<信仰入門

無教会入門 003

2019年10月16日改訂 

内村鑑三 

 

【キリスト教とは何か】

〔-キリスト論的集中-〕

エマオへの道ルカ福音書24:13~35

Robert Zünd(スイス)、1877年

* * * *

キリスト教は、後世の人々が作り上げた「宗教」〕制度ではない。教会〔組織〕ではない(注1)

それはまた、信仰箇条(信仰告白の定式文)ではない。教義(ドグマ)ではない。神学〔理論〕ではない。

それはまた、〔歴史的文書としての〕書物ではない。〔経典としての〕聖書〔崇拝〕ではない(注2)、〔聖書に記された、2,000年昔の〕キリストの言葉でもない。

 

キリスト教本質〕は、人である。生きている人である。

すなわち、〕きのうも、きょうも、永遠に変わらない〔生ける〕主イエス・キリストである(注3)

キリスト教がもし、これでないならば、つねに在(いま)す生ける彼〔-イエス・キリスト-〕でないならば、これは何でもない〔、価値の無い〕ものである。

 

わたしは、(ただ)ちに彼〔のもと〕に行く。教会、法王、監督(司教)、その他の有象無象の僧職を介して行かない。

わたしは彼ら〔の内〕におり、彼らはわたし〔の内〕にいる」とキリストはご自分の弟子について言われた。

 

キリスト教において最も重要なのは、生けるキリストとの生きた出会いである(注4、注5。それは、ただ神の恩恵と人間の信仰によってのみ可能である。

それ以外の一切は、非本質的であり、教会組織も、儀式(サクラメント)も、教義も、神学も第二義的なものである。注6

 

そして、〕キリスト教が〔死せる過去の〕歴史でなくなる時-そしてキリスト教は〔、決して〕歴史ではない〔。

 

わたしは死んだキリストを信じて、その追慕(ついぼ)と遺訓(いくん)の内に生きているのではない。

 

現今(げんこん)信仰によって、生けるキリストの内に生きているのである

そして復活のキリストが聖霊(せいれい)として、日々、わたしと共にいて、わたしを導いてくださる(注7)

それゆえ、〕-教〔導〕権を有する〔権威の源泉また恩恵の管理者としての制度〕教会なるものは(注8)、消えてしまうのである。

 

 

♢ ♢ ♢ ♢

(「基督(キリスト)教とは何である乎(か)」『聖書之研究』169号、1914年を現代語化、〔 〕、( )内は補足)

 

注1 イエスの宗教改革

無教会入門017内村鑑三〖無宗教・無教会〗

注2 聖書を生かすもの

詩歌028八木重吉〖聖霊〗

キリスト教入門004内村鑑三〖聖書が貴い理由〗

注3 永遠のイエス・キリスト 

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ13:8)

 

注4 心の友、イエス

一日一生内村鑑三8月10日〖イエスを友とする〗

​注5 生命的信仰

神学・論文008黒崎幸吉の〖生命的信仰〗

注6 参考文献

宮田光雄「無教会運動の歴史と神学」『宗教改革の精神』創文社、1981年、49項。

 

注7 聖霊(キリストの霊)を受ける

一日一生7月30日内村鑑三〖キリストを聖霊として迎える〗

 

注8 教権(きょうけん)

教導権ともいう。

宗教上の権力。特にカトリックで、教皇または教会の権力。

教導職(teaching authority):

キリスト教の信仰と道徳に関して、正しく教え導く教会の権威とそれを担う機関のこと。

・カトリック教会では、「使徒の後継者」としての司教たちに「聖書を、時代状況に応じてどのように正しく解釈し、これを生活に適用すればよいか」が委ねられており、教皇がその最高の「教導職」を遂行し、教皇の座(エクス・カテドラ)から全教会に向けて教義を宣言するとき、それは不謬(ふびゅう)を持つ(=決して誤ることがない)とみなされる。

・これに対し、プロテスタント諸教会では、宗教改革の「聖書のみ」の原理のもとに、教会の機関としての「教導職」を否定し、信仰者一人ひとりが〔神の〕聖霊の導きを受け、聖書を教会と信仰生活の規範として生きるべきであるとする(参考文献:『岩波 キリスト教辞典』岩波書店、2002年、292項。( )内は補足)。

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