top of page

1月<内村鑑三「一日一生」現代語訳

 

1月11日~1月15日

(2016年1月29日更新)

 

このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。

 

【1月11日】独立と孤立は違う

主(ヤハヴェ)はエリヤに言われた、「わたしはイスラエル〔のうち〕に七千人を残す。これは皆、バアル(注1)にひざまずかず、これに口づけしなかった者である」(列王記上 19:18)

 

独立 Independence と孤立 Isolation は違う

独立とは神と共に独(ひと)り立つことであって、孤立とは何者とも共に立つことができないことである。

 

神と共に立つとき、人は独りでも立つことができると同時に、たいていの場合、他者(ひと)と共に立つ〔のである〕。それは、神と共に立つとき、神の友を自分の友とせざるをえないからである。

 

独立すると、孤立する」とは、徹底的に独立を試(こころ)みたことのない者の言い分である。

独立すれば、めったに孤立することはない。世の中で、実は独立人ほど多くの同志を持つ者はいない。

 

かつてカーライルが言ったように、人類の〔真の〕共同一致は、各人が独立するときに実現する〔のである〕。

独立人は、〔他の〕独立人を〔同志として〕愛する〔からである〕。そして、独立人〔同士〕が結合したときに、最も強固な共同体が実現する。

 

もちろん、結合するための独立ではない。〔たとえ〕独り立つとも良し、と決心する独立である。

そして、人生の逆説(パラドックス)がここにもまた現れて、団結を要求しないところに最も強固な共同体が実現するのである。(信18・35)

 

 

注1 バアル(ヘブル語 ba‘al 、ギリシャ語 Βααλ)

古くからシリアおよびパレスティナで広く礼拝されていた天候と豊穣(ほうじょう)の男神。

バアルの原意は「主人」または「所有者」であったが、嵐や雷によって雨をもたらし、また豊作をもたらす神の固有名詞となった。

イスラエルがカナンに定着するに及んで、イスラエル人たちは純粋な神(ヤハヴェ)礼拝から離れてバアル礼拝を取り込み、ヤハヴェ礼拝とバアル礼拝が習合する事態が生じた(宗教混合)。

バアル神殿において神殿男娼と神殿娼婦の性交儀式を営むなど、バアル宗教には不道徳な要素が含まれていたので、エリヤを始め旧約の預言者たちは、バアル宗教と絶えず戦わねばならなかった(列王記上 18~19章、ローマ書 11:4)。

 

(参考文献:『新共同訳 聖書 スタディ版』日本聖書協会、2014年、付録「用語解説」p14。『旧約聖書Ⅲ 民数記 申命記』岩波書店、2001年、「補注 用語解説」p14。『新聖書大辞典』キリスト新聞社、1971年、p1052。)

♢ ♢ ♢ ♢

【1月12日】イエスに高く、深く、強い

ああ、わたしは災(わざわ)いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。国中でわたしは争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされている。

わたしはだれの債権(さいけん)者になったことも、だれの債務(さいむ)者になったこともないのに、だれもがわたしを呪(のろ)う。
主よ、わたしは敵対する者のためにも幸
(さいわ)いを願い、彼らに災いや苦しみの襲うとき、あなたに執(と)り成(な)しをしたではありませんか」。(エレミヤ書 15:10~11)

 

イエスに高く、深く、強い愛国心があった。

それゆえ、われわれ、彼の弟子にもまた、愛国心がなくてはならない。われわれもまた、自分の国を愛さなくてはならない。

 

すなわち、その外敵よりも〔、国を内部から蝕(むしば)む〕内敵を憎まなければならない。

イエスの時代と同様、〕われわれの中にもまた多く存在する〔空虚な知識を誇る〕学者とパリサイ人(びと)の類(たぐ)(注1)、彼らの顔を恐れずに、「偽善者よ、まむしのたぐいよ」と呼ぶ勇気を持たなければならない。

すなわち、剣(つるぎ)によってではなく、義によって国を救う行為に出なければならない。

 

このようにわれわれの愛国心を用いるとき、われわれもまた、イエスがご自分の国人(くにびと)に憎まれたように、自分の国人に憎まれるに違いない。

このように(な)すとき、ある種の十字架はまた、われわれの上にも置かれるに違いない。

 

しかしながら、国にこのような〔真の〕愛国者が出なければ、その国は長く存続することはできない。

もし、われわれが真実にわれわれの国を愛するならば、〔たとえ〕われわれは十字架につけられても、イエスのようにわれわれの国を愛さなければならない。(信10・177)

 

 

注1 パリサイ(ファリサイ)人、パリサイ派(ギリシャ語 ファリサイオイ Pharisaioi  Φαρισαιοι)

ハスモン王朝時代(紀元前2世紀)に形成されたユダヤ教の一派。

語源的に、「パリサイ(ファリサイ)」とは、律法を守らぬ輩(やから)から自らを「分離」させるという意味合いであると言われる。

ユダヤ教の律法を現代化、合理化して、日常生活において厳格に遵守(じゅんしゅ)しようとした集団。律法を守ること、特に安息日や断食、施しを行うことや宗教的な清めを強調した。

