top of page

神学研究(神学・論文&教義学)

神学・論文 022

2025年3月11日

2025年9月7日改訂

さかまき・たかお

New Theory of Grace Atonement 

Reclaiming the Gospel of Peace

平和の福音を取り戻す

恩寵贖罪論

-刑罰代受説を乗り越える道-

​The Way to Overcome The Theory of Substitution of Punishment

by TAKAO SAKAMAKI

​​

関連リンク Related Links

心震わせる英語讃美 Heart-stirring Singing of English Hymn

讃美 Laura Bretanヴィア・ドロローサ Via Dolorosa  /  十字架の道 The Way of the Cross 〗YouTubeへ

音楽・映像歌詞和訳ヴィア・ドロローサVia Dolorosa 〗へ

■ピアノ演奏

音楽・映像和訳〖馬槽のかたえにわれは立ちて / J.S.Bach ”Ich steh an deiner Krippen hier”

日本語讃美 Japanese Hymns

詩歌・讃美歌 馬ぶねの中に / In the Manger〗へ

新聖歌120番「十字架より叫び聞こゆYouTubeへ

聖歌530番「悩む世人のためにYouTubeへ

関連文献 Related  Documents

神学・論文 高橋三郎刑罰代受説の問題点

無教会入門  溝口  正まことの洗礼十字架の血による洗礼

人物紹介S・キルケゴール

キリスト教入門歴史的事実としてのイエスの生涯 The Life of Jesus as Historical Fact

信仰論 内村鑑三信仰と救いのコペルニクス的転回 / The Copernican turn of Faith and Salvation

神学・論文さかまき・たかお〖恩寵義認と無教会の無条件救済論〗

イエス 罪人を赦す01_edited.jpg

すべての人の、赦しと救いのために

To Forgive and Save All

* * * *

■恩寵贖罪論の本文は、〖目次〗と〖読解ガイド〗のにあります。本文の後の付記は、小論の要約となっています。

The main text of the doctrine of Atonement by Grace (= Forgiveness of Sin by Grace) can be found after the Table of Contents and Reading Guide

Postscripts at the end of the page is a summary of this essay.

The Table of Contents

目 次


1.今なぜ贖罪論なのか-平和の福音を取り戻すために

Why Atonement Theory Now? - To Reclaim the Gospel of Peace
⑴ 人間と世界の根本問題
⑵ 破壊と悲惨の根本原因
⑶《罪》の実相
⑷ 罪の根本治療
  ① 人知による解決法
  ② 神の解決法
⑸ キリスト教贖罪論への問い- 聖書の贖罪論を求める旅

2.刑罰代受説とアンセルムスの《満足説》

The Doctrine of Substitution and Anselm's Doctrine of Satisfaction
⑴ 刑罰代受説とは
⑵ アンセルムスの《満足説》-〈封建領主〉としての「神」
⑶ 刑罰代受説と〈イエスの代理死〉をめぐる疑義

3.高橋三郎「刑罰代受説の問題点」

Saburo Takahashi: 'Problems with the theory of substitution of punishment'
⑴ 論考「刑罰代受説の問題点」
⑵ 高橋が剔抉した問題
⑶ 刑罰代受説の「正義の神」- 神の加虐性の問題-

⑷ キリスト教の〈加虐性〉- 天に代わりて不義を討つ

4.《平和の福音》を取り戻す

Reclaiming the Gospel of Peace

5.内村鑑三「十字架教」

Kanzou Uchimura: 'The Religion of the Cross'

6.十字架=イエスの生の帰結

The Cross: The Consequences of Jesus' Life
⑴ イエスの生涯 - インマヌエル
⑵ 十字架の道

7.十字架の祈り

Prayer of the Cross
⑴ 群衆の中に私が - キリストとの同時性
⑵〈執りなしの祈り〉による罪の赦し
⑶ イエスの全生涯=神の愛のことば
⑷ 赦しと和解の〈絶対他力〉- 時空の隔たりを超えて

8.結語- 十字架と新生

Conclusion: The Cross and Rebirth
⑴ 十字架、わが救いのため
⑵ 刑罰代受説の「神」とイエスの《神》
⑶ 主の御手は私を離さない - イエスに倣いて

付記・注

Postscripts and Notes

Reading guide

〖 読解ガイド 〗

以下に本論考の読み方の一例を紹介します。論考に不慣れな方は、参考にしてください。


まず、
68 章の本文付記を読む。

6~8 章は、論考の中心テーマである〈新しい贖罪論〉-恩寵贖罪恵みによる罪の赦し)-について論じた部分です。

聖書の証言をもとにイエスの生涯をたどり、その帰結である〈十字架〉に注目しつつ、恩寵贖罪論が展開されます。

また付記は、本論考の要約となっています。

まず、この部分を押さえしましょう。


次に、
② 注とともに再度、
68 章まで読む。
注とともに本文を読むことにより、恩寵贖罪論の理解を
深めます


その後、
③ はじめの
1 章に戻って通読する。
1~5章は、論考の
序論ないし予備的考察として、恩寵贖罪論と現代との間に橋を架(か)けるものです。


1章では、以下が論じられます。
世界と人間の問題の根本に、人間の《罪》の問題があること。

聖書が示す〈罪の根本解決の道〉を人々に教えるのが、本来の〈贖罪論〉であるべきこと。

しかし驚くべきことに、現在の贖罪論の中心である〈刑罰代受説〉がかえって、〈キリスト教の加虐性〉と連動し、争いに満ちた世界の問題に深く関与していること。


これらを確認した後、聖書の説く罪の赦しの教え(贖罪論)を求めて〈真理探究の旅〉に出ます。

​68 章を先に読んだ後に1~5章を読むことにより、現代世界とそこに生きる人間の抱える問題が照らし出され、恩寵贖罪(恵みによる罪の赦し、救い)が問題の根源的な解決に深く関(かか)わっていることが理解されます。

□ 読解のヒント Reading Comprehension Tips

まずは全体像をつかむことを意識しましょう。多少表現を変えながらも、何度も繰り返し出てくる言葉に注目しましょう。

文章の細かい部分ばかりに、目を奪われないようにしましょう。

各章、各節に付けられた見出し(タイトル)は、その章・節のテーマ(主題)となっています。

タイトル(テーマ)について説明している文章に注目して、読み進めましょう。

各文章、段落の結論部分に注目しましょう(結論部分は普通、文末や段落の終わりの方にあります。まれに結論が先に提示され、説明が後に続く場合もあります)。

♦ 「疑問文」に注目して下さい。

疑問文注目することが、論者の「言いたいこと」を読み取る助けとなります。

“むずかしい” 言葉の前後に、その言葉の説明や分かりやすい言い換えがある場合が多いです。説明語句言い換えを探しましょう。

どうしても分かりにくい箇所は、飛ばして読んで下さい。何度か読み返すと、自然と意味が分かってくることが多いです。

画面の文字を目で追うよりも、紙に印刷して、重要な部分に下線を引く、文章の前後で関連のあるものを線でつなぐ、気づいたことを書き込むなどして、手を動かすと文意が掴(つか)みやすくなることがあります。

