イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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◆「聖書、聖書」と言って、私(わたくし)どもは無闇(むやみ)に聖書を崇拝(すうはい)しているわけではありません。
もし聖書に、ある〔重大な〕真理が込められているのでなければ、聖書は貴(とうと)ぶに値(あたい)しません。
いくら旧(ふる)い書物だからといって、旧さ自体のゆえに聖書を崇(あが)めることはできません。
聖書の価値は、書画骨董(こっとう)の価値とは違います。
その内に生ける真理が躍動(やくどう)しているがゆえに、〔聖書は〕特別に貴いのです。
◆神は、どのようなお方か。人生の意味は、何か。世界は、何のために創(つく)られ、どうなって行くのか。
罪、救済(すくい)、永遠の生命(いのち)〔とは・・〕。
そのような〔大〕問題について明確に知りたいと願うならば、〔私どもに〕簡潔明瞭な答えを与えてくれる書物は、〔この世に〕聖書を除いて他(ほか)にありません。
〔大哲学者〕ソクラテス、プラトン、アリストテレス。〔彼らは〕いずれも偉大ではありますが、聖書には遠く及びません。
中国の聖人〔、孔子こうし〕、インドの聖者〔、釈尊しゃくそん〕。〔彼らもまた確かに、〕尊敬すべき〔人類の教師〕ではあります。
しかし、聖書から生命の〔真清〕水(ましみず)が滾々(こんこん)と湧(わ)き出るのに比べれば、〔彼らの教えは〕瓶(かめ)から溜(た)め水を飲むような感がいたします。
〔実に、〕聖書は霊的生命の大泉源です。
ゆえに、〔生命の水に〕渇(かわ)いている人類は、聖書を棄(す)てようとして、棄てることはできないのです。
◆それゆえに、聖書は研究すべき〔もの〕であって(注1)、崇拝すべき〔もの〕ではありません。
天然〔自然〕と同じく、〔聖書の文字を〕崇拝すれば偶像(ぐうぞう)となって、〔人に〕害〔をなす〕物となります(注2)。
〔聖書を〕研究し、その真理をわが身の所有(もの)となし、これによって生きることにより、《永遠》に至(いた)ることができます。
聖書の研究は〔、知的〕道楽〔としての古書研究 注3〕ではありません。
〔聖書の研究は、〕我(われ)と人とが〔現在と未来を〕生きる〔方〕途(みち)です。
これを怠(おこた)る時、必然的に滅亡に至(いた)ります。
♢ ♢ ♢ ♢
(原著「聖書の貴き所以(ゆえん)」『聖書之研究』349号、1929〔昭和4〕年8月10日を現代語化。( )、〔 〕内、下線は補足)
注1 聖書の研究
「研究」という言葉の説明として、次のようなものがある。
広辞苑(第5版)では「よく調べ考えて、真理をきわめること」、旺文社国語辞典(第8版)では「物事を深くよく調べ、考えること。真実・真理を求めて学問的に調べ、考えること」、またウィキペディアでは、ある特定の物事について、〔知りうる〕知識を集めて考察し、実験、観察、調査などを通して調べて、その物事についての事実を深く追求する一連の過程のこと、と説明されている。
もと科学者(魚類学者)であった内村は、基本的に、「研究」という言葉を上記のような意味で用いていると思われる。
同時に、内村は《実験》(現実経験)という言葉もよく用いる。
内村が「聖書の研究」と言う時、彼は「研究」という言葉に、何よりもまず日々の歩み(実験)の中で神の啓示(けいじ)を祈り求めつつ(祈りによって神と対話しつつ)、聖書の主観的・独善的な読み方を避けて、神の前に謙虚に、またひたむきに聖書の真理を探求すべきという意味を込めたのではないだろうか。
注2 聖書崇拝(Bibliolatry)
聖書崇拝とは、聖書に書かれた文字自体を金科玉条(きんかぎょくじょう)、絶体無謬(むびゅう)のものとして、神のごとくに崇(あが)める(=偶像崇拝する)こと。
機械的・原理主義的(ファンダメンタル)な聖書の文字面(づら)の絶対化・偶像化は、恵みの御言葉(みことば)を断罪の《律法(おきて)》に変え、しばしば人の霊魂(精神)を圧殺し、実際に人の命さえ奪った(ファリサイ精神)。
