
イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2026年1月7日
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1925年(36歳)頃の三谷
* * * *
〔 1 〕
神が求められるのは、仰(ぎょう)々しい献げ物ではない。ただ、あなたがたの砕(くだ)かれた魂(たましい)のみである」と古(いにしえ)の預言者は教えた。
キリストが最も悪(にく)まれたのは、ファリサイ徒輩(とはい)の魂(まごころ)を入れ忘れた献げ物であった。
「行ない」、「〔立派な〕行ない」と言って〔自らの〕功績(こうせき)のみを誇る〔、その〕ような態度であった。
パウロが熱誠をこめて広く異邦人の間に宣べ伝えたのは、「人が〔神の前に〕義(ぎ)とされる(=人が神の救いにあずかる)のは、その〔人の立派な〕行い〔、宗教的な功績〕によるのではない、ただ信仰により、〔キリストの〕贖罪(しょくざい)により、神の愛による〔のだ〕」ということであった。
その同じ福音がアウグスチススを救い、また〔中世カトリック教会を相手に、宗教改革者〕ルターを起(た)ち上がらせたのであった。
そのことは〔、キリスト〕信徒の誰もが知っている。
それにもかかわらず〔、キリスト〕教界に「行い」によって起とうとばかり焦(あせ)る者のなんと多いことか。
〔 2 〕
われらがキリスト者として先(ま)ず為(な)さなければならないことは、何か。
何人を〔自分の宗派に〕改宗させ、何円、献金したかというような〔宗教的〕功績をあげることなのか。
キリスト在世の〔当〕時、ファリサイ徒輩は、このように考えて熱心に己(おのれ)の功績〔達成〕に苦心した〈宗教人〉であった。
しかも、このファリサイ徒〔輩〕以上にキリストの精神に全く反した者は、他に〔い〕なかったではないか(注1)。
功績を挙げて、どうしようというのか。
それによって人の前に〔己を〕誇り、またそれ以上に神の前に誇ろうとするのか。
しかし神は、〔己の〕功績を誇る者を良しとされず、ただ砕かれた魂(たましい)のみを喜ばれる。
〔 3 〕
たとえば、伝道について考えてみよう。
伝道とは〔、神の〕聖旨(みむね)を伝えて人を神〔の許〕にまで呼び戻すことを目的とするものである。
しかし〔そもそも〕、人〔間〕が〔他の〕人〔間の魂〕を捕(とら)え、独力〔で〕彼を神の聖前(みまえ)に連れ返ることができる〔だろう〕か。
もし、できる〔という〕ならば、伝道とは正(まさ)に、人〔間〕の事業である。〔それは、〕神の前で誇るに充分に値する事業である。
しかし、偉大な伝道者たちの一致した経験〔が教えるところ〕は、人を神〔の許〕に連れかえる者は常に神御自身であって、決して人ではなく、〔また〕伝道者ではない〔という〕ことであった。
伝道者は、自分さえも救うことができなかった。ましてや他人〔を救うこと〕など、なおさら〔不可能〕である。
ただ彼らは、神が自分を救ってくださったこと、その一事(いちじ)を確実に体験し、鮮(あざ)やかに記憶した人々であった。
その体験と記憶のまざまざしさ、その歓喜の抑えがたさに、座して沈黙することに耐えられなかったのが彼らである。
〔それ〕ゆえに、彼らは起〔ち上が〕った。
起って、自(みずか)らの恩寵(おんちょう)の体験を〔率直に〕語った。感謝の至情(しじょう)を〔人々の前に〕吐露(とろ)した。
喜び〔に〕溢(あふ)れて神を〔誉め〕讃(たた)え、神の愛を〔人々に〕宣(の)べ伝えた。
それが彼らの伝道であった。
