
イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2025年2月19日
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2月<内村鑑三「一日一生」現代語訳
2月11日~2月15日
(2017年2月27日更新)
このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『続 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。
【2月11日】信である、信である
♢ ♢ ♢ ♢
【2月12日】こうして神の恩恵の道具となって(良き、また有能な伝道者)
主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣(つか)わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。
主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に、〔恥辱の〕灰に代えて〔栄光の〕冠(かんむり)をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣(ころも)をまとわせるために。
彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫(かし)の木と呼ばれる。
(イザヤ書 60:1~3)
■こうして〔主イエスの福音によって生かされて〕神の恩恵の道具となり、ひとり密室にあるとき、あるいは田んぼで働くとき、〔そのままで〕私は、神の良き、また有能な伝道者となることができる。
〔真の信仰に生きることが、すなわち最大の伝道である。〕
深く、篤(あつ)く神を信じるとき、私は一言も発せず一字も書かずとも、効果的な伝道を行うことができる。
そして〔実は〕、このような有力な伝道は、常に世に行われている〔のである〕。
そして、このような伝道が静かに、隠れた所で行われているがゆえに、ラッパと太鼓(ドラム)による伝道師たちの〔大衆〕伝道が多少とも、功(こう)を奏するのである。
最も有力な伝道は〔、神の恩寵(おんちょう)の中に生きる信徒の、存在自体による〕無声の伝道である。
「言葉もなく、語ることもなく、その声もきこえないのに、その響きは全地にゆきわたり、その語りかけは地の果てにまで及ぶ」(詩篇19:4、5)とある伝道である。
自己を真理の試験物として差し出し、深く〔福音を〕究(きわ)め、深く苦しみ、深く救われ、深く喜ぶとき、われらは誰でも、神の良き伝道者となることができる。
(原著:「有効的伝道法」1917年、信17・52)
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【2月13日】世に永存するもの
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【2月14日】私どもの生涯にも(神本位の信仰)
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。
なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
(コリント第2 12:10 口語訳)
■私どもの生涯にも、多くの苦難(くるしみ)と悲哀(かなしみ)があります。私どもが来てほしくない〔と思う〕ことが来て、来てほしい〔と願う〕ことが来ません。
私どもの祈りの多くは、充(み)たされない祈祷(ねがい)として消えてしまいます。
そのことを思うとき、神の存在は疑わしくなり、何ゆえに〔自分が〕キリスト信徒となったのか、私ども〔の心〕は、その理由を知るのに迷います。
しかしながら聖書は、明白に私どもに示します。
それは実は、私どもにとって、どうでも良いことである、と。
〔人本位か、神本位か。人のための神か、神のための人か。
聖書は告げます。
神のための人であって、人のための神ではない。宇宙と人類は、神の御栄光のあがるために創造されたのであって、人の幸福のために神がおられ、宇宙が創(つく)られたのではない、と。
人の生涯の意義は、神のご計画を成し遂げることにあります。
ですから、〕神の聖意(みこころ)さえ成就(じょうじゅ)すれば、それで良いのです。
私どもが〔この〕世に遣(つか)わされたのは、〔自分の〕幸福を楽しむためではありません。神の偉大な事業に参画するためです。
そしてそのためには〔私どもは〕、〔自分の〕幸、不幸を選びません。もし〔私どもの〕死がそのために必要でありますならば、「アーメン、主を讃美せよ」〔と言って、いのちを差し出すまで〕です。不幸、患難は辞退するに及びません。
〔実に、私どもにとって〕最大の幸福、最大の恩恵は、自分のために何も求めることなく〔すなわち、わが身の幸、不幸を忘れて〕、ただ神の聖意が成就することだけを願う、その〔神に対する信頼と服従の〕心〔そのもの〕です。
(原著「神本位の宗教」1925年、信15・98)
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【2月15日】どのようにして聖霊を受けるか(聖霊を受ける方法)
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
〔だから、争いなどで〕神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。
あなたがたはその神殿なのです。
(コリントⅠ 3:16、17)
■どのようにして聖霊を受けるか。
これは〔、キリスト信徒にとって重大な〕問題である。
密室〔で〕の熱烈な祈り、ひとり山中に分け入(い)って谷川の調べと鳥の歌に合わせて〔神に〕ささげられる静かな祈り、それ〔ら〕も貴(とうと)く、また必要でもある。
しかし、これだけでは聖霊の注ぎにあずかることはできない。これだけでは、はなはだ不十分である。
神の霊は「神の神殿」に降(くだ)る。
〔つまり、信徒の共同体である〕集会の上に、〔神の〕油と露(つゆ)と炎〔、すなわち聖霊〕は降る。
そして、これ(集会の上に降った一つの聖霊)が〔、さらに〕分かれて会衆〔各自〕の上に降るのである。
過去において聖霊は、大体、このようにして降った。それゆえ、今でも同様である。また将来においても、同様であろう。
このために、〔信仰の兄弟姉妹が相集(つど)う〕集会の必要、祈祷(きとう)会の必要、共に福音を学び共に神に祈る必要が生まれるのである。
孤立は大きな災(わざわ)いである。〔なぜなら、孤立は、〕聖霊の注ぎを妨げることである〔から〕。
われらは〔、互いに〕連なり合い、結び合って、全体において一つの「神の神殿」〔すなわち信仰共同体〕を形造り、この神殿の上に一つのものとして降る聖霊を、各自が分与されるよう努力しなければならない。
(原著「ロマ書の研究 第22講 神の宮」1921年、注16・176)
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