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<信仰入門

キリスト教入門 006

2021年9月21日改訂

三谷隆正

 

伝道の神髄

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人物紹介003【三谷隆正】

* * * *

〔 1 〕

神が求めるのは、仰々しい献げ物ではない。ただ、あなたがたの砕(くだ)かれた魂(たましい)である」と古(いにしえ)の預言者は教えた。


キリストが最も悪(にく)んだのは、ファリサイ徒〔輩〕の(まごころ)を入れ忘れた献げ物であった。

行ない」、「〔立派な〕行ない」と言って功績(こうせき)のみを誇る〔、その〕ような態度であった。


パウロが熱誠をこめて広く異邦人の間に宣べ伝えたのは、人が〔神の前に〕義(ぎ)とされる(=神の救いにあずかる)のは、その〔人の立派な〕行いによるのではない、ただ信仰により、〔キリストの〕贖罪(しょくざい)により、神の愛による〔のだ〕ということであった。


その同じ福音が聖アウグスチススを救い、また〔宗教改革者〕ルターを起(た)ち上がらせたのであった。

 

そのことはキリスト〕信徒の誰もが知っている。

 

それにもかかわらず〔、キリスト〕教界に「行い」によって起とうとばかり焦(あせ)る者のなんと多いことか。

2 〕

われらがキリスト者として先(ま)ず為(な)さなければならないことは、何か。

 

何人を〔自分の宗教・宗派に〕改宗させ、何円を献金したかというような功績をあげることなのか。

 

キリスト在世の〔当〕時、ファリサイの徒〔輩〕はこのように考えて熱心にその功績〔をあげること〕に腐心(ふしん)した宗教人であった。

 

しかも、このファリサイの徒〔輩〕以上にキリストの真精神に相反する者は、他に〔い〕なかったではないか(注1)。

 

功績を挙げて、どうしようとするのか。

それによって人の前に〔自己を〕誇り、またより多く神の前に誇ろうとするのか。

しかも神は〔自己の〕功績を誇る者を良しとされず、ただ砕かれた魂のみを喜ばれる

〔 3 〕

たとえば、伝道ということについて考えてみよう。

伝道とは神の〕聖旨(みむね)を伝えて人を神〔の許〕にまで呼び返すことを目的とするものである。

 

しかし〔そもそも〕、人〔間〕が〔他の〕人〔間〕を捕えて独力〔で〕、彼を神の聖前(みまえ)に連れ返ることができるもの〔だろう〕か。

 

もし、それができるならば、伝道とは正(まさ)に、人の事業である。神の前に誇るべく、充分に値する事業である。


しかし、偉大な伝道者たちの一致した経験〔が教えるところ〕は、人を神にまで連れかえる者が常に神御自身であって、決して人ではなく、〔また〕伝道者ではない〔という〕ことであった。


伝道者は、自分さえも救うことができなかった。ましてや他人は、当然である。

 

ただ彼らは、神が自分を救ってくださったこと、その一事(いちじ)を鮮(あざ)やかに記憶し、確実に体験した人々であった。

その体験と記憶とのまざまざしさ、その歓喜の抑え難(がた)さに、座して沈黙することに耐えられなかったのが彼らである。


ゆえに、彼らは起〔ち上が〕った。

 

起って、(みずか)らが経(へ)た恩寵(おんちょう)の体験を語った。その感謝の至情(しじょう)を〔人々の前に〕吐露(とろ)した。

喜び〕溢(あふ)れて神を〔誉め〕讃(たた)え、神の愛を宣(の)べ伝えた

それが彼らの伝道であった。

 

ゆえに彼らは、自らに恃(たの)んで何らかの功績を挙げようと焦(あせ)る事業家の群れに数えれるべきではなく、むしろ終日、琴(こと)を弾き歌をうたって、美を称(たた)えようとする詩人の群れに属すべき者である。

〔 4 〕

われらがキリスト者として先ずなさなければならないことは、何か。

そもそも〔人が〕人を救おうなどと考えるのは、僭越(せんえつ)である。

 

われらは自らが救われた事実を知っている。〔われらは、〕その経験、その喜びを率直に物語るのみである。

 

われらは自らの力を振〔り絞〕って、人を率(ひき)いるのではない。神の驚くべき力と恩恵とを〔こころから〕讃美するのである。

 

(おお)いなる讃美が〔すなわち、〕大いなる伝道である。

 

讃美のないところに伝道はありえない。

イエス着よ。主を飲め。主の光をきみのうちに充満させよ。そうすれば、おのずと大伝道が始まるであろう。


きみ自身がイエスを〔魂の内に〕充分に、お迎えできていないのに、どうして人に彼〔のこと〕を伝えることができる〔だろう〕か。

 

西洋の古いことわざに、「〔他を〕教えて、初めて〔自分も〕学ぶ」というものがある。確かに、真理である。

 

しかし、それ以上の真理は、「〔まず自分が〕学んで、初めて〔他を〕教える〔ことができる〕」ということである、とある偉大な哲学者が言ったことがある。


この言葉の意味は、教師が一生懸命、勉強していればその一事だけで学生を教えるのに十分だ、ということである。

 

言い換えれば、教えよう〔、教えよう〕と焦らないで、〔まずは〕自分が〔しっかり〕学ぶことに励みなさい。〔そうすれば〕そのことがまた、そのまま他を教えることになるのだ、というのである。