ことわり

♦ 本論考は、一般読者や平信徒向けのものであり、専門家向けの学術論文ではありません。

論考の執筆に際し、できるかぎり正確な記述に努めましたが、同時に分かりやすさも重視しており、「専門家レベルの厳密さ」は追求していません。

ただし求道と真理探究の精神(=真実を求める精神)は、学術論文の場合と異なりません。

さらに学びを深めたい方は、引用文献や参照文献に当る、専門書をひもとくなどをお勧めします。 

信仰の歩みにおいてわれわれを正しく導く者は、聖書に証(あか)しされた《神の言葉》-生けるキリスト-であることを銘記しましょう。

* * * *

Forgiveness of Sin by Grace

おんちょうしょくざいろん

恩寵贖罪論

- 恵みによる罪の赦し 

さかまき・たかお

だがイエスは〔あえて〕〈苦難の道〉を歩むことを選ばれたのだ​、

あなたとわたしへの愛ゆえに。

〈ヴィア・ドロローサ〉をたどり、一路、カルバリ〔丘の十字架〕へと

-「ヴィア・ドロローサ」より -

注1)

But He chose to walk that road

Out of His love for you and me
Down the Via Dolorosa, all the way to Calvary

- From "Via Dolorosa" -

(Note 1)

1.今なぜ贖罪論なのか平和の福音を取り戻すために

⑴ 人間と世界の根本問題
確かに聖書は、他の書物と同じように、「文学」や「人類の精神史」、また「歴史資料」として読むことができる。

古典-人類の知的遺産-としての「聖書」。それ自体、貴重で興味深い。

しかし聖書の聖書たる所以(ゆえん)は、聖書が一般の書物と一線を画(かく)するもの、その本質において神から人類への語りかけ(啓示)を記(しる)した書である、という点にある。

「神と人間の間には、無限の質的差異がある」(K・バルト)。人間はあくまでも人間であって、神ではない

人間は思考や認識の階段を上ることによって、また「神的(しんてき)なるもの」・「永遠的なるもの」との合一(ごういつ)-悟り- によって、「下から」、つまり人間の側から接近し、無限の神の許(もと)に到達することはできない。

われわれ人間の〈思惟〉(しい)や〈悟り〉によって認識し得(え)たとする「神」は、人間が作り上げた《偶像》にすぎない。

それは、(まこと)の《神》とは全くの別物である。

われわれがの神の御心(みこころ)を知る道は、「上から」、つまり神の側から人間への語りかけ(啓示)による以外は、あり得ない。

神は、かつてイザヤ、エレミヤなどの《預言者》を通して人々に語りかけた。

そして2,000 年前、神の独(ひと)り子イエス・キリストによって決定的・究極的な仕方で語られた。

これが、哲学者・神秘家・悟りの宗教が思い描く非歴史的、抽象的・無時間的な「神」と自らを語る〈啓示の神〉の違いである。

こうして神の啓示を書き記したもの-神の啓示の人間的な(=人の手を介した)記録-、それ が聖書である。


その聖書は、人間の問題、社会と世界の問題の根本には、《罪》の問題があると指摘する。

 

そして罪》の問題の解決こそが、人類救済と諸問題の根本解決の鍵を握ると教える。

⑵ 破壊と悲惨の根本原因
では、聖書のいう《罪》とは一体、何か。


使徒パウロ(?~A.D. 60 年頃)は、新約聖書『ローマの信徒への手紙』で次のように述べている。


ユダヤ人もギリシア人も皆、〔すなわち、すべての人は〕罪の〔支配〕下にあるのです。

 

〔それは、旧約聖書に〕次のように書いてあるとおりです。


『正しい者はいない。一人もいない。悟(さと)る者はいない。神を探し求める者はいない。

〔、神の許から〕迷い出て、誰も彼も無益な者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。

 

彼らの喉(のど)は開いた墓であり、彼らは舌で人を欺(あざむ)き、その唇の裏には蛇(ヘビ)の毒がある。

 

〔その〕口は呪(のろ)いと苦味(にがみ)に満ち、足は血を流そうと急ぎ、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。

 

彼らの目には神への恐れがない』」(ローマ 3:9b~18)


つまり人は神の許(もと)から迷い出て、あるいは神の許から逃走し、自己(エゴ)を神として拝みつつ、各々自分勝手な道を歩んでいる。

そして、「欲望が孕(はら)んで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」(ヤコブ 1:15 口語訳聖書)。

こそが破壊と悲惨の根本原因である、という。

⑶《罪》の実相
人は内なる罪に支配され、「誰も彼もが無益な者」となり、「平和の道」を失い、互いに争って血を流し、破壊と悲惨に陥(おちい)っているとパウロは言う(自己を含めた万物との闘争状態)。


創造主(しゅ)である神を見失って、内に深い闇を抱(かか)えた個人、愛が冷え不信が渦(うず)巻く社会、闘争と戦争に明け暮れる世界。

また、自然を収奪(しゅうだつ)して地球環境を破壊し、その結果、地球温暖化や気候激変を招いて、存亡の危機に瀕する人類。

神を忘れ、あくまでもエゴを追求する人間は、罪によって支配され、分断と争い、破壊と悲惨に行き着かざるを得ない。

​すべての問題の根本に、〈人間〉の問題がある。

人間の問題の中心に、〈心の闇〉の問題がある。

心のの根源に、》の問題がある。

 

2,000 年前のパウロの言葉は、さながら現代世界の病理を正確に描き出す​〈診断書〉のごとくである。

⑷ 罪の根本治療

① 人知による解決法

それならば、人は問題の解決に向けて不断の努力と改善を続ければ、それで万事(ばんじ)は解決へと向かうのか。

 

科学技術の発達と人類社会の進歩によって、すべての問題は解決され、地上に《理想郷》(ユートピア)は来るのか。

進歩史観》は、果たして真実か。

答えは、“ No ! ”(否)

ハンドルが(ゆが)んだ自転車では、目標に向かって真っすぐ走ることはできない。


《罪》の問題は、人間の自力では根本解決できない。

 

なぜなら、それは罪の渦中(かちゅう)にある人間の手に余る問題だから。解決法を考える人間の思考とその実践自体が、《罪》の影響下(汚染下)にあるからである。

 

もちろん、諸問題の具体的な解決策を考え、解決のために努力することはとても大切である。

特に、生命(いのち)を守り、育(はぐく)むこと。困難な中にいる人を思いやること。人々の間に平和を造ること。

これらは、意識するとしないとにかかわらず、神のみ業(わざ)に参画することである。

 

しかし如何(いかん)せん、有限かつ罪の影響下にある人間の考え出す解決策は決して万能無欠ではなく、自(おの)ずと限界があり、そこにはすでに別の問題-副作用-の種が潜(ひそ)んでいる。

われわれは常に、このことを忘れてはいけない。

強力な薬ほど、副作用も強い。

絶大な力の源(みなもと)を見い出したときこそ、われわれはよくよく注意する必要がある。

なぜなら、このとき謙虚さを忘れることは、それ自体が〈狂気の始まり〉であり、〈破局への入り口〉に立つことだからである。

このことは、科学技術の異常な発達- 特に、原子力・核エネルギーの利用において、しかり。生命操作において、しかり。そしてデジタル技術・AI(人工知能)、ドローン・ロボット開発においてしかり、である。

破局の予感- このままでは、いけない・・。猶予(ゆうよ)は、残り少ない・・・。

現代人は否応(いやおう)なしに、気づかされつつある。

しかし人々は、それが拠(よ)って来(きた)る根本原因を知らず、それゆえ対処の術(すべ)を知らない。

真の解決は、一体、どこにあるのか?

