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<信仰入門

キリスト教入門 005

2019年4月19日改訂

内村鑑三

 

〖 聖書研究の目的 〗

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キリスト教入門007豊田栄【聖書研究の意義ならびに目的】

* * * *

聖書研究の目的は、イエス・キリストを知ることである。

〔それは、〕研究のための研究ではない。イエスを知るため〔の研究〕である。


イエスを知ることは〔すなわち〕、生命(いのち)である。

それゆえ、〕あらゆる労苦を惜(お)しまず、彼〔のこと〕を知る〔努力をす〕べきである。​


そしてイエスを〔深く〕知るためには、聖書全体を知る必要がある。新約〔聖書〕だけでなく、旧約〔聖書〕をも知る必要がある。

 

ノア(注1)、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセを知る必要がある。〔さらに、〕すべての士師(しし)とすべての預言者(よげんしゃ)を知る必要がある。


偉大な人物は、一朝(いっちょう)一夕(いっせき)に知ることはできない。〔十分に知るためには、〕一生涯の研究を必要とする。

 

それゆえ〔私は〕、〔できるだけ〕早く聖書研究を始めなさい、と勧めるのである。

子供を日曜学校に送り、イエス研究の準備として聖書の学びを開始させなさい、と勧めるのである。


人生を有意義なものとするものは、イエスを知ることである。

イエスを知る、知らないの差は、〔実に〕生と死の差〔、決定的な差〕である。


聖書を生命(いのち)の書と呼ぶのは、〔聖書は、〕神が人に与えた生命の本源である神の独子(ひとりご)イエスを〔人々に〕紹介する〔書物だ〕からである。

 

古書研究〔という過去の研究〕のための、聖書研究ではない。人間らしく〕生きるための、聖書研究である。


それゆえ〔聖書を〕教える者も学ぶ者も、燃えるような熱心で、これ(聖書研究)に取り組まなければならない。

 

冷静な聖書研究は、あり得ない(注2)

それは、「冷静な生命」は蛇へび、注3)の生命で〔は〕あるが、〔温かい血のかよった〕人間の生命ではないからである。

♢ ♢ ♢ ♢

(原著「聖書研究の目的」『聖書之研究』357号、1930〔昭和5〕年4月25日を現代語化。( )、〔 〕内、下線は補足)

注1 ノア

旧約聖書・創世記(そうせいき)6~9章の洪水物語に登場する人物。

​創世記によれば、「地上に人の悪がはびこり、その心に計(はか)ることが常に悪に傾くのを見て、神は人類を創造したことを悔い、心を痛められた」。

そして神は、地の面(おもて)から人類を拭(ぬぐ)い去ろうと決心した(創世記 6:5~6、聖書協会共同訳)。


そのとき、神の目に適(かな)った義人(ぎじん、無垢(むく)の人が、ノアであった(同 6:8)。

 

神は地に洪水を送るという計画をノアに打ち明け、箱船(はこぶね)を建造するように命じた。命じられたノアは神のことばを真正面から受けとめ、巨大な箱船を造って動物たちを乗せ、大洪水を生き延びた(同 8章)。


洪水物語は、他にも中近東に数多く流布(るふ)している(バビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』など)。
(参考文献:R.P.ネッテルホルスト著・山崎正浩訳『図説 聖書人物記』2009年、創元社、16項、P.カルヴォコレッシ著・佐柳文男訳『聖書人名事典』教文館、1998年、99項)

注2 「冷静な聖書研究

「冷静」という言葉は、感情に左右されず、落ち着いていることを意味し、通常、良い意味で用いられることが多い。

ここでは内村は、客観的ではあっても、冷ややかさまという意味合いを強調して、聖書知識だけは豊富だが、熱情のない冷(さ)めた、そのような「冷静な」聖書研究は本来、あり得ないと述べていると思われる。

《生と死》、《永遠》のかかった聖書の学び(聖書の研究)は、自(おの)ずとパッション(熱情)を伴わざるを得ないはずである。

論文011キルケゴールの実存主義 注6あれか、これか

注3 蛇(へび)

​創世記 3章参照。

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