信仰と人生

詩歌 006

2015年6月15日改訂

矢内原忠雄

 

【春3月】

柳の木

わが愛する者の天に召されたのは、
春 3月のうららかな日であった
(注1)


その日(にわか)に黒雲がわき起こって、
孤独の私をつつんでしまった。


悔恨(かいこん)悲痛〔の涙〕が湧きあふれて、
(おさ)える〔の〕力がなかった。


しかし〔時とともに〕黒雲がやや薄れて、
(あわ)かなしみの霧となり、


その水滴の幕のかなたに、
春の陽のかがやく時が来た。

 

わが愛する者の墓は、
御国
(みくに)の園の入り口に立つ。


そこから梯子(はしご)が天に直通し、
御使
(みつか)いたちが昇り降りした。


御使いは〕父なる神のみ諭(さと)しを我(われ)にもたらし、
わがいのりを父にたずさえ上
(のぼ)る。


墓の彼方(かなた)に昇る陽(ひ)は、
その光を此方
(こなた)に投げ、


重き荷を負(お)うてこの世を歩む
わが足もとを照らす。

 

わが愛する者の墓に、
(やなぎ)木を植えよう。


秋風さらさらと吹けば、
葉ははかなく空にとぶが、


春 3月の日を受くれば、
青き葉は羽衣
(はごろも)のごとく、


細き葉は小舟のごとく、
わがたましいを飛翔
(ひしょう)させて、


愛する者の国にみちびき、
復活の希望に息づかせる。

 

わが愛する者の召(め)されたのは、
我を力強く生かせるためであった。


今、〕わが心はこの世にないが、
わが足はこの世を歩む。


復活の希望はわが心を高くし、
復活の希望はわが足を軽くする。


復活の希望はイエスの墓に芽ばえ、
わが愛する者の墓に花咲き、
わが墓に実るであろう。

 

♢ ♢ ♢ ♢

(矢内原忠雄『嘉信』第21巻第3号、1958〔昭和33〕年3月。〔 〕、( )内は補足)

 

注1

当時、東京帝国大学経済学部助教授だった矢内原(やないはら)忠雄は、植民政策研究のため、英国、ドイツ、米国、フランスへ留学を命ぜられた。

 

1920(大正9)10月、矢内原は欧州に向けて横浜港を出発した。

 

出発の翌1921年、弟(愛子の弟、泰)の看病に力を尽くした妻愛子が病床に臥し、その後、病は肺結核であると判明した。

 

矢内原の祈りにもかかわらず、病勢は徐々に進んだ。矢内原が留学予定を切り詰めて、1923(大正12)年2月9日、横浜港に上陸した時、愛子は既に慶応病院に入院していた。

 

そして、そのわずか半月後の2月26日、妻愛子は世を去った。

矢内原、30歳の時のことであった。

 

 

■当時の矢内原について、西村秀夫著『矢内原忠雄』に、以下の解説がある。

19399月の〔矢内原の〕第2イザヤ書講義の一節に、次のような言葉がある。

 

今から20年も前に、私はある問題を非常に苦しみ悩んだことがある。

 

そして浅間山を、泣きながら何度上ったり下りたりしたか分からない。自分の涙でもって離山(りざん)が溶けてしまうかと思うぐらいであった。

 

そうしている中に突然、「『慰めよ、慰めよ、わが民を』と君たちの神が言われる。まことに、その服役(ふくえき)の期(とき)は終わった。その咎(とが)は赦された」という第2イザヤのはじめ(イザヤ書40:1、2)の言葉が、〔赦しのことばとして〕私の心にささやかれた。

 

どうして赦されたのか、どうして終わったのか分からない。

けれどもそれは、「どうして」ということを問い返すことの出来ない圧倒的な天からの慰めの言葉として、私を占領してしまった。

 

それで、私は涙を拭(ぬぐ)って山から下りたことがある。

(『矢内原忠雄全集 第12巻』岩波書店、第12巻518項)

 

講義で述べられた、矢内原の〕この罪の苦しみと赦しの体験は、〔妻愛子を喪(うしな)った、〕この時のことだったのではないだろうか。・・

 

この暗黒と苦悶(くもん)が深かっただけ深く、そしてそこで仰(あお)いだ神の恵みの鮮(あざ)やかだっただけ鮮やかに、彼は神の生命(いのち)を注(そそ)がれた。

 

そこに彼のこの後の戦闘力の源(みなもと)があった、ということができるのではなかろうか

(参考文献:西村秀夫『矢内原忠雄』日本基督教団出版局、1975年)

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