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12月<内村鑑三「一日一生」現代語訳

 

12月21日~12月25日

(2019年12月29日更新)

 

このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。

【12月21日】

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【12月22日】

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【12月23日】

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【12月24日】

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【12月25日】新しきクリスマス

まことに、一人の嬰児(みどりご)がわれらのために生まれ、一人の男の子がわれらに与えられた。

 

主権はその肩にあり、その名を「奇(くす)しき議官、力強い神、永遠の父、平和の君」と呼ぶ。

 

その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いてその王国を治め、公正と正義をもってこれを強固にし、またこれを発展させ、今より永久(とこしえ)に至るであろう。

 

万軍(ばんぐん)ヤハヴェの熱心が、このことを成し遂げる。
(イザヤ 9:5~6 岩波訳)

 

キリストは〔二千年前、〕すでに〔この地上に〕来られた

そして、〕彼は〔、約束どおりに〕再(ふたた)び来られるであろう。

 

キリストは〔人類の罪と死を一身に担(にな)うため、〕マリヤの子として〔、われらと同じ〕人間〔-極度に貧しく無力な、危うい存在-〕に生まれてくださった(注1、2)

その〕彼は〔今度は、栄光の〕神の子として〔、愛と義をもって〕人類を治められるであろう。

 

キリストは、今は〔天に挙げられて、〕地上におられない。

しかし、それは〔もう〕暫(しばら)くのことである。彼はじきに帰り来て、われらの王となられるであろう。

 

見よ、暗きは地を覆(おお)い、暗黒(やみ)は諸々(もろもろ)の民をおおう。

しかしあなたの上には〔、神〕ヤハヴェが朝日のごとく昇られ、ヤハヴェの栄光があなたの上にあらわれる」(イザヤ 60:2)と〔聖書に〕ある。


キリストは、この地をその暗黒〔の支配〕に委(ゆだ)ねることはなさらず、彼は〔暗黒を打ち破って、〕その上に輝き、われらに〔平和の〕光を与えてくださるであろう。

 

今や、新しきクリスマスは来たりつつある。

これは、二千年前、〕新しき星がベツレヘムの上空に輝いた時に遙(はる)かに勝(まさ)る、栄光のクリスマスである。

 

神の子〔キリスト〕は、その正当な持ち主として地を受け継ぐために、来たりつつある。

今度は、罪を贖(あがな)うためにではなく、これを滅ぼ〔し、神の国の完成をもたら〕すためである。

 

かつて救い主の降誕(こうたん)を告げた〕ベツレヘムの星は、〔今や〕義の太陽として〔全地の上に〕昇ろうとしている。

 

何と楽しいことよ、新しきクリスマス

(信12・239)

 

§ § § §

注1 ルカ福音書 2:8~20 参照

注2 初めてのクリスマス-貧しく、無力なキリスト

あなた方は、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。

なわち、主は〔神の子として〕富んでおられたのに、あなた方のために〔人間となって〕貧しくなられた。

それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである」コリント第二 8:9 口語訳

キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなしくして僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられた。

その有様(ありさま)人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ書 2:6~8 口語訳)

​* * * *

キリストはかつて富んだ方であった。ピリピ書2章6節が語っているように、神と等しくあるという豊かさの中におられた方であった。

しかし彼は、そのような豊かさや富を固執すべきこととはされなかった。

 

彼の目には、私たち人間の極度の貧しさ、極度の無力さ、極度の危(あや)うさが映った。

そのような私たちのために、キリストは貧しくなって下さった。

私たちが立っているまさにそのところに、彼は立って下さった。私たちの置かれている状況を、彼は自らの状況として下さった。ご自身の身に引き受けて下さった。

飼い葉桶の中で布に包まれた嬰児(みどりご)の誕生-初めてのクリスマス-は、そのことを語っている(ルカ 2:7)。

 

そしてまた、布に包まれた嬰児キリストが示しておられる極度の貧しさ、極度の無力さ、極度の危うさは、まさに私たちのそれである。

だが同時に、御言葉は次のように語る。

それは、あなたがたが、彼〔キリスト〕の貧しさによって〔真に〕富む者になるためである」コリント第二 8:9 )。

つまり、キリストが私たちのところに立って下さる-彼が私たちの状態をご自身の状態としてくださる-のは、そのことを通して、彼の立つところに私たちを迎えるためである。私たちが彼の富に、彼の豊かさに与(あずか)るためである、と。

神は、私たちが、この嬰児キリストの姿を通路として、神の豊かさに与る者となることを望んでおられる。

(注2の参考文献:井上良雄「今日汝らのために救い主生まれ給えり」『キリスト教講話集Ⅱ エデンからゴルゴタまで』新教出版社、2012年)

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