12月<内村鑑三「一日一生」現代語訳

 

12月16日~12月20日

(2019年7月6日更新)

 

このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。

【12月19日】信仰が足りない(信仰の秘訣)

あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。

キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義(ぎ)と聖(せい)と贖い(あがない)となられたのです。


誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

(コリント第一 1:30、31 聖書協会共同訳)

■信仰が足りない、あるいは無いといって、嘆(なげ)く信徒が多くいる。

しかし、そのような信徒は、キリスト教の信仰が何であるかを知らないのである。


キリスト教の信仰は、確信とか信力などという自分の力〔、つまり自力(じりき)〕ではない。

むしろ、キリスト教の信仰は〔、生ける神・救い主への〕信頼である。自分以外の《ある者(注1)に〔目を注ぎ、彼に〕依(よ)り頼むことである。

自分の外にある〕の義(ただ)しさ、の聖(きよ)さ、の贖(あがな)(注2)を仰(あお)ぎ、仰ぐことによって〔彼の義と聖と贖いを〕我(わ)がものとすることである(注3)


それゆえ、わが信仰〔などというもの〕は、あってはならないのである。〔確信・信力としての〕わが信仰は、無い方がよいのである。

 

私は自分に信仰が無いことを痛切に思い知らされ、彼の前に〕無一物、無能力となって、〔の真実〕によってのみ生きようと願うとき、私は真(まこと)の信仰の生涯に入るのである(注4、5)

 

それゆえ、自分に信仰が無いことを嘆くべきではない。かえって、無いのを喜ぶべきである。


無いから、やむを得ず、〔彼に〕依り頼むのである。そして、依り頼んで〔初めて〕、真の信仰〔-生けるキリストとの出会いと彼に対する一筋(ひとすじ)の信頼-〕を与えられるのである(注6)


こうして、信仰さえも神の絶対的な恵みとして与えられる。つまり、キリスト教の信仰は、《絶体他力(たりき)》としての信仰である(注7、8) 。

「それは、『誇(ほこ)る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである」(コリント第一 1:31)〕


信仰のこの秘訣(ひけつ)を知るとき、われらは〔自分の〕信仰の欠乏さえも、嘆かなくなるのである。

(原著「信仰の欠乏-嘆くに足(た)らず-」『聖書之研究』1915年5月、信16・69)

 § § § §


注1 ある者」、「
救い主キリスト・イエスを指す。

注2(あがな)
キリストの十字架による、罪の贖いのこと。

注3 キリスト教信仰のイロハ(初歩)

近代の預言004 三谷隆正「現代教会の最大欠陥」

注4 恩寵(おんちょう)義認:

-キリストの真実(恩寵)によって、生かされる-

人が〔神の前に〕義(ぎ)とされる〔つまり、救われる〕のは、律法の行い〔つまり、自らの行いの義(ただ)しさ〕によるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。」(ガラテヤ 2:16、聖書協会共同訳)

私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません。

私が今、肉において生きているのは、わたしを愛し、私のためにご自身を捧げられた神の子〔キリスト〕の真実によるものです。」(ガラテヤ 2:19b~20、同上訳、( )、〔 〕内、下線は補足)

5 「信仰」さえも偶像となり得る

偶像(ぐうぞう)とは、決していわゆる偶像崇拝の偶像だけではありません。

財産、社会的名声、地位、権力、すぐれた学識、人に慕(した)われる道徳的な人格、いな信仰さえも、偶像となり得るのであります。

それらは彼の魂を捉え、神に向かうのを引き止めるのであります。つまり、それらのものが神と人との間に立ちはだかり、まことの出会いと交わりとを阻止(そし)するのです。

これこそまさに偶像なるものの本然(ほんぜん)の姿です。」

(『酒枝義旗著作集 6 ルカ伝講義』キリスト教図書出版社、1979(昭和54)年、340項より引用)

注6 八木重吉の詩

何の疑いもなく

何の疑いもなく

こんな者でも

たしかに救って下さると信ずれば

ただあり難し

生きる張り合いがしぜんとわいてくる

称名(しょうみょう)

わからなくなった時は

耶蘇(ヤソ※)の名を呼びつづけます

私はいつもあなたの名を呼んでいたい

 ※耶蘇:キリストのこと。

注7 絶体他力の信仰

内村鑑三「一日一生」2月4日「二種の宗教」

注7 一方的な恵み(恩寵)としての信仰

​信仰に生きる029溝口正〖委ね切る〗

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