ファリサイ(パリサイ)精神による聖書の文字の偶像化、律法主義化は、ファリサイ派によるイエスへの迫害となって現れ、その後の歴史においても、カトリック・プロテスタント両教会による異端(いたん)裁判や魔女裁判(拷問・焚刑〔ふんけい〕が行われた)、小教派に対する宗教的差別・迫害、また宗教戦争等を生んだ。
聖書の文字を通し、その背後から神の霊(聖霊)が人に語りかける時、聖書の文字は生きた《神のことば》と成(な)り、人を生かす。
「文字は殺し、〔キリスト・イエスにある生命(いのち)の〕霊は生かします」(コリントⅡ 3:6b、聖書協会共同訳)
注3 聖書道楽
内村鑑三は、「聖書道楽」ついて厳しい言葉を残している。
彼は言う。
今日のいわゆる聖書研究の多くは、聖書道楽である。
聖書の言語学的研究、考古学的考証、註解書の収集、聖書学者の諸説比較等、このようなもの〔だけ〕で聖書は解(わか)らない。
聖書は迫害の血によって書かれた書物である。それゆえ、〔自らの〕迫害の血〔と涙〕によらなければ、解(かい)することのできない書物である。
書斎にこもり、辞典と文法書を手に聖書の意義を探求しようとしても、無効である。
知識は大切だが、〔人生における〕《実験》の代用とはならない。
信仰のために戦わずに、聖書は解らない。
福音のために迫害されることが、最善の聖書注解である。この苦痛を経(へ)なければ、山のような註解書を読んでも聖書は解らない。
聖書道楽は、最も悪い道楽である。
これに適応する神の刑罰を免(まぬか)れることはできない。霊的傲慢(ごうまん)がそれである。それは、真理が解っていないのに解ったと思うことである。
(「聖書道楽」『聖書之研究』242号、1920〔大正9〕年を現代語化して抜粋。( )、〔 〕内、下線は補足)
内村の警告を忘れてはいけない。
論文011〖キルケゴールの実存主義 〗注4デンマーク国教会との戦いへ
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原文
聖書の貴き所以(ゆえん)
昭和4年8月10日
『聖書之研究』349号
署名 主筆
○聖書、聖書と云(い)ひて私共(ども)は無暗(むやみ)に聖書を崇拝するのでありません。
聖書に若(も)し或(あ)る真理が籠(こも)って居(お)りませんならば聖書は貴(とうと)ぶに足(た)りません。
いくら旧(ふる)い書であればとて旧い事其(その)事の為(ため)に之(これ)を崇(あが)むることは出来ません。聖書の価値は書画骨董(こっとう)の価値と異(ちが)ひます。
其内(そのうち)に活(い)ける真理が働いて居(お)るが故(ゆえ)に特別に貴いのであります。
○神は如何(いか)なる者で在(いま)す乎(か)、人生の意義如何(いかん)、世界は何の為(ため)に造(つく)られ、如何(いか)に成(な)行く者である乎、罪、救ひ、永生(えいせい)、さう云ふ問題に就(つ)いて明白に知らんと欲(ほっ)せば、聖書を除いて他(ほか)に簡短明瞭なる解答を与へて呉(く)れる書はありません。
ソクラテス、プラトー、アリストートル、孰(いづ)れも偉大なりと雖(いえど)も、遠く聖書に及びません。
支那(しな)の聖人、印度(いんど)の聖者 敬ふべきではありますが、聖書に生命の水が滾々(こんこん)として湧き出るに較べて、甄(かめ)に溜(た)め水を飲むやうな感覚が致します。
聖書は霊的生命の大泉源であります、故(ゆえ)に渇ける人類は之(これ)を棄(す)てんと欲して能(あた)はないのであります。
○それ故に聖書は研究すべきであって崇拝すべきでありません。天然と同じく崇拝すれば偶像となりて害物(がいぶつ)と成ります。
研究して其真理を我身(わがみ)の所有となして之(これ)に由(よ)って生きて永遠に至ることが出来ます。
聖書の研究は道楽でありません我(われ)と人とが生くる途(みち)であります。之を怠(おこた)りて滅亡は必然に至ります。
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