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2月<内村鑑三「一日一生」現代語訳

 

2月1日~2月5日

(2021年2月21日更新)

 

 

このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。

 

【2月1日】神は誠実である

アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。

これがあなたと結ぶわたしの契約である。

 

あなたは多くの国民の父となる。

あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。〔わたしは〕あなたを多くの国民の父とするからである。

 

わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。

わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。

そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」(創世記 17:3~8)

神は誠実(まこと)である。神は、ご自分を信ずる者を欺(あざむ)くことはされない。

神は〔信ずる者に〕まず、〔最大の報償として〕ご自分を与え、その後(あと)で、彼が創造した物(もの)をお与えになる。

事実、神は〕まずご自分をアブラハムに現(あらわ)し、その後で、アブラハムの数多くの子孫にカナンの土地をお与えになった。

 

信仰の報償は霊(れい)が先であって、物は後(あと)である。〔そして、〕約束の「物」は人を導いて、約束の「霊」に至らせる。

 

われらは、神を信じて〔も〕、〔すぐに〕物が得られないからといって悲しんではいけない。

〔われらは、〕先(ま)ず〔神の〕霊を与えられ、その後で、物もまた、豊かに与えられるからである。(「信仰の報償」より。信16・288)

 

《内村の原文》

神は誠信(まこと)なり。彼は自己を信ずる者を欺きたまわず。

彼はまず自己を与えたまいて、しかる後に、彼の造りし物を与えたもう。

まず自己をアブラハムに現したまいて、しかる後に、彼の数多き子孫にカナンの土地を与えたまえり。

信仰の報償は、先に、霊にして、後に物なり。約束の「物」は人を導いて、約束の「霊」にいたらしむ。

われら、神を信じて、物を得ざればとて悲しむべからず。そは、まず霊を与えられて後にまた物をも豊かに与えらるべければなり。

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【2月2日】わたしに大きな歓喜が

言い尽くせない賜物(たまもの)のゆえに、神に感謝する。(コリント第1 9:15 口語訳)

 

わたしに大きな歓喜(よろこび)ある。

 

世は、この歓喜をわたしから奪うことはできない。また、わたしは自分の好きでこれを人に分ける与えることはできない。

この歓喜は、神がわたしに下さった特別の賜物(たまもの)だからである。

世はもちろん、それが何であるかを知らない。神から同じ賜物をいただいた者だけが、それが何であるかを知っている。

 

それは、聖霊(みたま)の賜物である。全宇宙に、これに勝(まさ)って貴(とうと)いものはない。

 

神の〕聖霊をいただくとき、われらは、他に何ものも求めなくなる。これがあれば、われらは満ち足りる。

聖霊を心に受けるとき、われらはすべての苦痛(くるしみ)を忘れる。

この賜物に接するとき、われらは、神が完全な愛であることを〔身をもって〕知る。

この恵みにあずかるためならば、われらはどんな困苦(くるしみ)に会っても良い〔とさえ、思う〕。

 

今になって、わたしは初めて知った。

天にあるものも、地にあるものも、高い所にあるものも、深い所にあるものも、現在のものも、将来のものも、その他のどんな被造物も、わが主キリスト・イエスによる神の愛から、われらを引き離すことはできないことを(ローマ書 8:38~39)。

(「新年の歓喜」より。信8・202)

♢ ♢ ♢ ♢

【2月3日】冒険のない人生に

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ書 11:1)

 

冒険のない人生に興味なく、信仰のない生涯に意義がない。

 

万事が科学化され、何事も計算的に予知されるようになるとき、人生は機械化されて、生きがいは消失するに至(いた)る。

 

そして生命(いのち)が〔躍動する〕生命である間は、生命の科学化は永久に行われない。

 

信仰は、生命の必然的付随物である。生命そのものが、大(おお)いなる冒険である。〔生命は、〕死んだ物質界にあって、〔その〕存在を維持しようとするのである〔から〕。

 

この宇宙に生まれ出た以上、〔人は〕冒険を免(まぬか)れることはできない。〔良心に響く神の声に従い、理想を行う冒険としての〕信仰を捨ててはいけない。(「信仰の冒険」より。信16・45)

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【2月4日】宗教に2種類ある

すると、〔もう一度たずねるが、神が〕あなたがたに御霊(みたま)を賜(たま)い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行った〔あなた方の業績(わざ)〕からか、それとも、〔神の賜物である福音を〕聴いて信じ〔従っ〕たからか。(ガラテヤ書 3:5 口語訳)

