<信仰と人生

信仰に生きる 029

2019年7月10日改訂

溝口 正

 

〖 委ね切る 

* * * *

私は神に「委(ゆだ)ね切る」とか、キリストに「絶対信頼する」とかと、たびたび人に語り文章にも書いてきた。

また私なりに、すべてを主(しゅ)に委ねて生きているつもりでいた。

 

しかし昨年、長期間にわたり体調を崩(くず)して、それが口で言うほど生(なま)(やさ)しいことではなく、自分の信仰体験の浅薄(せんぱく)さを身に染(し)みて実感するに至(いた)った。


昼間、何とかして眠りたいと思うのだが、神経の細い私はそれがなかなかできない。眼を閉じて何も考えず、じっと静かに横になっているのだが、いつの間にか、あれこれと考えてしまい容易に眠れないのである。

 

その時、私はまだ本当に神に委ね切っていない自分の姿を発見して、情けなくなり涙が頬(ほほ)を流れ落ちた。


長い月日を〔病床で〕寝ていると、自分の人生の来(こ)し方を振り返る時間が多くなる。

 

恩恵に包まれて順調であった一つ一つの出来事が思い出されて感謝に満たされることも多いが、時に(たましい)に突き刺さる罪の思い出に出会うと、身の置き所のないほどの苦悩にさいなまれる。

 

完全に信仰から離れていた自分〔の姿〕に出会う瞬間ほど、痛ましいことはない。しかも、それが次から次へと攻めるように思い出されて、私を苦しめた。

 

しかし不思議であったのは、そのように罪を犯し、不信仰に呑(の)み込まれた私であっても、今なお、然(しか)り、福音(ふくいん)に出会って「(なんじ)の罪ゆるされたり子よ、あなたの罪は赦された)」〔マルコ 2:5〕の主の御(み)言葉をいただいてより五十有余年間、大筋(おおすじ)において主より離れたことは無かったということである。

 

今度分かった最大の恩恵は、私自身が主から離れて不信仰の波間に漂(ただよ)ったときでも、主御自身は決して私の手を離し給(たま)わず、しっかりと握りしめていて下さった、ということである。

それなくして私は信仰を失い、罪と死の泥沼の中に沈んでしまったであろう。


信仰とは、神の与え給(たも)う賜物(たまもの)である。キリストの一方的な恵みである。

 

昨年の病床中にこのことが示されて、私の悲しみの涙は、感謝と喜びの涙に変ったのである。

 


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(溝口正『復活』第375号、1998年2月。( )、〔 〕内、ルビ、下線は補足)

注1 キリスト:両手を拡げてあなたを迎える方
「子よ、心安(やす)かれ。汝の罪赦されたり(子よ、安心せよ。あなたの罪は赦された)。」(マタイ 9:2b)

注2 一方的な恵み(恩寵)としての信仰

一日一生12月19日〖信仰の秘訣〗

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