この大問題に対し、聖書は何と答えるか。

② 神の解決法

聖書は、ペシミスティック(悲観的・厭世的な)な書物ではない。聖書はむしろ、〈希望の書〉である。


人間の知恵が考え出す(あや)うさを秘めた〈対症療法〉に対し、聖書は根源的な問題解決の道を示す。

 

聖書が示す道は、神のイニシアティブ(主導)によって何よりも先ず、神に対する人間の背反(はいはん)-罪- が癒されて、神に立ち帰るいう道である。

 

つまり、人間を《罪》の支配下から《神の恵み》の圏内へと奪還(だっかん)し、神と人間との間に根本的な《和解》をもたらすことである。

これが聖書の示す根本解決の道であり、すべての出発点である

この解決の道を経てはじめて、人は、神と人に対する責任を自覚する者- 責任を持って立つにふさわしい人格-とされる。

こうして人は、《平和を造(つく)る者》として、人格共同体の形成に参画し、真摯(しんし)に問題の解決に努めるべく導かれるのである。

これが、すべてのものが本来、あるべき場所に収まるための第一歩である。


罪の赦し》と《神との和解》についての教え(教説)は、特に《贖罪論》(しょくざいろん)と呼ばれる。

贖罪論は、本来的に喜ばしい教えである。

⑸ キリスト教贖罪論への問い- 聖書の贖罪論を求める旅
キリスト教贖罪論は、罪の問題の根本的な解決方法-《罪の赦し》と《神との和解》の道を説く。 

カトリック、プロテスタントを問わず、長らくキリスト教贖罪論の中心とされてきたのは、いわゆる《刑罰代受説》(けいばつだいじゅせつ)である。

刑罰代受説》は数百年の歴史を持ち、一見(いっけん)難攻不落(なんこうふらく)の城壁のように見える。


しかしこの教説に対し、最近、聖書学や神学の側から重大な疑義が提出されている。


近年、〈キリスト教の加虐性〉が問題とされているが、この加虐性(かぎゃくせい)に刑罰代受説が深く関わっているとの指摘である。

この指摘は、本当か?

もし、刑罰代受説が〈キリスト教の加虐性〉に深くかかわっているとするならば、それは由々しき事態であると言わねばならない。

​ここで、大きな問いがわれわれに迫って来る。

そもそも《刑罰代受説》とは、何か

・《刑罰代受説》は、本当に聖書に由来する教えか

・《刑罰代受説》は、新約聖書に描かれたイエスの生涯から導き出されたものか

 

・《刑罰代受説》の説く「神」と「十字架」、また聖書が語る《神》と《十字架》。これらは果たして、同じものか

伝統的なキリスト教贖罪論を乗り越え、《平和の福音》(エフェソ 6:15)を取り戻す道はあるのか

・・

暗闇が押し迫る中で始まる〈真理探究の旅〉。

(けわ)しき峰々を登りきった先に見える(いただ)きの景色は、どのようなものだろうか。

友よ、さあ勇気をもって出発しよう、足前数歩の照明(あかり を頼りに

足前数歩(そくぜんすうほ)の照明:三谷隆正著『問題の所在』の「はしがき」 参照)

2.刑罰代受説とアンセルムスの満足説
⑴ 刑罰代受説とは

刑罰代受説は、次のⅰとⅱから成る。​

ⅰ.人間の罪に対するご自身の聖なる怒りを鎮(しず)め、正義を全(まっと)うするために、神は人類の身代わりとして罪なき御子イエスを十字架に付け、処罰した(神の刑罰をイエスが人間のわりにけた)。

ⅱ.〔この〕キリストの代理的な苦難と死を通して、人類が受けるべき刑罰は克服され、罪許される道が開かれた。
(元和泉短期大学教授・牧師 伊藤忠彦著『キリスト教教理入門』ヨルダン社、1987年、125~126項参照)​​​

この教説は、次のように要約できる。
・神は人間の罪に対する聖なる怒りを鎮めるために、ただ一人の罪無き人、イエスを人間の〈身代わり〉として十字架に付け、処罰した。

イエスの死によって神は満足し、人類の罪は帳消しとされた(人類は罪許された)

以上のように、刑罰代受説の基本的な構図は、「神の怒りが人類の代理としてのキリストの上に下された。それによって、神は満足する」というものである。

この構図は、宗教改革期以後の二大信仰問答書である『ハイデルベルク信仰問答』(1563年)と『ウェストミンスター大教理問答』(1647年)に明瞭な形で引き継がれている。

このお方(=イエス・キリスト)は、ご自身の貴(とうと)い血によって、わたしたちのすべての罪の代償を、完全に支払ってくださいました。

 

そしてわたしを、悪魔のすべての力から救い出し・・・」(『ハイデルベルク信仰問答』、第1問)。

キリストは、ご自身を傷のない生け贄(にえ)として一度だけ神に献げて、彼の民の罪のための和解となる」(『ウェストミンスター大教理問答』、第44問)。

「〔キリスト罪のための供え物として、十字架の苦しい・恥ずかしい・呪われた死を耐え忍んでその命を捨てた」(同、第49問)。

この二大信仰問答書に大きな影響を及ぼしたとされるのが、カンタベリー司教だったアンセルムス(11-12世紀)の《満足説》である(A.E.マクグラス著『総説 キリスト教』キリスト新聞社、2008年、292~295項)。

ちなみに、「日本基督教団信仰告白」(1954年)では、「御子〔イエス〕はわれら罪人の救いのために人となり、十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)(まった)き犠牲として神にささげ、われらの贖(あがな)いとなりたまえり」となっている。

 

二大信仰問答書と同様、教団の信仰告白も、「イエスの代理死=贖罪のための犠牲」による救済論の伝統に立っていることが分かる。

アンセルムスの満足説》-〈封建領主〉としての「神」

では、アンセルムスの《満足説》(Satisfaction Theory)とは、どういうものか?

多くの学者たちと同様、英国の歴史神学者 A.E.マクグラスは、《満足説》について次のように説明している。

アンセルムスは、中世の封建制度(社会)をモデルとし、「贖罪の道筋はどこまでも〈正義の原理〉に基(もと)づいたものでなければならない」との彼の信念に基づいて、十字架による贖罪論-《満足説》- を考えた。

 

満足説特徴は〈封建領主〉としての「神」と、これに仕える〈農奴〉としての人類という構図である(A.E.マクグラス著『キリスト教思想史入門 歴史神学概説』キリスト新聞社、2008年、182~184項)。

また、アンセルムスは「十字架上のキリストの死は、人間の罪のために神に支払われる賠償金と解釈できる」と考えた。

満足説》によれば、「農奴が領主への忠誠を怠(おこた)ると、主人である領主は受けるべき誉(ほま)れを失う。その損失は確実に償(つぐな)われて、領主の誉れは回復されなければならない。


同じように、罪人によって損(そこ)なわれた神の誉れは、何らかの仕方で償われ回復されて、神は満足させられねばならない

そして、この償いができるのは罪無きキリストの死だけである。

(浅野淳博著『死と命のメタファ』新教出版社、2022年、16~18項参照)

