信仰と人生

信仰に生きる 007

2016年3月16日

矢内原忠雄

 

〖罪の自覚について〗

「幼きサムエル」

ジョシュア・レイルズ 1776年

「〔自分は〕神の存在は信ずるけれども、罪の自覚が〔持て〕ない」と言って訴えてくる人が、時々いる。

 

しかし自覚というものは、持とうと思って持てるものでもなく、外部から貼り付けるわけにもいかない。自分の中から泉み出るのを待つほかはないのである。


無理に〔、自分の心がまことの神から離れ、神の御心(みこころ)に叛(そむ)いて生きているという自覚―〕罪の自覚を持たなくても、神の存在を感謝し、神の御業(みわざ)を讃美し、神の光の中にとどまり、神の光の中を歩んでいれば〔、それで〕良い。

 

幼児(おさなご)には罪の自覚はない。それでも彼らは、喜んで生きているのである。神の光の中を歩んでいれば、必ず適当な時期に自然に、罪は自覚されてくる。それは、神の光に照らされる時にだけ、罪が自覚されるからである。

その時が来るまでは、罪の自覚がないということに苦しまず、神の存在を信じられるということを〔素直に〕喜べば良い。


しかし人々は、「神の存在は信ずるけれども、〔生きていることを心底から〕喜べない。罪の自覚はないけれども、〔心が〕苦しい」と言う。〔実は、〕その状態自体が、罪の自覚の有る無しを問わず、罪の症状〔なの〕である。

 

この場合、「〔神様、わたしに生きる〕喜びを与えてください。苦しみを取り除いてください」と祈ることは、〔実は、〕自ら識(し)らずに罪の赦しを祈っていることに他ならない。

神はその祈りに応えて、罪の自覚と罪の赦しを共に与えてくださるのである。

 

それはあたかも、身体の異常を感じて苦痛を自覚する時、それがつまり病気ということであり、医師に求めれば、病気を診断してくれるとともに、治療を考えてくれるようなものだ。


神の存在を信ずるというなら、神〔のこと〕を〔あれこれ〕考えないで、神に〔率直に、〕祈り求めなさい。それが、罪を知り、また罪から救われることの端緒(いとぐち)である。

 

罪の自覚さえも、人は自分で持つことはできない。それ(罪の自覚)自体が、神の恩恵によって与えられるのである。

 

 

♢ ♢ ♢ ♢
 

(原著:矢内原忠雄「罪の自覚について」 『嘉信』第7巻第6号、1944年6月。一部表現を現代語化。〔 〕、( )内は補足、下線は引用者による)    

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