イエスの時代には、サドカイ派と並んで民衆に大きな影響力を持っていた。

律法学者の多くはパリサイ派に属していたと思われ、しばしば並んで記されている(マタイ23:2など)。福音書では、イエスの論敵として描かれる(マタイ12章、23章)

 

(参考文献:『新共同訳 聖書 スタディ版』日本聖書協会、2014年、付録「用語解説」p15。『新約聖書』岩波書店、2004年、「補注 用語解説」p36)

♢ ♢ ♢ ♢

【1月13日】わたしは暇さえあれば

地とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものは、主のもの。
主は、大海
(おおうみ)の上に地の基(もとい)を置き
潮の流れの上に世界を築かれた。


どのような人が、主の山に上り
聖所
(せいじょ)に立つことができるのか。
それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく
(あざむ)くものによって誓うことをしない人。
主はそのような人を祝福し
救いの神は恵みをお与えになる。
それは主を求める人
ヤコブの神よ、御顔
(みかお)を尋ね求める人。(詩編24:1~6)

 

わたしは暇(ひま)さえあれば、読書にふけっている。

わたしはもちろん、読書は特別の美徳であるとは信じない。

読書は、わたしにとっては一つの道楽である。本当に、唯一の道楽である。しかし、読書は道楽ではあるが、悪い道楽ではないと思う。

 

確かに〕これによって、多くの無益の書物と少なくない有害の書物を読むという害はあるが、しかし、時には有利有益の書物に接して、心に無限の悦楽(えつらく)を感ずることがある。

 

世の中に悦楽の種類は多いが、真理を発見した時にまさる悦楽はない。

その時、われわれは宇宙を我がものにしたように感ずる。自分は陋屋(ろうおく)に住む一介の貧乏人であるにもかかわらず、王子か貴公子になったかのように感ずる。

 

そして、この快感ほしさに、毎日毎時、書籍をあさるのである。

あたかも、墨川(ぼくせん)に釣り糸を垂れる者のように、獲物が稀であることは覚悟しつつ、獲(と)れた時のうれしさが忘れられずに、真理の漁猟(ぎょりょう)に従事するのである。(信20・123)

♢ ♢ ♢ ♢

【1月14日】贖罪とは、人に

「人の子〔わたし〕が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人の贖(あがな)(注1)として、自分の命を与えるためである」(マルコ福音書 10:45 口語訳)

 

贖罪しょくざい)とは、人にえることである。人のために善を行うことである。他人のために尽瘁(じんすい)することである。すなわち、自己を他人に与えることである。

兄弟が負債に苦しむのを見て、これを自分に無関係なこととして見るのでなく、みずから進んで彼を負債の束縛から救おうとすることである。

 

そして、罪は最大の負債であるから、神は、キリストにあって、人類の負債を除こうとされたのである。

もし、神がこの心を抱かれないならば、彼は神と呼ぶに値しない者である。

この心は、われわれ、罪に沈む人類にすら、多少は存在するものである。まして、神においては必然ではないか。

 

神がもし〔まことの〕神であるならば、彼は贖い主(あがないぬし)であるに違いない。神は進んで人の負債をわが身に負い、人をその苦痛から免(まぬか)れさせようとされる方であるに違いない。

 

そして〔事実〕、〔神の独り子〕キリストは神のこの心を体現して〔この〕世に下られた方であって、われわれは彼〔の生と死〕によって、神は真(まこと)にわれわれの理想に違(たが)わず、われわれの贖い主であることを〔感謝と共に〕知るのである。(信12・47)

 

 

注1 贖い、贖罪

対価ないし身代金(みのしろきん)を支払って、奴隷状態の者を買い戻し、開放すること。

元来は、律法違反の罪の贖いという贖罪信仰に由来する概念である。

パウロは、伝統的な「贖い」の概念を受け入れているが、ローマ8:23の「からだの贖い」の用法から明らかなように、彼は、律法違反の罪の贖いという理解を超えた全人的(からだを含む)な「贖い」を考えている。

 

(参考文献:『新約聖書』岩波書店、2004年、「補注 用語解説」p10)

♢ ♢ ♢ ♢

【1月15日】人生の目的は

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。〔手段であると同時に目的であるから。〕だれでもわたしによらないでは、父〔なる神〕のみもとに行くことはできない。

もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。

ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。(ヨハネ福音書 14:6~8 口語訳)

 

人生の目的は、神を知ることにある。その他には、ない。

(かね)(た)めることではない。人に褒(ほ)められることではない。哲学と芸術を楽しむことではない。神を知ることにある。これが、人生の唯一の目的である。

 

人間は、神と共に永遠の生を生きるよう、神によって創造されたのである。それゆえ、人生において神を知るという〕

この目的を達成しないならば、人生は全く無意味である。ほんとうに〔、はかない〕夢である。

この目的を多少なりとも達成することがなければ、〔この世的には〕最も成功した生涯も〔、実は、〕失敗〔であり、徒労にすぎないの〕である。

 

われわれは、年の初めにあたって再び、このことを深く心に留(と)めるべきである。(信20・256)

- 003 -

bottom of page