以上の教理史歴史神学的知見から確認できることは、《満足説》の描く「神」は、アンセルムスの「正義」観念に基(もと)づく「神」であり、また、中世の封建領主をモデルとした残忍かつ冷酷非情な「神」であって、イエスが示す《父なる神》とは異質なものであるということである。

一方、《刑罰代受説》は、この《満足説》の基本構図を継承したものである。

 

したがって、《刑罰代受説》の「神」は、《満足説》のそれと同様、聖書の神とは〈別物〉であり、したがって、これを前提とした十字架理解は誤りである、と考えて間違いないだろう

では刑罰代受説》は、最近、どのように評価されているのだろうか。

刑罰代受説とイエスの代理死への疑義
「贖(あがな)いの思想をめぐる近年の〔聖書学的・神学的〕議論において、伝統的な贖罪論(すなわち刑罰代償説)が、神を怒りに満ちた暴力的存在として描き、人間社会の暴力を肯定〔・助長〕している」との批判が起こっている(鍋谷堯爾ら監修『聖書神学事典』いのちのことば社、2010年、135項より引用。( )、〔 〕内、下線は補足・敷衍)。

つまり、刑罰代償説は、歴史上、苛烈(かれつ)な異端迫害や宗教戦争に関わっただけでなく、現代においても、さまざまな戦争や紛争に深く関わっているのではないか、との批判が起こっているのである。

そればかりか、この教説の根幹をなす〈イエスの代理死という考え方に対しても、最近、次のような指摘がなされている。


原始キリスト教会におけるイエスの死の理解である「〈私たちのため〔の死〕〉は、〈私たちの身代わり〔、代理の死〕という意味ではない
・・・
このような概念を最初期のキリスト共同体は持っていなかった」。

後の刑罰代受説につながる〕〈代理死〉の考え方がキリスト共同体に持ち込まれたのは紀元1世紀の終わりであり、おそらくこの代理死という発想がキリスト共同体に明らかな仕方で定着したのは、2世紀〔の初期教父の時代〕に入ってからのことだろう」(注2)。

(浅野淳博著『新約聖書の時代-アイデンティティーを模索するキリスト共同体-』教文館、2023年、246項、〔 〕内は補足)

以上のように近年、刑罰代受説》そのものと共に、この教説の根幹にあるキリストの〈代理死〉という考え方にも、重大な疑義が提出されているのである。

3.高橋三郎「刑罰代受説の問題点」
⑴ 論考「刑罰代受説の問題点」

2007 年、高橋三郎(1920-2010、無教会第3世代の代表的指導者)は、「刑罰代受説の問題点」という論考を公(おおやけ)にした。

この短い論考において、​高橋はいくつかの重大な指摘を行っている。


以下、高橋の論考から抜粋し、引用する(下線および〔 〕内は、論者による補足・敷衍)。

われわれ罪人の受けるべき神の刑罰を、イエスが身代わりとなり〔十字架上で〕お引き受け下さった、と信じ受ける見方が、「刑罰代受説」として、〔キリスト教史上〕連綿と継承されて来ました。

しかし歴史的事実としては、大祭司を頂点とするサンヘドリンの要人たちが、ローマの官憲や群集までも巻き込み、イエスを十字架の死へと追い詰めて行ったのであって、人間が神の子(つまり神)を裁くという〔人間の〕宗教的倒錯(とうさく)がここに噴出したのであり、十字架という残忍な処刑の仕方の中に、人間の残虐性が、恐ろしいまでに立ち現れています。

しかし「刑罰代受説」では、この重大な二つの問題状況が視野の外に切り捨てられているばかりでなく、あの十字架刑は神のなしたもうた処罰だと見るのですから、神は恐るべき処刑を課す方として恐怖の対象となり、この恐るべき神観と連動して、教会が異端として断罪した人々に課する刑罰も、火刑というような残虐(ざんぎゃく)きわまりないものとなりました。

なおその上、無数に繰り返された宗教戦争に露呈した残虐性の中にも、この問題の余波(よは)を見ることができるのではないでしょうか。
・・・

私自身はあの十字架を仰ぐとき、神の子イエスを死に追い詰めた人々の中に自分自身を見出し、「イエスは私の罪のために死んで下さった」という恩恵の前に頭(こうべ)を垂れ、かくも大きな犠牲を払って罪の赦しと永遠の生命を賜(たまわ)る神の恵みに、溢れる感謝を捧げるばかりです。

・・・

この恐るべき〔人間的宗教性の〕倒錯からの解放を祈り求めつつ、悔い改めへの道を踏みしめ進みたく願うのです」。
(高橋三郎・佐藤全弘・島崎輝久共著『歴史の中枢』証言社、2007年収載「刑罰代受説の問題点」)

​⑵ 高橋が剔抉(てっけつ)した問題

高橋によれば、刑罰代受説の第一の問題点は、歴史的事実として、人間が神の子イエス(神)を十字架に付けたのだ、という〈宗教的倒錯〉の視点が欠落しているということ。


第二は、十字架〉という残忍な処刑の仕方に現れた〈人間の残虐性〉の視点が欠落しているということ。

第三は、恐るべき十字架刑を科す〈恐怖の対象として神描いているということ。

以上が、この論考において高橋が抉(えぐ)り出した「刑罰代受説の問題点」である。

 

刑罰代受説の「正義の神」- 神の加虐性- の問題

ここでわれわれは、特に刑罰代受説で描かれた〈恐るべき神〉-神の加虐性-の問題に注目したい。

前章で確認したように、刑罰代受説は中世の〈封建制度〉をモデルとした《満足説》の構図を継承したものであり、刑罰代受説の「神」もまた、〈加虐性〉(=恐るべき神)を特徴とする。

 

この神は、人間の不誠実(罪)による神の損害を代償させるために、イエスの〈身代わりの死〉(代理死)を要求し、イエスの死に満足する「正義」の神であった。

キリスト教の加虐性〉- 天に代わりて不義を討つ

高橋は、刑罰代受説の「恐るべき神」(神の加虐性)がキリスト教の加虐性と連動、これが残虐な異端迫害に関わると同時に、その後の宗教戦争にも余波として関わった、と指摘する。

天に代わりて、不義を討(う)」(旧・大日本帝国陸軍の軍歌の一節)。

人類救済に当たって、神が厳しく不義(罪)を追及し、これを十字架上で罰したのであれば(=刑罰代受説の教え)、自分たちが神に代わって「不義の勢力」に懲罰(ちょうばつ)を加えることは、神のみ業(わざ)に協力することであり、神に喜ばれることである。

このような理屈のもと、刑罰代受説の不義を罰する「恐るべき神」の思想は、これと不可分な形でキリスト教の〈加虐性〉と連動し、キリスト教を〈好戦的なもの〉に変えたのではないか。

このように見てくると、高橋の論考、特に刑罰代受説における〈神の加虐性〉に関する指摘は、新約学の問題提起を先取りしたものと言えるだろう。

また高橋の指摘は、最近の「キリスト教国」の戦争(イラク戦争、ロシア・ウクライナ戦争、米国によるイラン核施設への攻撃など)を理解する上でも、重要な視点を提供してくれる(注3)。


加えて高橋が自らの〈十字架信仰〉を語ることにより、刑罰代受説克服の道を暗示している点も、注目される。

4平和の福音を取り戻す
​​イエスは人々に《平和の福音》を説き、身をもってこの道に挺身(ていしん)した(十字架の祈りに注目せよ)。


「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。

しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい天におられるあなたがたの父〔なる神〕の子となるためである。

 

父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

 

自分を愛する人を愛したところで、あなたがたにどんな報(むく)いがあろうか。・・・あなたがたが自分のきょうだいだけに挨拶(あいさつ)をしたところで、どれだけ優(すぐ)れたことをしたことになろうか。

 

だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者になりなさい」(マタイ 5:43~48)。

また、イエスはこうも言われた。

(つるぎ)を鞘(さや)に収めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる(マタイ 26:52)と。

これらのイエスの明白な教えがあるにもかかわらず、少数の例外を除き、大多数の歴史的キリスト教会、キリスト教世界は、〈イエスの道〉と正反対の道-戦争に次ぐ戦争の道-を選択した。 

道を誤まらせた、その根底にある思想は何か?

