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<信仰入門

キリスト教入門 003

2019年4月9日改訂

矢内原忠雄

 

〖キリスト教早わかり①〗

1 信仰の力
〔1-①〕
今日は、
「キリスト教早わかり」という話をいたします。

こう言いますと、もう、すぐに反対の声が聞えてきます。

 

キリスト教は早わかりなどできるもので〔は〕ない。一生かかって学ばなければならないものだと。

 

それはそのとおりであって、〔確かにキリスト教は、〕一生かかって学ばなければならない。否、一生かかってもわかりきらないことであって、私どもが神様の許(もと)に召されてのちに、初めて完全にわかるものです。


キリスト教はわかるものでなくて、信じるべきものである。

それに違いありませんが、しかしそうかと言って、わからないものかというと、わかるもので〔も〕ある。

キリスト教は、〕早くわかるものであって、そして一生かかってもわからないもの。一生かかってもわからないものであるけれども、しかし早わかりするものです。


実は、〕真理というものはすべてそういうものであって、たとえば花は美しい。花というものは問題なく美しいのであって、これはすぐにわかることです。

しかし、なぜ花は美しいか。美しいということは、何か。そういうことになると、なかなか一生かかってもわからないのです。


すべて真理に関する事柄、あるいは永遠に関する事柄というのは、みなそうです。

永遠というのはわからないかというと、今でも永遠の中〔にあるの〕ですから、〔今の〕瞬間において永遠がわかる。

しかし今〔の時に、永遠がすべて〕わかってしまうかというと、永遠は永遠においてでなければ完全にはわからないというわけです。


私は〕キリスト教のことを一度も聞いたことのない人、あるいはほんの少ししか聞いたことのない人々にお話をしてみたいと考えたのであって、そういう人々も長く続けて聖書を学んで、初めて少し〔ずつ〕わかってくるものですが、しかし始めから〔キリスト教のポイントが〕わからないものでもありません。

 

ですから今日は、ごく初めての方に、キリスト教はどういうことを教えるものかということを、簡単にお話してみたいと思ったのです。

 

〔1-②〕
まず第一に申しておきますのは、マタイ福音書の6章の言葉を読んで誰でも気がつくことですけれども、これは貧しい人の宗教であるのです。

キリスト教に縁のない人は、豊かな人であるのです。豊かであるということは、持ち物の多いことであって、暮しに困らない人々です。


しかしそれも少し考えればわかりますが、〔豊かな人とは、表面的に〕お金があるとかないとかいうよりも、心が物に頼っている人、物をあてにしているのことであって、自分は持ち物がたくさんあるからそれで安心だ、あるいはそれで偉いんだと、そういうふうに考えている人はキリスト教のお客さんではないのです。


知恵でもそうであって、自分は学問がある。学問によって〔、自分は〕何でも解決ができるというふうに心が一杯になっている人、心が高い人、これもキリスト教に縁のない人です。

 

キリスト教はすべて乏しい人の宗教です。

あるいは持ち物が乏しいとか、知恵が乏しいとか、健康が乏しいとか、品性が乏しいとか、貧しい人、寄るべのない人、疲れた人、弱い人の宗教であるのです。

 

そういう人ならば〔真剣に救いを求めるので、〕キリストの教えがわかるのです。キリストの教えがわからないというのは、自分の頭が〔高くなり、偉くなって、〕天井につかえているからです。

 

〔1-③〕
そういう意味でキリスト教は〔、確かに〕弱者の宗教である。

使徒〕パウロが〔新約聖書の〕コリント前書で言っておりますように、君たちの中に知恵のある者は多くない、能力ある者は多くない、これは弱い者の寄り集り〔である。そのとおり〕です。

しかし、〕そういう弱い者がキリストを信じて強い者となる。これが信仰の力なのです。


実際、〕キリストを信じますと、どんなに貧しい人でも心が豊になって、物に束縛されなくなる。〔そのため、〕一番金持の人よりも、もっと心が豊かになる。

 

一体、富んでいるとか富んでいないとかいうことは、物に束縛されないこと、心の状態が豊かであること〔なの〕ですが、そしてお金持は自分はこれだけ〔の持ち〕物があるから、もはや心配しなくてもいいというのが彼らの御自慢であるのです〔。しかし、彼らの心は物に束縛されています。〕

 

けれども、〔貧しい者でもキリストの教えを信じることにより、〕その一番の大金持よりももっと生活について心配せず、もっと心か豊かになる。すなわち一番豊かな人になるというのが、キリストの教え〔の力〕なのです。

 

〔1-④〕
実際問題としまして、キリストを信じることによって、この世的にも事業が成功することはたくさんあります。個人的に見てもそうですし、社会的に見てもそうです。