ゆえに彼らは、自らの力を当てにして何らかの業績を上げようと焦(あせ)る事業家の群れに数えられるべき〔人々〕ではなく、むしろ終日、琴(こと)を弾き歌をうたって、美を称(たた)える詩人の群れに属すべき者である。
〔 4 〕
そもそも〔人が〕人を救おうなどと考えるのは、僭越(せんえつ)である。
われらは自らが救われた事実を〔身に覚えのあることとして〕知っている。〔われらは、〕その経験、その喜びを率直に〔人々に〕物語るのみ。
われらは自らの力を振〔り絞〕って、人を導くのではない。神の驚くべき力と恩恵(めぐみ)を〔心の底から〕讃美するのである。
大(おお)いなる讃美が〔すなわち、〕大いなる伝道である。讃美のないところに、伝道はありえない。
主〔イエス〕を〔身に〕纏(まと)え。主〔のいのち〕を飲め。主の光をきみの内に充満させよ。そうすれば、おのずと大伝道が始まるであろう。
きみ自身がイエスを〔魂の内に〕充分、お迎えできていないのに、どうして人に〔救い主〕イエスを伝えることができようか。
西洋の古いことわざに、「〔他を〕教えて、初めて〔自分も〕学ぶ」というものがある。確かに、〔これは〕真理である。
しかし、ある偉大な哲学者は言った。
それ以上の真理は、「〔まず自分が〕学んで、初めて〔他を〕教える〔ことができる〕」ということである、と。
〔この〕言葉の意味は、教師が一生懸命、勉強していれば、その一事だけで学生を教えるのに十分だ、ということである。
言い換えれば、教えよう〔、教えよう〕と焦(あせ)らないで、〔まずは〕自分が〔しっかり〕学ぶことを励みなさい。〔そうすれば〕そのことがまた、そのまま他を教えることになるのだ、ということである。
学問においてさえ、そうである。まして信仰のこと〔、特に伝道〕においては、なおさらである。
伝道は〔実に、〕対外問題ではなく、対内問題である〔。他者に対する問題であるよりは、自分に対する問題である〕。
〔ゆえに〕まず、きみ自身に〔深く〕伝道せよ。そうすれば、その伝道は自(おの)ずから、きみの兄弟姉妹〔たち〕に及ぶだろう。
〔 5 〕
私はある恩師から講義術の要諦(ようてい)を授(さず)かった。
〔それは次のようなものである。〕
講義をする時には、先ず、自分自身が充分理解することに努める。その上で、それを自分自身の耳に〔対して〕充分、納得いくように説明する。
それ〔だけ〕でよい、というのである。
それ以来、私は恩師の教えを守るべく努めている。
だから私が講義する時は、いわば独(ひと)り言をやっているに過ぎない。
ある人には、〔私の講義は〕分からないかも知れない。
しかし私が自分自身に対して充分納得いくように〔話し、〕解説しても、それでもなお、その間の論理の分からない人に対しては、私は結局〔のところ、〕講義する能力を欠いているのである。
〔その場合、〕私の頭が間違っているか、または彼の〔頭〕が間違っているか、どちらか一つである。
〔いずれにせよ、〕私は自分自身が理解できないような難問を、他〔の〕人に解説することはできない。
〔 6 〕
伝道は、恩寵の体験の〔生きた〕解説でなければならない。
〔そして、〕解説の最も有力で自他を誤ることのないものは、個人の生活そのものである。
言葉は〔自他を〕欺(あざむ)きやすい。しかし生活は欺かない。生活(=その人の生き様)からほとばしり出る言葉には、特別の権威がある。
人は〔自らの真の姿を〕隠すことなどできようか〔。隠すことはできない。真の姿は、早晩、人前に露(あら)わになるだろう。それは、自らの生き様に表れるざるをえないのだから〕。
自らの恩寵の体験を豊かにせよ。それ(恩寵の体験)は自分自身にとっても、必要不可欠の栄養である。
そして、このようにして自分自身に(しっかり)栄養をつけること、それ自体が、われらの為(な)しうる最大の伝道である。