それは実は、キリスト教教義の根幹をなすキリスト教贖罪論ではなかったか。


古代以来の伝統的なキリスト教贖罪論、とりわけ《刑罰代受説》こそが、《平和の福音》を覆(おお)い隠した張本人ではないか・・・。

これまでの検討から、われわれは十分な根拠をもってこう主張することができる。


もし、この見立て(診断)が正しいとすれば、《平和の福音》を取り戻す道は、ひとえに「いかにして、刑罰代受説を乗り越えるか」に依(よ)ると言っても、過言ではない。


本論考は、このような観点に立ち、高橋が描いた線を詳述し、発展させて刑罰代受説を乗り越えようとする試みである。

​​​
この試みが成功するか否
(いな)かは、贖罪論の中心となるイエスの十字架を正解できるかどうか、この一点に懸(か)かっている。

5.内村鑑三「十字架教」

ここでわれわれは、内村鑑三が〈真のキリスト教〉にふさわしい名称として、《十字架教》を提唱したことを思い起こす。

内村は言う。


「キリスト教は元来、〈十字架の宗教〉である。これは単なるキリストの教えではない。十字架に付けられたキリストの教えである。

キリスト教が教えるものは、われわれが〔自らの霊性を高め、〕キリストに倣(なら)って十字架に付けられることではない。

 

救い主〕キリストがわれわれのために十字架に付けられ〔て死に、《復活》してくださっ〕たことである。

十字架は単に、キリスト教のシンボルではない。その中心である。キリスト教の全構造が拠(よ)って立つ、その隅(すみ)の親石おやいし、cornerstone)である。

 

われわれの〕罪は十字架の上で赦され、また消滅させられ、恩恵は十字架の上に成し遂げられた〔キリストの〕功(いさおし)を信受することによって約束され、また付与されるのである。

まことにキリストの〕十字架が無ければ、キリスト教はない


今や〔、その本質が〕キリスト教でない多くのもの〔、すなわち十字架抜きの救済原理に基(もと)づく異なる福音〕が「キリスト教」として通用するこの時に際し、・・・〔それらと真のキリスト教を明確に区別するために、〕われわれは新しい名でキリスト教を呼びたい、との願望を抱(いだ)く。

 

そしてこの願望に応じるために、私は〈十字架教〉という名を提案する。(『聖書之研究』1921年1月「十字架教」を現代語化。〈 〉、( )、〔 〕内は補足・敷衍)

​この文章が示すように、内村がキリスト教の核心をイエス・キリストの十字架に見ていたことは、間違いない。しかも、死命を決する一点として。 


その意味でも、われわれがイエスの《十字架》について探究することの意義は極めて大きい、と言わねばならない。

6.十字架= イエスの生の帰結

⑴ イエスの生涯- インマヌエル
イエスの十字架のできごとは、はるか昔、遠いローマ帝国の辺境・パレスチナで起きた「不幸な一事件」ではない。

福音書を読むとき、イエスの十字架は彼の生涯の必然的帰結であった、またイエスの生きざま・彼の生が極点まで凝縮したもの、それがイエスの十字架であった、と言えるのではないだろうか(注4)。

今日同様、イエス在世当時、彼の回りには多くの貧しき者、悲しむ者たちがいた。また、長き病(やまい)に苦しみ、ユダヤ民族の宗教(ユダヤ教)からも、社会からも、ときには家族からさえも忌(い)み嫌われ、遠ざけられた者たちがいた。

そのような中、イエスは生涯、彼らの傍(かたわ)らに立ち続けた。彼らから始めて、すべての人を神の許(もと)に連れ帰るために。

イエスは、当時の社会規範の根幹であった《ユダヤ律法》の規定(ユダヤ教の諸戒律)をあえて犯してでも彼らに癒(いや)しを与え、また彼らを苦しみから救い出して、《罪の赦し》を宣言した。彼らに《神の子》としての尊厳を回復した(マルコ 2:8b~12a、ヨハネ 5:1~18 参照)。

またイエスは、人々の救済よりも暴利を貪(むさぼ)ることに腐心していたエルサレムの神殿宗教を批判し、これを粛清した(マルコ 11:15~18 参照)。

そればかりか、エルサレム神殿の崩壊さえ予告した(マルコ 11:15~18、13:1~2 、ルカ 21:5 参照)。

インマヌエル(神、われらと共にいます)。

イエス・キリストは、まさにインマヌエルそのものであった。

イエスの降誕から遡(さかのぼ)ること七百年余り、旧約の預言者イザヤは、《インマヌエル》の到来を預言した(前734年頃、イザヤ 7:14、8:8,10)。

 

この《インマヌエル預言》は、イエスの来臨(らいりん)によって、預言者の思いをはるかに凌駕(りょうが)する形で成就(じょうじゅ)した(マタイ 1:23参照)。

福音書によれば、イエスは《インマヌエル》として《神の愛》と《神の義》を体現すると共に、生ける神の言葉ロゴス、λόγος )として独一無二(どくいつむに)の仕方で、神の御心(みこころ)を世に顕(あらわ)た(ヨハネ1:1~5、14~18、注5)。

​⑵ 十字架の道

しかしそのために、かえって彼はユダヤ民族の国体(=聖なるユダヤ律法とエルサレム神殿)の尊厳を破壊する者として、宗教指導者たち(サドカイ派、ファリサイ派、律法学者たち)の怒りを買い、彼らに憎まれ、告発され、命を付け狙(ねら)われたのである(マルコ 14:53~65、ヨハネ 5:1~18 参照)。

イエスは、宗教指導者たちとの摩擦を避けようと思えば、避けられたはずである。

地の民》(アム・ハ・アレツ)と呼ばれた人々との接触はほどほどにして、彼らと距離を置いて「賢く」行動したならば、おそらくイエスは十字架に追い込まれることはなかったであろう。

しかし彼は、そのような方ではなかった。彼は逃げようとはしなかった。イエスは《十字架の道》を進まれた。

彼はどこまでも、悲しむ者、苦しむ者、貧しき者たちと共に、また彼らの傍(かたわ)らにあり続けようとした

こうしてイエスはついに、宗教指導者たち、世の権力者たち、そして民衆によって十字架につけられるに至った(ルカ 13:31~34、注1)。

イエスは死に至るまで、神に、そして人々に仕える生きざま-奉仕の生-を貫(つらぬ)いたのである。

7.十字架の祈り

⑴ 群衆の中に私が- キリストとの同時性

光であるイエスは、世に来た。

 

しかし、「〔世の〕人々はその行いが悪いので、光よりも闇を愛した。・・悪を行う者は皆、光を憎み、その行い〔の正体〕が明るみに出されるのを恐れ」(ヨハネ3:19~20)、総力を挙げて光に襲いかかった。


イエスは十字架に釘(くぎ)付けられた。

・・・しかし彼は死の苦しみの中から、ある祈りの言葉を発した。


それは次のようなものだった。

父よ、彼らを赦したまえ。自分で何をしているのか分からないのですから」と(ルカ 23:34、注6)。

驚くべきことにイエスは、自分を十字架に付ける敵のために、その赦しを祈られたのだ!

