1月<内村鑑三「一日一生」現代語訳

 

1月6日~1月10日

(2017年5月17日更新)

 

このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。

【1月6日】信徒は時を知っている

夜は(ふ)け、日は近づいた。

だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。

 

日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。

酒宴と酩酊(めいてい)、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい

(ローマ書 13:12~14)

 

信徒は時を知〔ってい〕る。あの特別な時を知〔ってい〕る。

この歴史〕が終わりに達して、主〔イエス・キリスト〕が再び現れ〔、《神の国》が完成す〕る、その時を知〔ってい〕る。

 

そして、その恐るべき、また祝すべき〔キリスト再臨(さいりん)、《神の国》実現の〕時は、年一年と近づきつつある。そして、ここにまた新年を迎えて、〔信徒は、〕その時がさらに近づいたことを知るのである。

 

確かに、〕新年は〔単なる〕旧年の繰り返しではない。〔むしろ、〕新年は新天〔新〕地(新世界)の接近である。その到来の予告である。

 

それゆえ、〔新年は〕厳粛(げんしゅく)な時である。

眠りから(さ)め、暗黒の行いを去って〔、神の子に相応しい〕光明(こうみょう)の武具を〔身に〕着け、それにより花婿〔キリスト〕の入来(にゅうらい)を待つべき時である。

 

万物が一変して、われわれが完全に救われる時は近づきつつある。

信徒は、その意(こころ)をもって新年を祝すべきである。

(原著「新年を祝す」1918年、信16・175)

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【1月7日】わたしは日々、自己を

従って、今や、〔御子〕キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。

キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。

わたしたち人間の〕肉の弱さのために律法(りっぽう)がなしえなかったことを、神は〔御子によって為〕してくださったのです。

つまり、〔わたしたちの〕罪を取り除くために御子(みこ)を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。

それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」(ローマ書 8:1~4)

 

わたしは日々、自己(おのれ)(かえり)みない。わたしは日々、わが主を仰(あお)ぐ。

わたしは、わたしの内に何の善(よ)きことも発見することができない。わたしの善(ぜん)はすべて、「キリストと共に神の内に隠されているのである」(コロサイ書3:3)

 

わたしの汚(けが)れは、悲しむに及ばない。神はご自身の聖(きよ)さによって、わたしを聖めてくださる〔のだから〕。わたしの愚かさは、嘆くに及ばない。神はご自身の聡(さと)さによって、わたしを聡くしてくださる〔のだから〕。

 

わたしは、自己を省みて下(くだ)り、神を仰ぎ見て、昇る。あたかも日光が、わたしを天に向けて引き付けるのと同じである。

わたしは、わが主を仰ぎ見るとき、わが信仰の翼(つばさ)を張って、わが身は地〔上〕を離れて、〔天の〕主の宝庫(みくら)に向かって昇るかのように感じる。(信7・140)

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【1月8日】わたしに教会がある

イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子〔わたし〕の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ福音書 6:53~54)

 

わたしに教会がある。それは、イエス・キリストである。

わたしに監督(司教)がある。それは、イエス・キリストである。

わたしに聖餐(せいさん)がある。それは、イエス・キリストである。

わたしに祭物がある。それは、イエス・キリストである。

わたしに善行がある。それは、イエス・キリストである。

わたしに復活がある。それは、イエス・キリストである。

わたしに永遠の生命(いのち)がある。それは、イエス・キリストである。

 

イエス・キリストである。イエス・キリストである。彼は、わたしのすべてである。

彼が(お)られるがゆえに、わたしはキリスト信徒〔なの〕である。

 

彼が居られないならば、わたしに何があっても、たとえ〔殉教も厭(いと)わず、〕焼かれるためにわが身を差し出すほどの〔強い〕信仰があったとしても、わたしはキリスト信徒ではないのである。(信7・86)

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【1月9日】まず第一に理想が

ここでいう主とは、“〔聖〕霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があり〔、ベールが取り除かれ〕ます。

わたしたち〔主キリストを信ずる者〕は皆、顔の覆(おお)いを除かれて、鏡のように主の栄光を〔直接、〕映し出しながら、栄光から栄光へと〔進みつつ、ついに〕、主と同じ〔栄光の〕姿に造りかえられていきます。