 

その一番いい例は、クエーカーという宗派です。クエーカーの人たちの中に実業家が非常に多くて、〔彼らの事業は〕この世的にも大成功であった。そういう例は他にもたくさんあります。

 

だからキリストを信じれば事業に成功する、財産もできるという効能もありますけれども、しかし、そのことがキリスト教の信仰の一番大きな力ではないのです。


キリスト教の信仰は、この世においては〔たとえ、〕貧乏な人として一生終っても、〔その人を〕心豊か〔にするもの〕である。そこに、信仰の力があるのです。

 

〔1-⑤〕 
知恵でもそうです。

キリストを信じると、信仰の力によって〔インスピレーションを与えられ、また真理探究の精神が刺激されて、〕自分の学問が伸びていきます。

 

そして、この世の智者・学者に敗けないように学問ができていく。学問の領域においても一歩も彼らに劣らない、あるいは彼ら以上の学問ができてゆくことも事実です。


しかしそれがキリスト教の能力の全部ではないのであって、一生無学で、この世的には学校に行くこともできなかったり、あるいは学校に行っても頭がわるくて優等生でなかったり、卒業できなかったり、そんな人でもキリストを信じれば、この世のいかなる学者よりも知恵がある〔人間となる〕。

 

この世の学者の知らないような大きな真理を、キリストを信じる愚かなる者でも持つことができるのだ。

 

この世の智者はどこにいる〔のか〕、この世の学者はどこにいる〔のか〕、神はこの世の愚かな者を用いてこの世の学者に恥をかかせる〔のだ〕、ということをパウロが申しておりますが、そういう能力がキリスト教に〔は〕あるのです。

 

〔1-⑥〕
健康ということでも、キリストを信じれば信仰によって〔心身の平安が与えられ、〕病気が全快した。こういうことも実際あることであって、その実例も多いのです。

 

そのため、〕中には信仰によって病気が癒されるということがキリストの能力の一番普遍的なもの、一番大きなものであるかのごとくに考えている人さえもいるのです。


しかしこれもキリストの能力の一番の特色がそこにあるのではなくて、キリストの信仰の特色は、一生病気でどんなに療養しても治らない人、家族からも親類からもこの世からも相手にされないような、自分でも愛想(あいそ)が尽(つ)きるような弱い肉体をもっている人、そんな人でもキリストを信じると、信仰の力によって世の中のいかなる強い人よりも自分の生命(いのち)について思い煩わない。

 

健康問題について心を労しない。生きる死るということが気にならないような、〔肉体の生死を超えた〕心の健(すこ)やかさを持つことができる〔のです〕。

 

〔1-⑦〕
その他、何でもそうであって、この世の不幸〔といわれるもの〕はキリストを信じることによって好転する。〔現実に、〕いろんな問題が解決されていく。

家庭問題でもそうであって、家庭のごたごたしたことがキリストを信じる信仰によって良くなっていく。

 

そういうことも実際にあることだが、しかしそうでなくて家庭の問題で一生、煩(わずら)わされるような境遇にあっても、キリストを信じるならば、それに打ち勝って余りがある

キリストの信仰は、〕そういう性質の力であるのです。


そういう力を我々が与えられる。

与えられると言いますのは、本来自分が持っているわけではないのであって、自分が奮起してそういう力を持つわけでもなく、努力して得るわけでもありません。これは神様の恩恵によって、与えていただくのである。

 

神様が与えてくださるということを信じる(信頼する)のです。〔私どもは、〕信じれば〔、実際に〕その力が与えられる

こういうことがキリスト教の〔実〕力なのです。

 

2 天の父

〔2-①〕
さて、それならば、〔何を〕信じる〔のか〕というのは、もちろん神を信じるのです。

世の中に神と言われているものがいろいろある中で、キリスト教の神様はどんな神様か。

 

これは、キリストが「天の父」と呼んでおりますように、〔神様はまことに〕お父(とう)さんと呼ぶべきものであるのです。〔そして、〕この世における父親と区別して、「天の父」と言ったのです(注1)。

 

〔2-②〕
このことには、消極的な面と積極的な面があります。

世の中に親のない子供ほどかわいそうなものはない。子供の時に父親を失うということは、本当につらいことであるのです。その者に対してお父さんを示される。与えられる。

 

君にはお父さんがいる。〔君は、本当は〕孤児ではないのだ。しかも、それは神様なのだ。神様が君のお父さんだ。


これは実に驚くべきことでありまして、孤児の世話をする孤児院や養育院などがありますけれども、宇宙を創造し支配しておられる神様が、私どものお父さん〔なの〕だ。

 