イエスの十字架と十字架を囲む群像(ぐんぞう)をジッと見つめるとき、人は思いがけないことに気づかされる(マルコ 15:6~15 参照)。

イエスを十字架につけた群衆の中に自分もいる、自分もまた群衆の一人であることを(S・キルケゴールの「キリストとの同時性」)。

十字架の光〉によって照らされるとき、わが罪は明らかである

イエスを十字架に追いつめた者として、私の内なる罪はゴルゴタの丘で暴(あば)かれ、罪として裁(さば)かれている

神の独(ひと)り子イエス(神)を十字架に付けるという決定的な罪

世にこれほどに大きく、恐ろしい罪があるだろうか(これは、イエスの十字架死という事実をめぐる問題であって、罪意識の深浅(しんせん)の問題ではない)。

事実を前にして、〈痛める良心〉は祈る。

​「私は、自分の背(そむ)きを知っています。〔私の〕罪は絶えず、私の前にあります。あなたに、ただあなたに私は罪を犯しました・・」(詩篇 51:5~6a、〔 〕内は補足)

逃れようのない己(おのれ)の実態 - を突き付けられ、進退ここに窮(きわ)まる。

・・

しかしこの時、何かが聞こえてくる ・・どこから(Woher)?

 

十字架から ・・何が(Was)?

 

細い祈りの声が


イエスが祈っておられる。 ・・何を(Was)?

自分を十字架に付けた敵の赦しを、そして私の赦しを

イエスは、わたしの罪の赦しを求めて父なる神に祈っておられる(注2)。​ 

・・

⑵〈執りなしの祈り〉による罪の赦し

十字架の祈りは、御子イエスの真実と愛からほとばしり出た祈り。命がけの(と)りなしの祈り。 

われわれは、この祈りは神によって確かに聞き届けられた、それゆえこの十字架の祈り(=恩寵)によって、われわれすべての罪はすっかり赦されたと信じることができる(これを「恩寵贖罪」-恵みによる罪の赦し- と呼ぶことにする。ヨハネ 19:30)。


なぜなら、イエスご自身が弟子たちに次のように教えておられるからだ。

求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。〔門を〕(たた)きなさい。そうすれば、開かれる。

誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、〔門を〕叩く者には開かれる。

あなたがたの〔うち〕誰が、パンを欲(ほ)しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚(さかな)を欲しがるのに、蛇(へび)を与えるだろうか。

このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。​

まして、天におられるあなたがたの父〔なる神〕は、〔ご自身に〕求める者に良い物を〔与えて〕くださる 」と(マタイ 7:7~11。( )〔 〕内は補足・敷衍)。

(ひと)り子イエスの切なる祈りが父なる神に聞かれないことなど、あり得るだろうか

父なる神は、イエスの〈執りなしの祈り〉を確かに聞き入れ、これを「義(よ)し」とされた。 

こうして神は、ご自身の《義》を示された。

⑶ イエスの全生涯=神の愛のことば

またこの祈りによって、イエスはすべての人にこう語りかけている。

あなたは私をムチ打ち、ののしり、私を十字架につけるがよい。

だがたとえ、あなたが私に対して何をしようとも、私は決してあなたを愛することをやめない

私はあなたを愛している

御子イエスの心は父なる神の心、イエスの愛は神の愛(ヨハネ 1:18、10:30、17:21a、注7)。

この語りかけこそ、イエスの生涯、ことに彼の十字架を通して神が私たちに示しているものではないだろうか( W・バークレー著『奇跡の人生』ヨルダン社、1976年、87~88項参照)。

今までわれわれは、神を審判者、王、絶対的権力者、律法付与者、正義かつ聖なる方、完全な善であり、罪に対して怒り、処罰を下す方として考えてきた。

しかしイエスが示した父なる神》- アッバ”・お父(とう)ちゃんとしての神- は、それ以上に、失われた者を探し求め、人々の救いのために自ら苦しみ、贖(あがな)い、焦(こ)がれるほどにすべての人を、一人ひとりを愛される方である(イエスの革命的な神観注8。「失われた息子の」のたとえ-ルカ 15:11~24- を見よ)。

究極的に、神は愛である(ヨハネⅠ4:16)。神の力を貫くのは、《神の愛》である。


神の《聖》と《義》すらも、究極的には《神の愛》によって支配され、《神の愛》に包まれる。

⑷ 赦しと和解の絶対他力- 時空の隔たりを超えて

カルバリの丘に立つイエスの十字架。十字架は歴史の中心に立つ十字架の歴史的な客観性注10参照)

そしてイエスの十字架は、時の隔(へだ)たりを超えて、あの祈りを発し続けている。アブラハムにさかのぼる過去から、現在、また未来へと(ヨハネ 8:56~58 、注9)。

父よ、彼らを赦したまえ。自分で何をしているのか分からないのですから・・」と。

この〈十字架の祈り〉こそ、罪の赦しの〈確かな根拠

そして、イエスの救いの御業(みわざ)は、あらゆる人間-万人(ばんにん)-に差し出された〈神の恵み〉であり、あらゆる時代と場所に妥当する(G・ミューラー著、宮田光雄訳『現代人にとってキリスト教信仰とは何か』新地書房、1984年、136~151項参照)。

十字架の祈り〉に表れたイエスの真実と愛(=神が人々に賜った恩寵)- これこそが、救いと和解の絶対他力 たりきである。

8.結び - 十字架と新生

​⑴ 十字架、わが救いのため
イエスは言われた。​
は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っている。羊も私を知っている。

・・

私は羊のために自ら〕命を捨てる
・・・
私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、私の手から奪う者はいない
」(ヨハネ 10:14、15b、28)。

​「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ 13:16)

​これらの言葉どおり、イエスは愛ゆえに十字架の道を歩み抜き、私たちのために自ら命を捨ててくださった

イエスの十字架は、わが救いのため プロ メ pro me 

誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造(つく)られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです」(コリントⅡ 5:17)。

神は私を愛し、救うためにり子イエスを私に与えくださった

そしてイエスは、十字架の上で敵のため、私のために罪の赦しを祈ってくださった(注10 )。

キリストは救い主として、私の《主》となられた

(宮田光雄著『ルターはヒトラーの先駆者だったのか 宗教改革論集』新教出版社、2018年、172項参照)

​⑵ 刑罰代受説の「神」とイエスの

人類救済の全過程の背後にあるのは、驚くべき《神の愛》-イエスの説く神は、アッバ(お父ちゃん)としての愛の神 である(マルコ 8:14、マタイ 6:25~34、ヨハネⅠ 4:16)。

