1月<内村鑑三「一日一生」現代語訳

 

1月1日~1月5日

(2017年5月17日更新)

 

このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。

【1月1日】はじめに神は天地を

初めに、神は天地を創造された。(創世記 1:1)

 

はじめに神は天地を創造された、という。宇宙に始まりがあった。〔そえゆえ、〕これに終末(おわり)があるに違いない。

 

神が宇宙を創造されたのである。宇宙は自ら進化してできたものではない。

神は宇宙を創造されたのである。これは、偶然にできたものではない。

宇宙の〕創造は、ある明確な目的をもって為(な)された〔神の〕最大の業(わざ)である。

 

善き〕神〔の意志〕が宇宙を創造されたのである。それゆえ、創造が失敗に終わるはずがない。

 

天界は完全な構造体である。同じように、〔最終的に、この〕地球もまた義(ただ)しき者と真(まこと)の人の住処(すみか)となるに違いない。

 

柔和な者が地を継ぐであろう。〔この世の〕強者と知者とは、今日(こんにち)彼らが為すように永遠に地球を占領することはないであろう。

 

神が創造されたものは、完成に達するにちがいない。〔すなわち最終的には、全く〕新しい天と新しい地とが出現して、〔神の〕義(ぎ)がその内で行われるようになるに違いない。

 

聖書の冒頭第一の言葉に、すべての約束と人類すべての希望とが含まれているのである。(注1・21)

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【1月2日】わたしが今日あるのは

サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き、「今まで、主〔ヤハウェ〕は我々(われわれ)を助けてくださった」と言って、それをエベン・エゼル(助けの石)と名付けた。

(サムエル記上 7:12)

 

《現代語訳》

わたしが今日(きょう)(あ)るのは、〔神〕ヤハウェ〔の慈(いつく)しみ〕による(注1)

 

わたしはヤハウェを捨て去ろうとした。しかし、彼はわたしを去らせてくださらなかった。

わたしは〔ヤハウェを忘れて、〕この世の者になろうとした。しかし、ヤハウェはわたしの望みをへし折り、わたしを強要して、彼の聖国(みくに)に引き寄せてくださった。

 

ヤハウェは〔牧者が羊にするように、〕その鞭(むち)、その杖によってわたしを導き、今日、わたしを緑の牧場(まきば)に伏させ、憩いの水辺(みぎわ)に伴ってくださる〔旧約聖書・詩編23編参照〕

 

わたしの過去〔に歩んだ道〕は、険(けわ)しかった。しかし険しかったことは、わたしのために善かった。

 

わたしもまた、〔羊のように〕鞭打たれ〔、それによっ〕て癒(い)やされたのだ。〔わたしは、〕愚かな羊のように〔自分勝手な道へ迷い出ようとしたが〕、杖によって〔打たれ、導かれて〕主の牧場に追い込まれた。

 

わたしもまた、新年の門出にあって〔感謝を込め〕、サムエルのように一つの石を立て、これをエベン・エゼル(助けの石)と呼ぼう。(信8・205)

 

§ § § §

 

《原文》

わが今日あるを得(え)しは、エホバによりてなり。

 

われはエホバを捨て去らんとせり。されど彼はわれを去らしめたまわざりし。

 

われはこの世の者とならんとせり。されどエホバはわが希望をくじきたまいて、強(し)いてわれを彼の聖国(みくに)にひきつけたまえり。

 

エホバはその笞(しもと)、その杖をもってわれを導き、われを今日、緑の野に伏させ、いこいの水辺(みぎわ)に伴いたまえり。

 

わが過去はけわしかりき。されど、けわしかりしは、わがために善(よ)かりき。

 

われもまた鞭(むちう)たれて癒(い)やされたり。愚かなる羊のごとくに、杖もて主の牧場に追い込まれたり。

 

われもまた新年の首途(かどで)において、サムエルのごとくに一つの石を立て、これをエベネゼル(助けの石)と呼ばんかな。

 

§ § § §

 

注1 神名ヤハウェ(Yahweh)とエホバ(Jehovah)に関する旧約聖書学の知見

聖書学〖神名ヤハウェとエホバについて〗

♢ ♢ ♢ ♢

【1月3日】われわれにとっては

 キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、〔今ここに〕新しいものが生じた〔のです〕。(コリント第2 5:17)

 

われわれにとっては、新年は、必ずしも新(しん)ではない。旧年は、必ずしも旧(きゅう)ではない。

(注1)こそ、新である。肉(注2)こそ、旧である。キリストこそ、新である。〔キリストに背を向ける〕この世こそ、旧である。

 

キリストは、きのうも、きょうも永久に新である。この世は、過去も現在も永遠に旧である。

 

肉を捨てて霊に行き、この世を去ってキリストに至るほかに、旧から〔まことの〕新に移る道はない。(信17・113)

 

注1

神、キリストの霊によって生かされる新しい生命(いのち)、またそのあり方。

 

注2 肉 (ギリシャ語:サルクス sarx  σαρξ)

ここでは、神を知らず、感覚とこの世の欲望に支配されて、うつろいゆく生来の生命、またそのあり方。

(参考文献:織田昭編『新約聖書ギリシャ語小辞典』教文館、2002年) 

♢ ♢ ♢ ♢

【1月4日】キリスト信徒は、後ろを

わたしは、既(すでにそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。

 

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。

 

なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向け〔て努力し〕つつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピ書 3:12~14)

 

キリスト信徒は、後ろを見ない。前を見る。彼は、最善を過去に探らない。未来に求める。

 

彼が歴史を学ぶのは、理想を昔の人に求めるためではない。永遠の生命(いのち)の起源を尋ね求めるためである。

 

彼が待ち望む神の国は、〔歴史の〕最後に到来するものである。

 

その時までは、すべてが準備である。途上である。

それゆえ、不完全であることを免(まぬか)れない。歴史的イエスといえども、完成されたキリストではない。

 

わたしたちの国籍は天にある。そこから救い主(ぬし)、主イエス・キリストの来られるのを、わたしたちは待ち望んでいる(フィリピ書 3:20 口語訳)というのが、キリスト信徒の生涯である。

 

それゆえ彼は、おのずと理想家である。夢見る者である。過去・現在をもってしては、満足することのできない者である。

 

永遠の青年である。前へ前へと進む者である。〔過去を追慕する〕墓や石碑を嫌って、〔将来を待望する〕天国の歌に酔う者である。(信19・37)

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【1月5日】星は音信を伝えて

全地よ、主(ヤハヴェ)に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前(みまえ)に進み出よ。

 

知れ、主こそ神であると。

主は たしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。

 

感謝の歌をうたって主の〔神殿の〕門に進み、賛美の歌をうたって主の〔中〕庭に入れ。感謝をささげ、御名(みな)をたたえよ。

 

主は恵み深く、慈(いつく)しみはとこしえに、主の真実は代々(よよ)に及ぶ。

(詩編100:1~5)
                          
星は、音信
(たより)を伝えて言う。万物ことごとく良し、と。

 

地は、(おお)きな声を放って言う。万物ことごとく良し、と。

 

歴史は、その教訓を伝えて言う。万物ことごとく良し、と。

 

信仰は、その実験を宣(の)べて言う。万物ことごとく良し、と。

 

神はお造りになったすべてのものを御覧(ごらん)になった。見よ、それは、極(きわ)めて良かった」(創世記 1:31)と〔聖書は言う〕

 

神によって創造された〕宇宙と人生の事物で、〔根本的に〕善(ぜん)かつ良(りょう)でないものが何かあるだろうか〔。

万物ことごとく良し、である〕。(信8・305)

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