(良き知らせ)であるに違いない。

 

もし彼女がいれば、例の調子で大喜びし、「今夜はひとつ、ごちそう〔に〕しましょうよ」とか言って、ひと賑(ふるま)いするところである。

 

しかしその時の私としては、昇給してもしなくても何の掻痒(そうよう)も感じなかった。喜ぶ彼女が間違っていて、喜ばない私が正しいのか。

いや、〕断じて、そうではない。

〔 6 〕

〔6-①〕 
地上生活における、ささやかで謙遜なよろこびパンひとつ、果物ひとつを〔家族で〕分けあう喜び

 

確かに〕それは他の何者をも措(お)いて求めるべき不滅の宝ではないであろう。しかし、〔それは〕やさしく美しき喜びである。

 

そのような人生の慎(つつ)ましき喜び、ささやかな幸福。それは決して無意義なものではない


禁欲主義を貫く〕修道僧たちは、このつつましき喜びを知ることなく、〔その〕一生を終わるのかも知れない。

しかし決して、そのために彼らが偉く、〔また〕聖(きよ)いのではない

 

それを偉いと思ったり、聖いと想うのはカトリック根性(坊主根性)である。パリサイ的〔=偽善的〕敬虔(けいけん)である。

6-②〕 
家庭の内〔にあるこ〕の小さき喜びを賞美(しょうび)することを、私も少しく学ばせていただいた。

このささやかな祝福のためだけでも、あえて冒(おか)して家庭生活に飛び込んだことは、〔私にとり〕十分に意味あることであった。

なぜなら結婚は、私にとっては乾坤一擲(けんこんいってき)の大冒険であった〔のだから〕。


私が自分の生涯の使命と信じている学問、それさえも場合によっては、妻子のために犠牲にしよう。そうする方が百巻の大著(たいちょ)を完成するよりも、より真理(真実)に徹した生き方である。

 

そう覚悟して初めて、私はあえて一人の女性を自分の妻とすべく決意できたのだった。〔そして実際、〕私の覚悟は十分、報いられた。

 

家庭の内にある倹(つま)しき喜びに祝福あれ

〔 7 〕

〔7-①〕 
先頃他界した佐藤繁彦君主筆の雑誌『新約と新教』の終刊号に、「読書会について」と題する同君の短文がある。

 

その中で〔修道的神秘思想家〕トマス・ア・ケンピスの〔書〕『キリストに倣(なら)いて』(イミタティオ・クリスティ)を論じて、〔彼は〕次のように述べていた。


なるほどこの書〔物〕は古典に違いないし、不朽の文献でもあるから、青年会の輪読用〔の題材〕として悪いものではない。

 

しかし、この書全体はカトリック〔の修道院的・禁欲的〕敬虔を描いたものであり、またカトリック〔的〕敬虔の表現である。

 

これを何ら批判なしに受容することは、プロテスタント信徒として、とても愚かなことである」と。


そして「この書は感激され、嘆賞されて」読まれてはいるが、「〔正しく〕評価され、批判されて」読まれていない。

 

この書特有の〔修道院的〕敬虔を批判し評価するには、プロテスタント信仰の敬虔が何であるかを良く理解していなければダメである。

彼は〕そう述べている。


さすがに、半生をルター研究に傾注した佐藤君の言葉である。良くルターの精神を捉え、〔かつ〕福音の中心的真理を指摘する警告であると思う。

7-②〕 
十数年前の平和な春の一夜、ひとときの団らん!〔それは、〕私にとって永遠に祝福された思い出の団らんである。


家庭の団らんに祝福あれその(つま)しきよろこびに祝福あれ

天の川親星子星百千(ももち)
   ちさく紅
(あか)きは嬰児(みどりご)
星かも      
〔大意:〔澄んだ夜空を見上げると、満天の〕天の川に〔、大きな〕親星、〔小さな〕子星、また数百数千の星々が見える。〔あの〕小さく紅い星はみどり児星〔、晴子の星!〕かも〕

 ♢ ♢ ♢ ♢

(原著:三谷隆正「家庭団欒(だんらん)」、『知識・信仰・道徳』新教出版社、1971年、219225項を現代語化。初出:畔上賢造主筆『日本聖書雑誌』第70号、1935(昭和10)年10月。( )、〔 〕内および《 》、段落番号は補足。下線は引用者による)

 

1 トマス・ア・ケンピス Thomas a Kempis

1380-1471年。デウォティオ・モデルナを代表する修道的神秘思想家

クレーフェルトに近いケンペン(Kempen)で生まれ、アグニーテンベルク(Agnietenberg)修道院に入り、1406年に修道誓願を立てた。

伝統的に彼に帰される、俗世の修道院化を唱えた『イミタティオ・クリスティ』(邦訳:「キリストに倣いて」)は、一般信徒に禁欲的修道生活の使信を与える「修養・建徳の書物」としてベストセラーになり、各国語に翻訳された。

キリシタン文学の傑作『コンテムツス・ムンヂ』(1596年)は、その最初の邦訳である。

​(参考文献:大貫隆ら編集『岩波 キリスト教辞典』岩波書店、2002年、817項)

2 三谷隆正著「家庭団らん」について(解説:高橋三郎)

「若き日に恩師内村鑑三によって、キリストの許(もと)に導かれてより、三谷隆正の生涯は溢れる御祝福に包まれたものであったが、それは同時に、時には血涙(けつるい)絞る鍛錬(たんれん)の過程でもあった。

 

ことに「家庭団らん」の一篇は、彼の魂の奥底にいかに深い棘(とげ)が打ち込まれていたか、彼のその後の生涯が、いかなる意味において、古い自己との決別の上に営まれたものであったかを、痛々しいまでに読者の魂(たましい)に刻印せずにはやまない。

 

この一篇を草しうるまでに、彼は11年にわたる年月の経過を必要としたのを見ても、愛児晴子および妻菊代との死別が、いかに悲痛な体験であったか窺(うかが)われる。

しかし、このような涙の谷を歩みつつ、三谷は神がいかに「個を愛惜(あいせき)」してやまない愛の父であられるかということを、身をもって体験したのであった

(三谷隆正著「知識・信仰・道徳」新教出版社、1971年、高橋三郎「解説」234項より引用)

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