そして、〕あのたくさんの星が輝いており、朝になると太陽が現われ、夕べになると月が現われる。春になると花が咲き、秋になると木の実が実るという、この宇宙全体がいわば私どもの孤児院であって、〔父なる神の慈愛と栄光に満ちた、〕素晴らしい大きな孤児院に私どもは住んでいる。

これは本当に、親のない子供にとっての慰めです。

 

〔2-③〕
そして、神様を「天のお父さま」と呼ぶことの中に、キリスト教の全部が入っていると言ってもよいのです。

キリスト教早わかり」ということを申しましたけれども、天の父ということがわかれば、キリスト教がわかってしまった。そう言ってもよい。

 

私どもの心が悲しんでいる時、弱っている時、淋しい時に、神様に向かって「お父さま」、「天のお父さま」、こうお呼びしてごらんなさい。これを祈りというのです。

 

祈りは何もむずかしいことではなく、祈りは父親を慕う心〔のこと〕である。この寄るべない者、弱い者が〔祈って〕、「〔天の〕お父さま〔!〕」と申し上げる時に、信仰の力が与えられる〔のです〕。

 

そして淋しかった者が〔、もはや〕淋しくない、自分一人でもやっていける。天のお父さんがいるんだから、という励みが出て、希望が出てくる。

 

これは、ただ自分の心の持ち方という〔主観的な〕問題ではなくて、本当に天のお父さんからの力が〔私どもの〕心に与えられるのです。

それで〔私どもは〕、すべての困難に打ち勝って〔生きて〕いくことができる。

 

〔2-④〕
この問題を自分だけのこととしてでなくて、世界一般のこととして考えて見ますと、〔この広大な〕宇宙にあって孤児であるのは、〔実は〕自分一人〔だけ〕ではないので〔あって、本来〕、人間というものは皆〔孤児である〕、その意味で〔、人は皆、まことの〕父親を求めているのです。

 

世界には72億だかの人類がいて、昔から今まで戦争をしてみたり仲直りしてみたり、ごたごたして暮している。

もし天の父である神様が〔歴史〕全体を治めておられるのでないとすると、人類の歴史はずいぶん馬鹿げた、秩序のないことになります。

 

しかし、ちょうど一つの家を父親が〔配慮して〕治めていくように、神様が宇宙全体を治めていらっしゃるのだ。

 

〔2-⑤〕
横の〔空間の〕拡がりから見ると宇宙全体、縦の〔時間の〕拡がりから見ると歴史の全体を父なる神様は〔深い配慮をもって〕治めておられる、計画を立てて全体のしめくくりをつけていらっしゃるのである。

このことを神の摂理(せつり)、あるいは経綸(けいりん)と言います。

 

このように〕神は摂理の神であり、経綸の神である。

だから世の中に〔は〕、偶然とか無軌道とかいうことは一つもないのであって、どんなに無軌道のように見える彗星(すいせい)でも、神の〔深い〕摂理の中にある。

 

神の摂理、神の経綸の中にあっては、すべてのものが偶然ではない〔。むしろ、必然である〕。無秩序ではない。神は宇宙全体に秩序を立てておられる。歴史全体〔の進行〕に筋道を立てておられる。

 

こうして宇宙を創造し、秩序正しく治め、歴史を完成に導かれる神様がおられるのだ。〕

こう考えて見ると、非常〔に大き〕な安心と希望が私どもの心に与えられるのです。

 

〔2-⑥〕
確かに、この世には〕私どもにわからないことはたくさんある。
わからないと思えば、あれもわからない、これもわからない。

 

心配だと思えば、あれも心配だこれも心配〔だということ〕で、〔たとえば〕人類は滅亡してしまうだろうとか、日本の国は滅亡するだろうとか、歴史のことでも宇宙のことでも、心配するとなれば心配だらけでありまして、防ぎようがないのです。

 

一方の国に味方すれば他方の国に攻撃せられ、二つの軍事的強国にはさまれた武装のない国は立つ瀬がない〔、心配でしょうがない〕ということになる。

 

〔2-⑦〕
しかし、そんなに心配しなくてもよい〔のだ〕。

神様が宇宙全体・世界全体を司(つかさ)どって導いておられるのだから、我々は〔神様に〕信頼していればよい〔。そして心を落ち着けて、今できることを為(な)し、最善を尽くせばよい〕。

 

神様は〔私どもの真の〕お父さんで〔あって〕、お父さんはお父さんの〔深い〕お考えをもって秩序を立てて、世界〔の歴史〕を導いておられるのだ。そう信じる(信頼する)のです。

ここで初めて、私どもの心に平安が与えられる。

 

この〕宇宙に〔は、神様の定めた目標と〕秩序があり、歴史に〔も明確な目標と〕秩序がある。〔このように〕天のお父さんの秩序を信じること〔で、私どもは心に平安を持つこと〕ができるのです。