 

宗教に2種類ある。ただ2種類あるだけである。

すなわち、自力(じりき)宗と他力(たりき)宗〔の2種類〕である。


儒教、神道、イスラム教、ユダヤ教、〔これらは〕みな自力宗である。そして浄土宗の仏教は他力宗であるが、絶対的他力宗ではない

 

信仰を救いの条件として要求する宗教は、いまだ絶対的他力宗と呼ぶことはできない。信仰そのものまでも神の賜物(たまもの)として見るに至って、宗教は絶対的他力宗となるのである。

 

そしてキリストの福音は、このような宗教である。すなわち絶対的他力宗である。

きみたちが信ずるのは神の大能(たいのう)の〔力の〕働きによるのである」とある(エフェソ書 1:19)。

 

信徒の仰そのものが、神の賜物である。それゆえ、〔人が〕誇る余地は寸毫(すんごう)もないのである(注1)

 

ただ、祈るのである。〔神に〕祈り求めるのである。

そして、その祈る心さえも祈り求めて、これを与えられて、神に感謝するのである。

 

創造された人は、創造した神に対して、絶対的服従に出るほかに、取るべき態度はないのである。

 

信仰の道はつまるところ、祈り求めるという道にほかならないのである。

(原著「二種の宗教」。信14・66)

* * * *

注1 サクラメント(聖礼典)と教会、無教会

〔制度〕教会と無教会を線引きする最大の問題は、サクラメント〔、すなわち聖礼典・秘跡としての洗礼、聖餐等〕です。

 

教会が「(サクラメントという)条件付き救済論」を主張しているのに対し、無教会は「(付帯条件なしの)無条件救済論」を唱道(しょうどう)しています。

 

無教会の信仰の根幹は、内村鑑三の「人は〔まず、神に〕救われることによって〔、初めて〕信じる者になる」という命題の提示にあります。

内村は、キリスト信者は〔人間の信仰的な功徳・業績や聖職者の執行するサクラメントの効力によってではなく、〕〔の絶対的・圧倒的な恩恵〕〔よって〕信ぜしめられて信者になったのであり、その〔信じる〕信仰そのものが神の特別なる恩賜(おんし)であると述べています。

 

これについて、高橋〔三郎〕先生は、〔先生の月刊伝道誌『十字架の言(ことば)』において、次のように述べています。〕

 

もし人は〔まず神に〕救われることによって〔、後にはじめて〕信じる者になる〔、信仰を与えられる〕という命題が確立されるならば、〔人が「自らの」信仰を誇る余地はなくなるのだから、『自らの信仰』の正しさを誇りつつ争われる〕血なまぐさいキリスト教史上の悲劇は〔、それによって〕一挙に解決されることになる〔、そのような〕実に重大な宗教改革的真理を、内村は発見したのである。

無教会はこれを証(あか)しすべく(め)されているのである」、

 

さらに「『〔まず、人を救うという〕神の救済意思の発現から、〔次に、人の〕信仰へ』という恩恵の順序の再発見こそ、無教会に課せられた使命であると私は信じています」と。

(松阪著「高橋三郎先生の次世代への伝言」『今井館ニュース 第32号』2015年7月31日より。〔 〕内、下線は補足)

神学・論文012〖恩寵義認と無教会の無条件救済論〗

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【2月5日】金銭の要点は

なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。

持ちになろうとする者は、誘惑、罠(わな)、無分別で有害なさまざまの欲望に陥(おちい)ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。

 

金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで〔わが身を〕突き刺された者もいます。

しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。

 

正義、信心(しんじん)、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。

 

信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召(め)され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。(テモテ第1 6:7~12

 

金銭の要点は、これを有益に遣(つか)うことにある。

 

遣うべきものを蓄積すれば腐食(ふしょく)するのは、もちろん〔のこと〕である。他の物の腐食は、その物(もの)自体の腐食にとどまるけれども、金銭の腐食は、ひいては精神に及(およ)ぶ。

 

もし、憂鬱(ゆううつ)な思想を去り、常に快活で生命(いのち)の真意を味わいたいと願うならば、われわれは守銭(しゅせん)的思慮を放棄して、銭(ぜに)を捨てて想(そう)を得る道を講ずるべきである。

(「初秋黙想」より。信19・51)

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