刑罰代受説》が説くような、私たちの身代わりに御子イエスを十字架に張り付けにし、御子に鉄槌(てっつい)を振り下ろすような「残酷な(いか)れる神」ではない。

父なる神、御子イエスを〈スケープゴートにはされない。

⑶ 主の御手は私を離さない- イエスに倣(なら)いて

神の愛とイエスの真実

この愛と真実(=恩寵)によって、私の頑(かたく)なな心は溶かされた。わが罪は拭(ぬぐ)われ、たましいは洗い清められた(恩寵贖罪)。

命をかけたイエスの執りなしによって、《放蕩息子》はついに、父のもとに立ち帰った。父と《和解》した(ルカ 15:11~24 参照)。

私は今までの《古い人間》ではない。

外なるイエスの十字架によって、私は新しい命、《新しい人間》に生まれ変わったのだ(M・ルターの「外なる救い」-救いの客観性・確実性)。

《十字架の祈り》によって、私は日々支えられ、生かされる。イエスの命に満たされる。イエスの命とは、神から与えられるイエスの真実と愛である。

私はもはや、イエスから離れることはできない。

​否(いな)いかなるときもイエスの御手は私を捉えて、離さない(ヨハネ 10:28~30、コリントⅡ 5:14a、詩篇 139:7~10参照 注11)。​

それゆえ私は、感謝をもって十字架のイエスを仰ごう。

そして平和を造る者として、十字架の主イエスの御足(みあし)の跡(あと)従おう(マルコ 8:34)

聖霊(生けるイエスの霊)の導きを求めつつ(ローマ 8:9、ガラテヤ 4:6、ヨハネ 16:13、コリントⅡ 3:17 参照)。

主こそ、わが平和、わがいのち、わが喜び、わがすべて

* * *

私は深き死の〔闇〕夜の中に、倒れ伏していた。
〔だが、〕あなたはわが太陽となってくださった。

Ich lag in tiefster Todesnacht,
du wurdest meine Sonne,

I lay in the deepest night of death
And you became my sun.

この太陽が私のもとに射(さ)し出(い)で、
光と生命
(いのち)と喜びと歓喜をもたらした。
die Sonne, die mir zugebracht
Licht, Leben, Freud und Wonne.

​The sun that brought me
Light, life, joy and delight.

ああ 太陽よ、
信仰の尊き光をわが内に灯
(とも)してくれた者よ。
​O Sonne, die das werte Licht
des Glaubens in mir zugericht,

O sun, who fitted me with the worthy light of faith,

あなたの光輝(かがやき)の何と美(うる)わしいことか! 
wie schön sind deine Strahlen.

How beautiful are your rays!

・・・

されば〔主よ〕、この身をあなたの馬槽(まぶね)となしたまえ。
(き)たりたまえ〔主よ〕、来たりて、わが許に宿(やど)り、
so lass mich doch dein Kripplein sein,
komm, komm und lege bei mir ein

So let ME be your cradle.
Come, come and lodge with me,

あなたのすべての喜びを注ぎたまえ。
dich und all deine Freuden.

You and all your joys!

(J.S. Bach BWV 469  "Ich steh an deiner Krippen hier"の杉山好(よしむ)訳「ここ馬槽のかたえに我は立ちて」を改訳し、抜粋)​​​

*  *

神は、その独り子をお与えなったほどに、世を愛された。御子(みこ)を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

神が御子を世に遣(つか)わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである(ヨハネ 3:16、17)。

♢ ♢ ♢ ♢

(参考文献:馬場嘉市編集責任『新聖書大辞典』キリスト新聞社、1971年、ウイリアム・バークレー著、斎藤正彦訳『使徒信条新解』日本基督教団出版局、1970年、ウイリアム・バークレー著『奇跡の人生』ヨルダン社、1976年

付 記

ページ末尾に英訳があります。

English translation at the end of the page.

この小論はキリスト教の加虐性とそれに深くかかわるキリスト教贖罪論(刑罰代受説等)の問題を見すえ、これを克服しようとする試みである。


論者はイエスの生に注目し(キリスト論的集中)、十字架の祈りに現れたイエスの真実と愛(=神の恩寵 )による罪の赦し(=恩寵贖罪)について述べた。

信仰とは、神・キリストへの〈信頼〉を意味する。単に教義・教説に「納得」し、これを「承認」することではない。


キリスト教信仰は、〈神の恵みの御言葉〉であるキリスト=インマヌエル(神、われらと共に在(い)ます)との〈出会い〉を与えられ、このキリストにおいて神と出会い全面的に〈神に依(よ)り頼む〉ことが許されているということである。


賜物(たまもの)としての自由〉によって、神の語りかけに〈応答〉し、信頼をもって〈従う〉ことである(K・バルト著、宮田光雄・天野有訳『教義学要綱』新教出版社、2020年、24~39項参照)。

​また、〈聖書の真理〉は、単なる〈理念〉や〈原理〉ではない。生きた〈人格的真理〉である。

 

そのことを踏まえた上で、ここでは敢えて、読者の理解に資するため、恩寵贖罪論の定義を試みたい。

恩寵贖罪(Forgiveness of Sin by Grace):
恩寵贖罪とは、「神の恵み(恩寵)によって人間の罪が赦され、神との関係が回復される」という
救済の核心を表す言葉である。

恩寵(Grace):
恩寵とは
神の恵みのことであり、人間は自力では自らを救うことのできない存在であるという事実を前提に、神が無償で与える愛と赦しのこと。

 

人は(おのれ)の「正しい信仰」や行いによってではなく、ただ神の恵み(恩寵)によって救われれる(恩寵義認 おんちょうぎにん)。


ここで恩寵とは、特に十字架(の祈り)に現れたイエスの真実と愛のことである。

 

イエスの愛と真実は、すなわち恩寵(神の恵み)である」と言えるのは、神が世を愛し、世を救うために、御子イエスを世に遣わしてくださったことによって、初めてイエスの愛と真実が世に現れたからである。

贖罪(Atonement):
贖罪とは、イエス・キリストが全
(まった)き愛と真実の生涯を歩み、その結果として十字架上で《執り成しの祈り》をしてくださった、そのことにより、人類の《罪》が赦され、《神との和解》(=神との関係の回復)が成就したということである。

なお「恩寵贖罪」という語は、論者による造語である。

恩寵贖罪は恩寵義認(おんちょうぎにん)の核心部分を成す。恩寵義認論については、信仰と救いのコペルニクス的転回の注13(関連リンク)を参照されたい。

この論考は〈信仰の論理〉の形をとってはいるが、その根底にあるのは論者の信仰告白(神への信頼と感謝と讃美)である。 

注も含め、本文中の引用聖句は、基本的に『聖書 聖書協会共同訳』(2018年)によるが、一部、他の翻訳も用いている。

* * * *

1 イエス、愛ゆえに十字架の道を進む 

以下、ルカ福音書13:31~34より。

ちょうどその時、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。

ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」

 
イエスは言われた。

行って、あの狐(きつね)に、『私は今日も明日も三日目も、〔苦しむ人々から〕悪霊を追い出し、癒(いや)しを行うことをやめない』と伝えよ。 


ともかく、私は今日も明日も、その次の日も進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。 


エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣(つか)わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛(ひな)を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」。

2 わたしたちのための死代理死を意味しない

原始キリスト教会におけるイエスの死の理解-「私たちのため死」(ローマ5:8、マルコ10:45)に関して、英国の新約聖書学者 W・バークレー(1907-1978は、次の様に述べている。