 

〔2-⑧〕
場合〕でもそうで〔あって〕、国が無秩序・無法律〔の状態〕であるならば、とうてい私どもの生活は安定して立っていくことができない。

 

アングロサクソン民族には法を守る精神が強い、いわゆる遵法(じゅんぽう)の精神があると言われているが、神を信じることに勝(まさ)る遵法の精神はない。

 

秩序を立て〔て、導かれ〕る神様に我々は信頼している。そしてその神様は、〔慈愛に富む私どもの〕お父さんである。

だから、〔神様が〕我々のために悪をお考えになることは〔あり得〕ない〔のです〕。

 

〔2-⑨〕
神の秩序は善である、神の意思は愛である、ということを我々が信じる。

摂理の神・経綸の神は同時に、恩恵(めぐみ)の神である。そういう神様が私どもの神様なんです。

 

どんなにむずかしい〔キリスト教〕神学の本を研究しても、結局わかることはこれだけのことです。そして、これだけのことがわかれば、神学がみなわかったと言ってもよい。


神学とか哲学とかこの世の学問というものは、概念を正確に〔議論〕する必要上、むずかしい語句を使います〔。ですから当然、理解できない人もおおぜい出てきます。〕

 

けれども、頭の悪い人や幼稚な人、学問を修(おさ)めていない人でも知ることができることで、そしてすべての人の知恵の極点であるものは、神様はお父さんだ。天にいらっしゃる〔愛の〕お父さんだ。そして摂理の神様だ。恵みの神様だということです。

 

そして、〔この〕恩恵の神、摂理の神、経綸の神というものは、すべてお父さんというものが持っている性格〔を説明したもの〕なのです。


だから私が多少、説明的に摂理の神とか、恩恵の神とか、経綸の神とか申しましたけれども、そういうむずかしい言葉はわからなくても、〔天の〕お父さんということだけ(おぼ)えておれば、あとのことは自然〔と〕その中に含まれている〔のです〕。

 

〔2-⑩〕
さて、そういう神様を私どもに教えてくれたのは誰であるかというと、それがキリストなのです。キリストが教えてくれたから、私ども
は神様をお父さんと知ることができた

 

これまで〔私どもは、〕天神(てんじん)様だとか八幡(やわた)様だとか、そういう〔人が作った社殿にいる〕神様を私どは知っていたけれども、天にいらっしゃるお父さんが神様だということは、キリストが教えてくれたからこそ〔、初めて〕知った。

 

だから今度は、〔その〕キリストというのは、どんな方だろう〔か〕と考える〔のです〕。

 

〔続く〕

 

♢ ♢ ♢ ♢

(『キリスト教早わかり』嘉信社、1946〔昭和21〕年12月、一部表現を現代語化。( )、( )内は補足、下線は引用者による)

 

注1 《放蕩息子のたとえ》父なる神の愛
イエスは、有名な「放蕩
(ほうとう)息子のたとえ」(ルカ15:11~24)で、父なる神の愛について教えている。(放蕩:「酒や女遊びにおぼれ、金を使うこと」)

たとえのあらましは、以下の通りである。

 

§ § § §

 

ある人に二人の息子がいたが、ある日、弟の方が父に財産の生前分与を求めた。

弟は、財産の分け前をもらうとそれを全部お金に換えて、飛び出すように遠い異国に旅立ってしまった。


そして息子は、異国の地で放蕩(ほうとう)に身を崩し、財産をまき散らした。

折しも、その国でひどい飢饉(ききん)があり、息子は豚飼いに落ちぶれたが、彼に豚の餌(えさ)さえくれる人はいなかった。


飢死の危機迫る中、息子は初めて我(われ)に返って言った、

父のところには、あり余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところへ行って言おう、『わたしはお父さんに対しても天に対しても罪を犯しました。もう息子と言われる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」

そして、息子は、父の家に向かった。

〔息子の帰還を待ちわびる父の愛が勝(まさ)ったのである。〕


息子が家に辿(たど)り着く前、はるか遠くから父は息子を見つけて不憫(ふびん)に思い、息子のところに走り寄った。


息子は父に向かって、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。・・」と言い始めた。

しかし、父は息子の言葉を全部聞こうともせず、息子を抱きしめた。


父は、「私の息子は死んでいたのに生き返り、失われていたのに見つかった」と言って喜び、そして祝宴を始めた・・。

 

§ § § §

 

このように、イエスは神を「」として描き、父なる神の愛人の救いについて語っている(イエスご自身もまた、このような愛の持ち主であった)。

 

☆詩歌002 八木重吉〖なんのうたがいもなく〗

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