イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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2月<内村鑑三「一日一生」現代語訳
2月16日~2月20日
(2017年3月10日更新)
このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『続 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。
【2月16日】キリスト教の修練!
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。
それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物(たまもの)である。決して〔自らの〕行いによるのではない。
それは、だれも誇ることがないためなのである。
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。
神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、〔わたしたちを創造される前から、〕あらかじめ備えて下さったのである。
(エペソ書 2:8~10 口語訳)
■キリスト教の修練!
これは〔寺院における〕座禅でもなければ、〔書斎における〕読書でもありません。
キリスト教の修練は、祈りによって神と交わることです。聖書において神の聖旨(みむね)を探求することです。
そして、そのあとは〔世俗のただ中で、すなわち〕畑において、職工場において、または帳場(注1)において、神からいただいた能力(ちから)を実行することです。
なんと常識にかなった、また、なんと有益な修練法ではありませんか。
(信22・29)
§ § § §
注1 帳場(ちょうば)
商店や料亭などで、金銭の出し入れや帳簿の記入などをする場所。
♢ ♢ ♢ ♢
【2月17日】福音を安売りするな
天国は、畑に隠してある宝のようなものである。
人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
また天国は、良い真珠(しんじゅ)を捜(さが)している商人のようなものである。
高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。
(マタイ福音書 13:44~46 口語訳)
■福音を安売りするな。〔また、〕福音を安く買うな。
真理の価値は、〔真理のために〕支払った代価によって定まる〔のだ〕。
〔事実、真理のために〕多く払った者はこれを多く尊び、少なく払った者はこれを少なく尊ぶ。
高い代価を払って福音を求め〔て、これを〕得た者で、福音を捨てた者があると〔いう例を〕聞いたことがない。
背教(はいきょう)者はたいていは、安価に福音を買い求めた者である。〔心せよ!〕
(原著『ガリラヤの道』「40 伝道師とその責任」1925年、注15・164)
♢ ♢ ♢ ♢
【2月18日】疑問があり、煩悶があるとき
ヤハヴェを ほめ讃(たた)えよ、
わが魂よ、ヤハヴェをほめ讃えよ。
わたしは生ける限りヤハヴェをほめ讃え、
生命(いのち)ある限りわが神をほめうたう。
世の権力者を頼みとしてはいけない、
身分の高い者でも、―救いは彼にはないのだから。
その息が出てゆけば、彼は土に帰る。
その日彼の企(くわだ)ては滅び失(う)せる。
ヤコブの神をその助けとする者、
その望みをその神、ヤハヴェに置く者に幸(さち)あれ。
(詩篇 146:1~5 関根正雄訳)
■〔心に〕疑問があり、煩悶(はんもん)があるとき、〔それは〕ただちに解決できるものではない。
ただ、神から解答をいただける時が必ずあると信じて、〔その〕希望によって現在の苦痛を慰(なぐさ)めるべきである。
〔願いが満たされる時は、必ず来る。それゆえ、〕
急ぐな。
慌(あわ)てるな。
神を待ち望め。
静かに待望(たいぼう)せよ。
これが、暗中にとるべき唯一の健全な道である。
(原著「ヨブ記の研究(2) 8 ヨブ愛の神に訴う」1917年、注4・188)
♢ ♢ ♢ ♢
【2月19日】宇宙はその細部に至るまで(信じる者の平安)
神を愛する者たち、つまり、〔神の〕ご計画に従って召(め)された者たちには、万事(ばんじ)が益(えき)となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
(ローマ書 8:28)
■宇宙はその細部に至るまで、神が〔義と愛によって〕統(す)べ治めておられます。
〔ですから、イエスが言われたように、〕神の許しがなければ、一羽の雀(すずめ)さえ地に落ち〔ることはあり〕ません。
また私どもの髪の毛までがみな〔、一本残らず〕数えられ〔てい〕るとのことです〔マタイ 10:29~30〕。
このような世界(宇宙)にあって、このような神を信じ〔てい〕るのですから、私どもは何事であれ、安心していてよいのです。
