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2月<内村鑑三「一日一生」現代語訳

 

2月6日~2月10日

(2017年11月25日更新)

 

 

このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。

 

【2月6日】聖霊がイエスを荒野に(荒野の試練)

それからすぐに、御霊(みたま)がイエスを荒野(あれの)に追いやった。

イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタン(悪魔)の試(こころ)みにあわれた。

そして(けもの)もそこにいたが、御使(みつかい)たちはイエスに仕えていた。

(マルコ福音書 1・12~13 口語訳)

 

聖霊せいれい)がイエスを荒野追いやる、という。

神の霊はまた、しばしばイエスの弟子を〔サタンのいる〕荒野に追いやる。

 

〔神は、〕あるいは大責任を彼に担(にな)わせ、あるいは大思想を彼に与え、あるいは大疑問を彼の内に起こして、彼がやむなく、寂寞(せきばく)の内に光明(こうみょう)を探〔り求め〕るようにされる。
 

荒野は時には、奥深き山である。砂漠である。あるいは、人の作った修道院である。
そしてまた、山に退(しりぞ)くことなく、また寺に隠れることなくとも、〔イエスの弟子は〕心の内に荒野を作られて、身は都会の雑踏の地にありながら霊は〔心の〕荒野をさ迷って、悪魔に試(こころ)みられるのである。

キリスト信徒はだれでも、一度は必ず荒野に追いやられるのである。


その時、彼は何となく不安に感じる。〔目標がかすみ、〕人生がつまらなくなる。恐れる。戦(おのの)く。〔光明を見失い、目の前が〕真っ暗になる。

その時、いろいろな囁(ささや)きが心の耳に聞こえ〔てく〕る。実に、彼にとって人生の〔一大〕危機である。

 

われわれは皆、各々、一度は荒野に追いやられるのだと知り、孤独寂寞を感じる。

しかし、決して失望してはならない。〔われわれは、荒野の試練に勝利された勝利者イエスを仰(あお)ぎ見て、彼に助けを求めなければならない。〕(注15・20)

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【2月7日】わたしは自分自身で

同様に、“〔聖〕霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちは〔神の御心に適うために〕どう祈るべきかを知りませんが、“〔聖〕霊”自(みずか)らが、言葉に表せないうめきをもって〔神に〕執(と)り成(な)してくださるからです。

人の心を見抜く方〔、神〕は、“〔聖〕霊”の思いが何であるかを〔もちろん〕知っておられます。

霊”は、神の御心(みこころ)に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。(ローマ書 8:26~27)

 

わたしは、自分自身で祈りません。わたしは、わたしに代わって神様に祈っていただきます。

 

霊である神様〔、すなわち聖霊〕がわたしの内に宿られ、わたしを通して神様の聖意(みこころ)を祈り求めること、時には言葉に表せない〔切なる〕呻(うめ)きをもって。それが、本当の祈りであります。


哲学的には不可解であります。しかし〔現〕実〔経〕験的には、真理であります。この神様〔の霊〕が、ご自分の子供〔、つまり信徒〕の内にあって、彼ら(信徒)を通して神様に祈るということ。それが本当に、わたしの祈り〔なの〕であります。なぜなら〔、事実〕、わたしは神様に祈っていただくのですから。


そして、その祈りの内容が、わたしの欲求や願望ではなく神様の聖(きよ)い聖意(みこころ)であるがゆえに、その祈りは、必ず〔神様の〕聖前(みまえ)に受け入れられて、きっと聞かれるのであります。

 

自己を無にすることは、祈りによって神と語る時でさえ必要〔なの〕であります。〔ですから、〕わたくしたちは神様に、神様がわたくしたちに代わって祈ってくださるよう、祈らなければなりません。(原著「祈祷について」、信16・220)

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【2月8日】何と心強いことか

すると、正しい人たちが王に答える〔であろう〕。「主よ、いつわたしたちは、〔あなたが〕飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」
そこで、王は答える。「〔わたしはあなたたちに、〕はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこ〔れら〕の最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。
(マタイ福音書 25:37~40)

 

何と心強いことか

われわれが主の名によって行うすべての小さな善行は、多くの場合〔この世〕に認められず、時には突き返されることがあるけれども、しかも〔決して〕空しくなく、無用でなく、無効ではない。

それは、宇宙(神)の大御心(おおみこころ)の記憶の中に残り、〔神に〕受け入れられ、嘉賞(かしょう)され、そして、ある時、ある場所で、ある形によって報(むく)いられるというのである。


実に神の〔創造された〕宇宙は大銀行であって、この銀行に預(あず)けた善行は決して失われず、一方において失われたかに見えたものは、〔時が来れば〕他方から帰り来る。

しかも、元のままで帰る来るのではなく、〔神の〕聖手(みて)に〔信頼して〕お委ねした信仰の量に従って、利息を付けられて帰り来る〔のである〕。

 

だから「〔兄弟たちよ。〕わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば〔必ず、その実を〕刈り取るようになる〔のだから〕」(ガラテヤ書 6・9 口語訳)(信22・102)

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【2月9日】金と銀は、わたしに

神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。(コリントⅠ 5・18~19)

 

金と銀は、わたしにない。わたしは、この世の財貨によって人を助けることはできない。

わたしは、キリストの福音によって人を助けよう。


わたしは、社交術を知らない。それゆえ、権力者の中に友人を持たない。わたしは、権力により人を助けることはできない。
わたしは、キリストの福音によって人を助けよう。


わたしに、美術・演芸のわざはない。わたしは、美術と美文を解さない。わたしは、人を楽しませる方法を知らない。
わたしは、キリストの福音によって人を慰めよう。


わたしに、才能はない。わたしは、処世の道に暗い。わたしは、知略により人を助けることはできない。
わたしは、キリストの福音によって人を助けよう。


わたしは、すべての物とすべての方法によって、すべての人を助けることができないのを悲しむ。


けれども〔わたしは〕、神の本質が愛であることを少しだけ知っているので、わたしはこの単純な福音によって、涙の谷を歩むこの憐れむべき人類を、わずかなりとも助け、かつ慰めたいと願う。(原著「われのなし得ること」信7・296)

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【2月10日】遅鈍でありなさい

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