ある場合には、〔人前で〕一言(ひとこと)も言わなくてもよい。〔人前に〕一歩も出なくてもよい。ただ〔その場に〕在(あ)って、生きているだけでよい(いわゆる "Being Christian")。
〔結局のところ〕、われら自身が恩寵のもとで〔霊的に〕豊かにされることに勝(まさ)って、力ある伝道はない〔のである〕。
〔 7 〕
〔それ〕ゆえに見よ。
最も偉大なる伝道は、しばしば瀕死(ひんし)の病人がしたではないか。無力で貧しき者、無学な者がしたではないか。
〔また〕見よ、幾多(いくた)の大説教家の大雄弁が、時に、キリストを宣べ伝えるのに最も無力で貧弱であることを。
ここに、真実なるイエスの僕(しもべ)一人を生きさせよ。〔また、〕その二人また三人を相(あい)結ばせよ。
その時〔人は〕目撃するだろう。彼らの周囲に、イエスから発する光の波〔動〕が次第、次第に拡がるのを。
この少数の忠信(ちゅうしん)なるイエスの僕たちがイエスと共に生きる、その事実は、暗夜の燈火(ともしび)のように四方に輝き出(い)でざるをえない。
そして多くの人々を惹(ひ)きつけざるをえない。
「山の上の町は隠れることはできない。〔それは、どこからでも見える〕」(マタイ5:14b)。
このような忠信なる生活がありさえすれば、人は〔真実の〕道を求め来る人々(=求道者)の多さに困るほどだろう。
〔 8 〕
伝道の〔宗教〕事業化は、詛(のろ)うべきである。
事業化はすなわち、人業(じんぎょう)化である〔。神の業(わざ)を人間の業に変質させることである〕。
それゆえ、〔いわゆる伝道「事業」が〕業績を追い、分量(=新規受洗者数、献金額、教勢 etc)を気に病(や)む〔のは、必然である〕。
詛うべきは、伝道の人業化である。
〔人を救うという〕神の聖業(みわざ)をその大いなる御手(みて)から奪い取ろうとする者は〔一体〕、何者か。
すべての栄誉(えいよ)は、主にのみ帰せよ。
決して、われらに自らの栄誉を求めさせてはいけない。決して、〔宗教的〕功績を追わせてはいけない。
神与え、神取りたもう〔。人の思いをはるかに超えて、神は驚くべき御業(みわざ)を成し遂げられる〕。
われら〔自身〕には、ただ、神を讃(たたえ)えさせよ。
われらが為(な)しうる唯一の伝道方法は、これである。
心から神を誉(ほ)め讃えること - 心から。
♢ ♢ ♢ ♢
(原著「伝道神髄」『問題の所在』岩波書店、1929〔昭和4〕年9月収載、『三谷隆正全集 第一巻』岩波書店、1965〔昭和40〕年9月、145~149項を現代語化。( )、〔 〕内、下線は補足)
語注1 神髄(しんずい)
その道の奥義、ものごとのいちばん中心にある大切なこと。
語注2 仰々(ぎょうぎょう)しい
見かけや表現がおおげさである。
語注3 徒輩(とはい)
仲間の者。やから。
語注4 至情(しじょう)
この上なく誠実なこころ。まごころ。
語注5 恩寵(おんちょう)
人を救おうとされる神の恵み、慈(いつく)しみ。
語注6 僭越(せんえつ)
自分の身分・地位や立場、権限をこえて出すぎたことをすること。
語注7 要諦(ようてい)
物事の最も大切なところ。ようたい。
語注8 忠信(ちゅうしん)
誠実で、偽りのないこと。
語注9 事業(じぎょう)
利益を得るために、一定の目的と計画をもって経営する仕事。
注1 イエスのファリサイ派批判
「禍(わざわい)なるかな、あなたがた偽善者、律法(りっぽう)学者とファリサイ派よ。
あなたがたは、改宗者を一人つくろうとして、海や陸を巡(めぐ)り歩くが、改宗者ができると、自分よりも倍も悪いゲヘナ(別訳「地獄」)の子にしてしまうからだ」。
(マタイ 23:15)