2月<内村鑑三「一日一生」現代語訳

 

2月11日~2月15日

(2017年2月27日更新)

 

 

このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。

【2月11日】信である、信である

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【2月12日】こうして神の恩恵の道具となって(良き、また有能な伝道者)

主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。

 

わたしを(つか)わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。

打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。

 

主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に、〔恥辱の〕灰に代えて〔栄光の〕冠(かんむり)をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣(ころも)をまとわせるために。

 

彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫(かし)の木と呼ばれる。

(イザヤ書 60:1~3)

 

こうして〔主イエスの福音によって生かされて〕神の恩恵の道具となり、ひとり密室にあるとき、あるいは田んぼで働くとき、〔そのままで〕私は、神の良き、また有能な伝道者となることができる。

 

真の信仰に生きることが、すなわち最大の伝道である。〕

深く、(あつ)く神を信じるとき、私は一言も発せず一字も書かずとも、効果的な伝道を行うことができる。

そして〔実は〕、このような有力な伝道は、常に世に行われている〔のである〕。

 

そして、このような伝道が静かに、隠れた所で行われているがゆえに、ラッパと太鼓(ドラム)による伝道師たちの〔大衆〕伝道が多少とも、功(こう)を奏するのである。

 

最も有力な伝道は〔、神の恩寵(おんちょう)の中に生きる信徒の、存在自体による〕無声の伝道である

 

言葉もなく、語ることもなく、その声もきこえないのに、その響きは全地にゆきわたり、その語りかけは地の果てにまで及ぶ」(詩篇19:4、5)とある伝道である。

 

自己を真理の試験物として差し出し、深く〔福音を〕究(きわ)め、深く苦しみ、深く救われ、深く喜ぶとき、われらは誰でも、神の良き伝道者となることができる

(原著:「有効的伝道法」1917年、信17・52)

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【2月13日】世に永存するもの

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【2月14日】私どもの生涯にも(神本位の信仰)

だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。

なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

 (コリント第2 12:10 口語訳)

 

私どもの生涯にも、多くの苦難(くるしみ)と悲哀(かなしみ)があります。私どもが来てほしくない〔と思う〕ことが来て、来てほしい〔と願う〕ことが来ません。

私どもの祈りの多くは、充(み)たされない祈祷(ねがい)として消えてしまいます。

 

そのことを思うとき、神の存在は疑わしくなり、何ゆえに〔自分が〕キリスト信徒となったのか、私ども〔の心〕は、その理由を知るのに迷います。

 

しかしながら聖書は、明白に私どもに示します。

それは実は、私どもにとって、どうでも良いことである、と。

 

人本位か、神本位か。人のための神か、神のための人か。

聖書は告げます。

神のための人であって、人のための神ではない。宇宙と人類は、神の御栄光のあがるために創造されたのであって、人の幸福のために神がおられ、宇宙が創(つく)られたのではない、と。

 

人の生涯の意義は、神のご計画を成し遂げることにあります。

ですから、〕神の聖意(みこころ)さえ成就(じょうじゅ)すれば、それで良いのです。

 

私どもが〔この〕世に遣(つか)わされたのは、〔自分の〕幸福を楽しむためではありません。神の偉大な事業に参画するためです。

 

そしてそのためには〔私どもは〕、〔自分の〕幸、不幸を選びません。もし〔私どもの〕死がそのために必要でありますならば、「アーメン、主を讃美せよ」〔と言って、いのちを差し出すまで〕です。不幸、患難は辞退するに及びません。

 

実に、私どもにとって〕最大の幸福、最大の恩恵は、自分のために何も求めることなく〔すなわち、わが身の幸、不幸を忘れて〕、ただ神の聖意が成就することだけを願う、その〔神に対する信頼と服従の〕心〔そのもの〕です。


(原著「神本位の宗教」1925年、信15・98)

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【2月15日】どのようにして聖霊を受けるか(聖霊を受ける方法)

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。

だから、争いなどで〕神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。

 

あなたがたはその神殿なのです。
(コリントⅠ 3:16、17)

 

どのようにして聖霊を受けるか

これは〔、キリスト信徒にとって重大な〕問題である。

 

密室熱烈な祈り、ひとり山中に分け入(い)って谷川の調べと鳥の歌に合わせて〔神に〕ささげられる静かな祈り、それ〔ら〕も貴(とうと)く、また必要でもある。

しかし、これだけでは聖霊の注ぎにあずかることはできない。これだけでは、はなはだ不十分である。

 

神の霊は「神の神殿」に降(くだ)る。

つまり、信徒の共同体である〕集会の上に、〔神の〕油と露(つゆ)と炎〔、すなわち聖霊〕は降る。

そして、これ(集会の上に降った一つの聖霊)が〔、さらに〕分かれて会衆〔各自〕の上に降るのである。

 

過去において聖霊は、大体、このようにして降った。それゆえ、今でも同様である。また将来においても、同様であろう。

 

このために、〔信仰の兄弟姉妹が相集(つど)う〕集会の必要、祈祷(きとう)会の必要、共に福音を学び共に神に祈る必要が生まれるのである。

 

孤立は大きな災(わざわ)いである。〔なぜなら、孤立は、〕聖霊の注ぎを妨げることである〔から〕。

 

われらは〔、互いに〕連なり合い、結び合って、全体において一つの「神の神殿」〔すなわち信仰共同体〕を形造り、この神殿の上に一つのものとして降る聖霊を、各自が分与されるよう努力しなければならない。


(原著「ロマ書の研究 第22講 神の宮」1921年、注16・176)

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