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三谷先生の思い出

 

石原兵永

 

三谷〔隆正〕先生は、学生時代から内村鑑三先生の教えを受け、学問・教養・信仰ともに優(すぐ)れておられた。ことに清純な人格としかも温かい真実味あふれる人間性において、内村門下の中でもユニークな存在であった。


先生は1909(明治42)年(20歳)の〔旧制〕一高(いちこう、現・東京大学教養学部の前身時代に、内村先生の門に入られ、まだ少年だった私はその翌年に入門した。

 

三谷先生とは学校や境遇もちがっていた私が(注1)、その後30年間、先生の生涯の終り〔1944(昭和19)年2月17日の召天〕にいたるまで温かいご友情にあずかり得たのは、先生のお人柄によるのはもちろんだが、やはり内村先生という共通の信仰の恩師を与えられたおかげであると思う。


私がはじめて先生の文章に接したのは、1923(大正12)年6月号の『聖書之(の)研究』誌に寄稿された「カントの有神(ゆうしん)論」であった。


当時、〔内村先生の〕聖書研究社に関係していた私は、この文章によって親しく〔三谷〕先生の学問と精神にふれたが、内村先生がこの文章を大変喜ばれたことを記憶している(「内村鑑三先生と神学」参照)。

 

そのころ三谷先生は岡山〔の旧制・六高、現・岡山大学〕におられ、1926(大正15)年春、一高教授として東京に来られた。ちょうどその時、内村先生主宰の〔月刊英文信仰雑誌〕『Japan Christian Intelligencer(ジャパン・クリスチャン・インテリジェンサー)』誌が創刊され、三谷先生も、たびたび優れた英文をそれに発表された。


岡山から東京に来られて間もない時であったと思う。牛込加賀町のお宅をお訪ねした時、先生はこんな事を言っておられた。

 

僕が大学を出た頃、柏木〔の聖書研究会〕には藤井〔武〕、黒崎〔幸吉〕、塚本〔虎二〕などの諸君をはじめ内村先生門下の〔優秀な〕先輩が大勢いたので、その間に入ってしまったのでは圧倒されて、自分の信仰や考えで歩けなくなる恐れがある。

 

だから自分は自分として、とにかく独(ひと)りでやってみよう。そう考えたので、地方の高等学校(旧制・六高)に行く気になった」と。

なるほどと、私ははじめて真理の学徒としての先生の真の姿を〔垣間〕見たような気がした。


先生は青年時代からすでに、学問を一生の自分の使命と信じておられた。

学問とは真理そのものを愛する事であり、真理の生命とするところは〔精神の〕自由であり独立である。

 

先生はまた言われた。「ともかく学問をするにはまず、人類が始まって以来今日に至るまで、人は何を考え何を学んできたか、その全精神史の大要(たいよう)を心得ておく必要がある」と。

 

それで十数巻から成る厖大(ぼうだい)な〔クーノー・フィッシャーの〕哲学史の第一ページから、コツコツと丹念に読みつづけ、その中でとくに哲学者カントに心を捕えられたことなどを話された。

見ると先生の机上におかれた書見台には、分厚なドイツ〔語〕の哲学書が開かれたままになっており、そのわきに腰かけられた先生の白皙(はくせき)端麗(たんれい)な容姿も実に印象的であった。


とにかく独りでやって見よう、と言われた真理の学徒としての先生は、精神の独立を重んじ、また限りなく「個」を尊ばれた。「私の来世観」とか、「S童子を葬(ほうむ)る詞(ことば)」、「汝(なんじ)自身たれ」などの文章にそれがよく表われている(全集第2巻55頁、188頁、193頁)。

 

しかし先生の学問について語るには、〔先生の〕学友・南原(なんばら)繁先生(元東大総長)はじめ適任者がほかにたくさんあり、私はその器(うつわ)ではない。


それよりも私個人として最も深い感銘をうけたのは、真理愛の行者(ぎょうじゃ)としての先生の生き方であった。

 