学問においてさえ、そうなのである。まして信仰においては、当然である。

 

伝道は対外問題ではなく、〔実に〕対内問題である。

それゆえ〕まず、きみ自身に〔深く〕伝道せよ。そうすれば、その伝道は自(おの)ずからきみの兄弟姉妹に及ぶだろう。

〔 5 〕

私はある恩師先生から講義術の要諦(ようてい)を授(さず)けられた。

 

それによると、〕講義をする時には、先ず、自分自身が充分理解することに努める。その上で、それを自分自身の耳に充分納得が行いくように説明する。

 

それだけいい、というのである。


その時以来、私は恩師の教えを守るべく努めている。

だから私が講義する時は、いわば独(ひと)り言をやっているに過ぎない。

 

ある人には分からないかも知れない。

しかし私が自分自身に対して充分納得の行いくように解説しても、なおかつその間の論理の分からない人に対しては、私は結局〔のところ、〕講義の能力を欠いているのである。

 

その場合、〕私の頭が間違っているか、または彼の〔頭〕が間違っているか、どちらか一つである。

 

いずれにせよ、〕私は自分自身の理解できないような難問を、他人のために解説してやることはできない。

〔 6 〕

伝道は、恩寵の体験の〔活きた〕解説でなければならない。

 

その解説の最も有力で、しかも自他を誤ることのないものは、個人の生活そのものである。

 

言葉は(あざむ)きやすい。しかし生活は欺かない。生活からほとばしり出る言葉には、特別の権威がある。

 

自分の本当の姿を〕人は隠すことができようか〔。それは自ずと、生活に表れるざるをえない〕。

 

自分の持つ恩寵の体験を豊かにせよ。それ(恩寵の体験)は自分自身にとっても、必要不可欠の営養である。

そして、このようにして自分自身を肥(こ)やすことそれ自身が、われらの為しうる最大の伝道である。

 

ある場合には、〔人前に、〕一語も言わなくてもよい。一歩も出なくてもよい。ただ〔そこに〕在(あ)って、活(い)きているだけでよい。

 

結局〔のところ〕、われら自身が恩寵のもとに肥え太ることに勝(まさ)って、力ある伝道はない。

7 〕

それゆえに見よ。

最も偉大なる伝道は、しばしば瀕死(ひんし)の病人がしたではないか無力で貧しき者、無学な者がしたではないか

 

また〕見よ、幾多(いくた)の大説教家の大雄弁が時に、キリストを宣べ伝えるのに最も無力で貧弱であることを。


ここに真実なるイエスの僕(しもべ)一人を活(い)きさせよ。その二人また三人を相(あい)結ばせよ。

 

その時彼らの周囲に、イエスから発する光の波〔動〕が次第、次第に拡がるのを〔きみは〕見るであろう。

 

この少数の忠信(ちゅうしん)なるイエスの僕たちがイエスとともに活きる〔、〕その事実は、暗夜の燈火のごとく四方に輝き出(い)でざるをえない。

そして多くの人々を惹(ひ)きつけざるをえない。

 

山の上の町は隠れることはない。〔それは、どこからでも見えるものだ〕」。

 

ただ、このような忠信なる生活がありさえすれば、人は〔まことの〕道を求め来る人々(=求道者)の多さに苦しむばかりだろう。

8 〕

ゆえに、〕伝道の事業化は詛(のろ)うべきである。

 

事業化はすなわち人業(じんぎょう)化である。それゆえ、業績を追い、分量(=数)を気に病(や)

 

詛うべきは、伝道の人業化である。


一体、〕何者か、神の聖業(みわざ)をその大御手(みて)から奪い取ろうとする者は。

 

すべての栄誉(えいよ)は、主にのみ帰せ

決してわれらに自分の栄誉を求めさせてはいけない。決して功績を追わせてはいけない。

 

神与え、神取りたもう。われらにただ、神を讃(たたえ)えさせよ

 

われらが為しうる唯一の伝道方法は、これである。心から神を讚(ほ)めることである - 心から

♢ ♢ ♢ ♢

(原著「伝道神髄」『問題の所在』岩波書店、1929〔昭和4〕年9月収載、『三谷隆正全集 第一巻』岩波書店、1965〔昭和40〕年9月、145~149項を現代語化。( )、〔 〕内、下線は補足)

語注1 神髄(しんずい)
その道の奥義、ものごとのいちばん中心にある大切なこと。

語注2  仰々(ぎょうぎょう)しい
見かけや表現がおおげさである。

語注3 徒輩(とはい)
仲間の者。やから。

語注4 至情(しじょう)
この上なく誠実なこころ。まごころ。

語注5 恩寵(おんちょう)
人に対する神の恵み、慈
(いつく)しみ。

語注6 僭越(せんえつ)
自分の身分や立場、権限をこえて出しゃばること。

語注7 要諦(ようてい)
物事の最も大切なところ。ようたい。

語注8 忠信(ちゅうしん) 
誠実で、偽りのないこと。
                             
語注9 事業(じぎょう)
利益を得るために、一定の目的と計画をもって経営する仕事。

1 イエスのファリサイ派批判
「禍
(わざわい)なるかな、律法(りっぽう)学者とファリサイ派よ、あなたたちは偽善者だ。

改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡(めぐ)り歩くが、改宗者ができると、自分よりも倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ

(マタイ 23:15)

イエスは今、キリスト教界をどうご覧になっているだろうか。

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