― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
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最終更新日:2024年10月9日
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12月<内村鑑三「一日一生」現代語訳
12月16日~12月20日
(2019年7月6日更新)
このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『続 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。
【12月19日】信仰が足りない(信仰の秘訣)
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。
キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義(ぎ)と聖(せい)と贖い(あがない)となられたのです。
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
(コリント第一 1:30、31 聖書協会共同訳)
■信仰が足りない、あるいは無いといって、嘆(なげ)く信徒が多くいる。
しかし、そのような信徒は、キリスト教の信仰が何であるかを知らないのである。
キリスト教の信仰は、確信とか信力などという自分の力〔、つまり自力(じりき)〕ではない。
〔むしろ、〕キリスト教の信仰は〔、生ける神・救い主への〕信頼である。自分以外の《ある者》(注1)に〔目を注ぎ、彼に〕依(よ)り頼むことである。
〔自分の外にある〕彼の義(ただ)しさ、彼の聖(きよ)さ、彼の贖(あがな)い(注2)を仰(あお)ぎ、仰ぐことによって〔彼の義と聖と贖いを〕我(わ)がものとすることである(注3)。
それゆえ、わが信仰〔などというもの〕は、あってはならないのである。〔確信・信力としての〕わが信仰は、無い方がよいのである。
私は〔自分に信仰が無いことを痛切に思い知らされ、彼の前に〕無一物、無能力となって、彼〔の真実〕によってのみ生きようと願うとき、私は真(まこと)の信仰の生涯に入るのである(注4、5)。
それゆえ、自分に信仰が無いことを嘆くべきではない。かえって、無いのを喜ぶべきである。
無いから、やむを得ず、〔彼に〕依り頼むのである。そして、依り頼んで〔初めて〕、真の信仰〔-生けるキリストとの出会いと彼に対する一筋(ひとすじ)の信頼-〕を与えられるのである(注6)。
〔こうして、信仰さえも神の絶対的な恵みとして与えられる。つまり、キリスト教の信仰は、《絶体他力(たりき)》としての信仰である(注7、8) 。
「それは、『誇(ほこ)る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである」(コリント第一 1:31)〕
信仰のこの秘訣(ひけつ)を知るとき、われらは〔自分の〕信仰の欠乏さえも、嘆かなくなるのである。
(原著「信仰の欠乏-嘆くに足(た)らず-」『聖書之研究』1915年5月、信16・69)
§ § § §
注1 「ある者」、「彼」
救い主キリスト・イエスを指す。
注2 贖(あがな)い
キリストの十字架による、罪の贖いのこと。
注3 キリスト教信仰のイロハ(初歩)
注4 恩寵(おんちょう)義認::
-キリストの真実(恩寵)によって、生かされる-
「人が〔神の前に〕義(ぎ)とされる〔=救われる〕のは、律法の行い〔つまり、自らの行いの義(ただ)しさ、業績〕によるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。」(ガラテヤ 2:16、聖書協会共同訳)
「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません。
私が今、肉において生きているのは、わたしを愛し、私のためにご自身を捧げられた神の子〔キリスト〕の真実によるものです。」(ガラテヤ 2:19b~20、聖書協会共同訳、( )、〔 〕内、下線は補足)
注5 「信仰」さえも偶像となり得る
「偶像(ぐうぞう)とは、決していわゆる偶像崇拝の偶像だけではありません。
財産、社会的名声、地位、権力、すぐれた学識、人に慕(した)われる道徳的な人格、いな信仰さえも、偶像となり得るのであります。」
「それらは彼の魂を捉え、神に向かうのを引き止めるのであります。つまり、それらのものが神と人との間に立ちはだかり、まことの出会いと交わりとを阻止(そし)するのです。
これこそまさに偶像なるものの本然(ほんぜん)の姿です。」
(『酒枝義旗著作集 6 ルカ伝講義』キリスト教図書出版社、1979(昭和54)年、340項より引用)
注6 八木重吉の詩
〈何の疑いもなく〉
何の疑いもなく
こんな者でも
たしかに救って下さると信ずれば
ただあり難し
生きる張り合いがしぜんとわいてくる
〈称名〉(しょうみょう)
わからなくなった時は
耶蘇(ヤソ※)の名を呼びつづけます
私はいつもあなたの名を呼んでいたい
※耶蘇:キリストのこと。
注7 絶体他力としてのキリスト信仰
注7 一方的な恵み(絶対的な恩寵)としての信仰
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