信仰と人生

信仰に生きる 030

2019年3月14日改訂

溝口 正

 

〖 聞かれない祈り 

* * * *

政池(まさいけ)仁先生のヨハネ福音書講義の中に、私の魂(たましい)を揺(ゆ)り動かした言葉があった。


「奇蹟(きせき)見てでも信ずる者は、幸(さいわ)いである。

 

しかし奇蹟をも見ないで信ずる者は、さらに幸いである。

 

しかし、さらにもう一段上の幸いな人がある。それは、〔切なる〕祈りを斥(しりぞ)けられても、なお信ずる人である。

 

自分の(やまい)が癒(い)えなくても、家庭の不幸が続いても、ついに自分の愛児まで取り去られても、なおかつ神の全(まった)〔き〕義(ぎ)・全〔き〕愛を信じる(信頼する)ことができるようになれば、神のその人に対する救いの御仕事は、ほぼ完成したのである。

 

このような人の祈りが斥けられたのは、その人の信仰が足らないからではない。その人の信仰がそれに堪(た)える事ができるからである。

 

このような祝福に与(あずか)った者は、不幸が降(くだ)れば降るほど、〔かえって〕信仰が増し、この世にいながら既(すで)に天国に移されているのである。

 

彼にとっては〔もはや〕、生と死との区別(境界)が非常に少ないのである。あっても無に等しいのである。(『政池仁著作集(5)』、118~9頁)


私どもには、地上で聞かれない祈りが沢山(たくさん)ある。

 

聞かれないのは、人の願いとは別の所に神の御心(みこころ)があるためである。

(ただ)ちには神の御心が分らぬことが多いが、完全に分らせていただける時が必ず来るであろう。

 

その時には、聞かれないと嘆(なげ)いていたその祈りが、実は人の思いを越えて、〔神の御心によって〕最善かつ完全な形で聞かれていたことを見出すことが必ずできるからである。


私どもの祈りが地上で聞かれなかったからといって、〔神を恨(うら)んで〕神から遠ざかり信仰を捨てるならば、これ以上の不幸はない。

 

祈りが聞かれなかったことを通して、かえって一層神に近づく者は、幸いである。

人間の願いとは別に神の計(はか)り知れない義と愛と最善とが用意されているからである。

 

最終的に実現するのは神の御計画のみである。その実現を終りの日まで信ずる(信頼して待ち望む)のが、信仰である。


聞かれない祈りをとおして、私どもは信仰から、さらに信仰へと前進させていただくのである。

 

パウロが「福音には、神の義が啓示(けいじ)されていますが、それは、初めから終りまで信仰を通して実現されるのです」(ローマ 1:17、新共同訳)と言っているのは、そのことであろう。


祈りの聞かれなかった愛する者たちよ、本当にあなたの祈りの聞かれるのはこれからである。

それゆえ、〕いよいよ神に近づきキリストを仰(おお)ぎ見て、その日の到来を待ち望もうではないか(注2)


 ♢ ♢ ♢ ♢

(『復活』第389号、1999年4月に収載。( )、〔 〕内は補足。下線は引用者による。政池仁著作集からの引用は、一部表現を現代語に改めた

注1

信仰に生きる22矢内原忠雄〖分からないこと〗

注2

一日一生7月29日内村鑑三〖希望と前進〗

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