それは先生ご自身の結婚に対する態度によくあらわれていると思う。

結婚は私にとっては乾坤(けんこん)一擲(いってき)の大冒険であった。

私が自分の一生の使命と信じておる学問、それさえ場合によっては妻子のために犠牲にしよう。そうする方が百巻の大著(たいちょ)を完成するよりも、より真理に徹した生き方である。

 

そう覚悟して後(のち)初めて、私はあえて一人の婦人を己(おの)が妻とすべく決意する事ができたのであった。

私はこの覚悟に充分報(むく)いられておった。家庭の内なるつつましき喜びに祝福あれ!」と。


先生のいう真理〔への〕愛〔と〕は、学問のための学問という〔ような〕抽象的〔な〕観念ではない。

それは、〕あくまで個を尊重し〔て、いとおしみ〕、人間を愛し、一切の根源である神を愛する〔、そのような〕愛であった。

 

つまり〔まことの〕愛とは己(おのれ)を去って他者を愛し、そのために限りなく冒険することである(ein endloses Wagen)、と先生は信じられた。

 

これが〔先生の〕徹底した神中心の信仰であり、先生は回心の経験を通して、これをご自身のものとされた。

そして先生の学問そのものも、この信仰に立脚するものであった(全集第1巻『信仰の論理』)。


この結婚生活は不幸にもごく短かく、やがて恵まれた初子(ういご、晴子)は〔、生後わずか3週間にして〕召され、間もなく〔その4ヶ月後に〕愛する妻(菊代)もその後を追い、先生ご自身、また重き病いに倒れてしまった。

 

愛児と妻との死別から11年を経て、ようやく〕その〔深い〕悲しみ〔の中から、家庭のつましい喜びとささやかな幸福、そして祝福〕を綴(つづ)った「家庭団欒(だんらん)」という短文は、珠玉(しゅぎょく)の文字といわれる先生の文章の中でも、とくに美しく感動的なものである。


英国の詩人〕テニスンの言葉によれば、先生は〔妻と嬰児(みどりご)を〕愛して〔のち、〕失なった。しかしその事は、かつて〔妻児を〕〔することを〕しなかったよりも、はるかに善く祝福であった〔。

換言すれば、最愛の妻児を失ったことは、先生にとって余りにも大きな痛手であり、悲しみであった。しかしそれ以上に、良き家庭と団欒の時を与えられ、妻児を愛することができた、その〕ことを〔先生は〕心から感謝し、次の歌でその文章を結ばれた。

 

天の川 親星 子星 百千(ももち)

 ちさく紅(あか)きは 嬰児(みどりご)星かも

 

先生の信仰は神中心に徹してはおられたが、しかし少しも熱狂的でなく、宗教的な信仰三昧(ざんまい)とはおよそ無縁であった。

真に神を中心とするからこそ、〔先生は〕人間的にはあくまで謙虚で、自由で、人間愛に満ちあふれていた。

 

先生は〕病身でありながらも、福音のためにはいつも挺身(ていしん)して内村門下の同志たちと〔信仰の〕共同戦線を張り、また戦う友人たちや後輩をも進んで助けられた。


個人的なことをいえば、私が独立伝道に出発し雑誌(『聖書の言』)を創刊した時には、〔先生は、〕いち早く購読を申込んで励まされ、また私が内村全集の英文校正に忙殺されるのを見て、喜んで雑誌にも寄稿してくださった。

 

ことに私の処女作『回心記』が出たときには、ご自身でていねいに私の原稿をお読みになり、その上、熱心に出版をすすめられ、また実際にお世話下さったことは、今日なお忘れ得ぬ感激の思い出である。

 

 

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(『三谷隆正 -人・思想・信仰-」岩波書店、1966年所収。筆者は『聖書の言』主筆、故人)


注1 三谷隆正は1915(大正4)年、東京帝大法学部を卒業し、石原兵永(ひょうえい)は1920(大正9)年、青山学院英文学部を卒業した。

「人物紹介」006、石原兵永を参照。

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