〔たとえ、〕私どもの兄弟が私どもに刃(は)向かって私どもを苦しめようとも、私どもの友が私どもを〔敵に〕売って私どもを死地(しち)に陥(おとしい)れようとも、私どもの事業に大きな妨害が加えられようとも、これ〔ら〕はみな、愛なる天の父(神)の主宰(しゅさい)のもとに起こることですから、〔最終的に〕私どもの益となることであって、決して害とならないに相違ありません。
「神を愛する者たち、すなわち、神のご計画に従って召された者たちのために、万事(すべてのこと)が共に働いて、益となる」とは、実に慰(なぐさ)めに満ちた〔み〕言葉であります。
(原著「安心」1902年、信8・195)
♢ ♢ ♢ ♢
【2月20日】そうだ、われらもまたすべて(独り子イサクを捧げる)
そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠(ほふ)ろうとした。
そのとき、天から主の御(み)使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。
彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。
「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏(おそ)れる者であることが、今、分かったからだ。
あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜(お)しまなかった。」
アブラハムは目を凝(こ)らして見回した。
すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
(創世記 22:10~13)
■そうだ、われらもまたすべて、われらの持つ最も善きものを神から要求される〔時がある〕のである。
〔それは、〕あるいは〔愛〕子か、あるいは妻か、あるいは財産(たから)か、あるいは地位か、あるいはこの世の名声か、あるいは時には技芸(注1)学問か。
いずれにせよ、われら各自が自分の生命(いのち)よりも大切だと思っているものを〔捧げることを〕要求されるのである。
その時が信仰の大試験である。
〔神を呪い神を捨て去るのか、それとも、どこまでも神を信じ神に従うのか。〕
〔神の恵みによって〕この試験に合格するとき、われらは初めて完全に神のものとなるのである(注2)。
しかし、この試験に落第するとき、われらは〔この世の人となって、〕その時までに得たものまですべて、失うに至るのである。
人生の大事とは、実にこの時である。われら各自の永遠の運命の定まるのは、実にこの時である。
(原著『創世記』「イサクの献供」1908年、注1・205)
§ § § §
注1 技芸(ぎげい)
美術・工芸の作品を制作する技術。
注2 内村の愛娘ルツの死(ヨブ記 1:20~22参照)
内村には愛(まな)娘ルツがいた。ルツは、とくに父の子であった。容貌も性格も、父鑑三にそっくりであった。
彼女は、1911(明治44)年の春に女学校を卒業したあと、原因不明の高熱が6ヶ月続いた後、亡くなった。18歳であった。
しかし、この6ヶ月の間に彼女の信仰はメキメキと進んだ。ことに医師から死の宣告を受けてからの5週間は、完全な信仰の生涯であった。
彼女は己(おのれ)の罪を悔い、神の赦しを得てのち、己の敵を赦し、「もう私の心の中には一点のうらみもありません」と言った。薬を飲むごとに神に感謝した。
内村は我が子の病気の癒やされることを願い、日々、熱心に祈祷を捧げた。
それにもかかわらず、1912(明治45)年1月12日の早朝、ついにルツは息をひきとった。
臨終の3時間前、内村はルツに洗礼を授け、また、家族三人で聖餐(せいさん)式をした。これは、ルツが連なった最初にして最後の聖餐式であった。
彼女は細くなった手を伸ばして杯(さかずき)をとり、主の血を飲みほして後、死に瀕した顔に歓喜の色を浮かべ「感謝、感謝」とくりかえした。
脈が絶えて後40分、突然「もう行きます」と言って、最後の息をひきとった。(教文館全20・311)
葬儀の時、内村はのべた。「今日のこの式は、ルツ子の結婚式であります。私ども彼女の両親は今日、私どもの愛する娘を天国に嫁入りさせるのであります。今日はこれ、黙示録に示されている小羊の婚姻(こんいん)のむしろであります」。
式が終わってから、しめやかな葬列が雑司ヶ谷の墓地まで進んだ。
やがて棺が地下に納められ、日本の習慣にしたがって、まず遺族が土をかけることになった。
その時内村は、棺にかける土をつかむやその手を高くさしあげ、「ルツ子さん万歳(ばんざい)!」と絶叫した。
その数ヶ月前に内村の弟子となった〔旧制〕一高生の矢内原忠雄は、この光景を見て、全身雷で打たれたように立ちすくんだ。
そして、「これは、ただごとではない、キリスト教を信ずるということは生やさしいことではないぞ、一生懸命のものだぞ。」とつぶやきながら帰った(「先生の涙」)。
ルツの死は、内村にとって耐えがたい悲しみであった。
しかし、これによって彼の信仰は大きく飛躍した。ことに天国、来世、キリスト再臨、復活の信仰が燃えた。
彼女の死は、そのための犠牲であった。
(参考文献:政池仁『内村鑑三伝』教文館、1977年。鈴木範久『内村鑑三』岩波書店、1984年。鈴木範久『内村鑑三の人と思想』岩波書店、2012年)
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