これは主の霊の働きによることです」 (コリント第2 3:17~18)

 

まず第一に、理想がなくてはならない。そして、これを実現する力がなくてはならない。

 

キリスト者の理想は、キリストである。そして、〔理想を〕実現する力は聖霊(せいれい)である。

キリスト者はただひたすら、キリストを見つめる。しかしながら、見つめるだけでは彼は神の子とならない。聖霊が彼の内に働いて、彼が見つめている聖善の美を自分のものとしてくださる〔のである〕。

 

パウロが言うように、われわれキリスト者は主キリストの姿を自分の良心の鏡に映し、これを見つめて、主と同じ〔栄光の〕姿に変わっていく。

そして、主である聖霊は、わが内にあってこのことを行われる。

 

われわれの前に模範〔としてのキリスト〕が提供されている。〔そして〕これを実現するために、〔われわれに〕聖霊の力が注がれる。

 

福音は、真(まこと)に完全である。ただ、無益に夢想するのではない。ただ、〔徒(いたずら)に〕追求するのではない。〔福音によって、〕終局〔の理想〕と、これに到達する道と力が同時に提供されるのである。(信22・168)

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【1月10日】ヨブは言った

「〔わたしの中に二つのわたしがあって、〕「内なる人」として〔のわたし〕は神の律法りっぽう、注1)を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの〔わたし、罪の〕法則〔を喜ぶ外なる人としてのわたし〕があって〔、その神の律法を行おうとする〕心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。

わたしはなんと惨(みじ)めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ書 7:22~24)

 

ヨブは言った。「わたしは自分を退(しりぞ)け」る(ヨブ記42:6、注2)と。これが、本当の悔い改めの徴候である。

 

罪悪の世界を退けることではない。堕落した人類を退けることではない。この人、あの人を退けることではない。

まず第一に、主としてわたし自身を退け〔て自己の罪を悔い改め、神に立ち帰〕ることである。これが、神に受け入れられるための唯一の条件である。

 

罪の所在は自我(エゴ)である。罪とは他のことではない。自己中心(エゴイズム)〔のこと〕である。

 

それゆえ、神は何よりも自我を嫌われる。そして、人がもし神と一致したいと願うならば、何よりもまず〔自我中心の〕自己を退けなければならない。

 

新年の初頭にあたり、わたしは自己を退けて、塵(ちり)と灰とを被(かぶ)って悔い改めたいと願う。そして常に、この状態にありたいと願う。

こうして〔日頃、この状態にあることにより、〕神の恩恵は常に私の内に宿り、〔そして、〕退けるべき私は、私を愛して私のためにご自身〔の命〕を捨てられた方〔・キリスト〕の愛によっておおわれ、神が私を御覧(ごらん)になる時、私を御覧にならずに〔、代わりに〕、私をおおってくださるわが救い主〔キリスト〕を御覧になることを願う。(信16・49)

 

注1 律法(ギリシャ語 ノモス nomos νομος)

神の意志による教えと戒めのこと。神は、人間の守るべき道を教え、十戒その他の戒めを与えた(出エジプト記20:22~23:33等)。

民はそれらを守ることによって、神の選びの愛と契約にこたえなければならないとされた。

広義には、モーセ五書(旧約の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を指す。(参考文献:『新共同訳 聖書 スタディ版』2014年、付録「用語解説」p15)

 

注2 ヨブ記42:6の新共同訳による引用。

内村の原文では、ヨブ記42:6として明治訳の「わたしは自らを嫌(いと)う」を引用している。

同部、岩波訳(2004年)では「私は退けます」、ATD旧約聖書注解(1982年)の注(11)では、「直訳すれば『わたしは斥(しりぞ)ける』」、関根正雄訳(教文館、1997年)では「わたしは自分を否定し」となっている。

この現代語訳では、岩波訳、ATD旧約聖書注解の注を参考に、ヨブ記42:6として新共同訳の「わたしは自分を退ける」を採用した。それに伴い、内村原文中の「嫌(いと)う」はすべて「退ける」に変更した。

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