​「イエスはわれわれの身代わりに(instead of)〔、つまりわれわれの代理として処罰され、〕苦しみを受けて死なれたのではない

そうではなく、イエスはわれわれ〔へ〕の〔愛ゆえに、われわれを罪の悲惨から救い出し、神との失われた関係を回復する〕ために自ら苦しみを受けて死なれたのである。・・・

新約聖書自体に目を通すとき、われわれはイエスの死が、われわれの代理としての死であったという証拠がほとんど無いことを見出す」。

われわれが新約聖書の証言を検討するとき、われわれは事実上、「怒れる神」についての証言や、神がわれわれの代わりにイエスを処罰されたという証言は存在しないことを見出す

もし神が、その犯された正義〔に対する義憤ぎふん〕を満足させるために、われわれの代わりにイエスを処罰されたのだとすれば、神はこの世においてただ一人しかいない全く罪の無い方を処罰されたことになり、〔神は〕この上ない不正行為によって、〔ご自身の〕正義を満たしということになる。この許容しがたい矛盾は一体、どうなるのか」。

「初期のキリスト教思想家〔、つまり紀元2世紀の初期教父〕たちは、・・〔イエスの死を、罪の赦しのために献げられる「人間の身代わりとしての犠牲」と受けとめた。

 

それは、彼らが〕イエス・キリストについての経験を自分たちの知っている事柄〔、すなわち旧約の神殿犠牲の考え方〕によってしか説明できなかった、という事実から来ている

イエス〔という方〕の本質は、彼が〔人間に対する〕神〔の態度〕を変えたとか、〈怒りの神〉を〈愛と赦しの神〉に変えたと〔か〕いうこと〔にあるの〕ではなく、彼が人々に対して、神はいかなる方であるか〔、その絶大な愛〕を示すために、〔生き、そして〕死なれたということである。

・・・

イエスを見ることによって、われわれの心が動かされて、まず彼がわれわれを愛してくださったように〔われわれもまた、驚きと感謝の念をもって〕イエスを愛さざるを得なくされる、ということである」。

​(W・バークレー著『使徒信条新解』日本基督教団出版局、197年、第19章「罪の赦しを信ず」422~428項。( )、〔 〕内は補足・敷衍)​​

W・バークレーと浅野淳博氏、世代の異なる二人の新約聖書学者の見解は、ほぼ一致している。

3  キリスト教の加虐性と戦争

キリスト教会(教界)が戦争に深く関わった事例は、歴史上、枚挙にいとまがない

われわれに近いところでは、2003年3月、当時の米国大統領ブッシュは、「イラク国内に大量破壊兵器が隠されている」と難癖(なんくせ)を付け、イラクに大規模な攻撃を仕掛けた(イラク戦争)。

このとき、ブッシュは米軍を「現代の十字軍」と呼んだ。

また、2025年6月21日夜、トランプ大統領はイランの原子力施設を空爆した。

この攻撃に関し、トランプ大統領はホワイトハウスの会見で、広島、長崎への原爆投下になぞらえてイラン原子力施設の空爆を正当化すると共に、「重大な使命を果たす米軍に、神の守りと導きがあるように」と祈り求めた。

またトランプ大統領は、「対テロ」の名目のもとガザ地区で民族浄化(ジェノサイド)的戦争犯罪に手を染めるイスラエルに武器を供給してこれを支援し、さらに、ガザ地区の住民を他国に移住させて、ガザを米国の統治下に置くことさえ提案している(これは民族自治・民族自決の否定である)。​
 

もともと、トランプ大統領は、米国におけるキリスト教の「再興」を誓っていた人である。

二人の米国大統領の発言の背後には、今や一大政治勢力となった米国〈福音派〉教会(プロテスタント)の存在がある。

米国福音派教会は、共和党の強力な支持母体として、大統領選のゆくえをも左右する。

また今もウクライナ侵略戦争を続けるロシアは、ロシア正教の国である。事情は異なるにせよ、ロシアでも、政治と宗教の間で同様の問題を抱(かか)えていると思われる。

過ぐる太平洋戦争(1941年12月~1945年8月)中の〈日本基督教団合同問題〉を抱(かか)える日本も、決してその例外ではない。 

戦前の日本は、第二次世界大戦下における戦争推進のため「宗教団体法」を定めた。


この法律に基づき、1941(昭和16)年にプロテスタント諸派教会が合同してできたのが、宗教報国団体としての「日本基督教団」である。

合同の翌年、1942(昭和17)年に、教団統理・富田満は伊勢神宮に参拝して教団結成を天照大神(あまてらすおおみかみ)に報告した(このようなことは、全キリスト教史でも前代未聞)。

そして教団は「日本基督教団戦時布教使信」を定めて、日本の中国・東南アジアへの侵略戦争に追随し、占領地域への布教活動を行った

 

また、文書「靖国(やすくに)の英霊」(1944年発行)によって靖国の「英霊の血」と《キリストの血》(ヘブライ9:14)を結びつけるなどして、侵略戦争を美化・神聖化した。

同教団に属する諸教会は、教会堂に《神棚》を設け、礼拝前に《宮城遙拝(ようはい)》を行って、現人神(あらひとがみ)天皇への忠誠を誓った(偶像崇拝)。

さらに広く献金を募って、皇軍(こうぐん)に軍用機を奉納するなどした。

19444月の復活節、教団は、教団統理の名で「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書簡」を発表し、これを中国、朝鮮、台湾など各地に送った。

この書簡は、「太平洋戦争」を日本の《聖戦》と規定し、日本占領下にあるキリスト者たちを、神の名によって対米戦争に協力させようとしたものである。

また、書簡は次のような勧告を行った。


万世一系の天皇統治(日本の国体)に基礎付けられる《大東亜共栄圏》の建設はさながら《神の国》を地上に出現させることである。そして日本基督教団は、大東亜共栄圏的キリスト教の盟主である。

それゆえ占領下にあるキリスト者たちは日本基督教団に統合されよ、と。

この書簡は、同教団の懸賞募集に応募された原稿75編の中から審査選考されたもので、その審査報告を行ったのは、日本の代表的な神学者であった熊野義孝氏(1899~1981、元東京神学大学名誉教授)であった。

 

教団は、神学者熊野の名前によって反キリストの書簡を権威付けたのである(武田武長著『世のために存在する教会』新教出版社、1995年、16~23項参照)。

こうした中で内村鑑三の弟子であった矢内原(やないはら)忠雄(1893-1961)がキリスト教信仰の立場から日本の満州政策、中国侵略を批判して東大教授の職を逐(お)われ、その後も〔当局の〕弾圧にも屈せず〔、平和の福音の〕伝道を続けたことは記憶されるべきであろう」(小田垣雅也著『キリスト教の歴史』講談社学術文庫、1995年、250項より引用、( )、〔 〕内は補足)。

なぜキリスト教会(教界)は​しばしば、イエス・キリストの明白な教え-平和の福音-に反して戦争政策の協力者、またその先兵となるのか。

キリスト教会(教界)と国家の癒着と相互依存の問題。


これは、紀元392年にローマ帝国の《国教》となって以来、今日に至るまでキリスト教会(教界)がかかえる大きな問題である。

今やキリスト教会(教界)は支配と迫害に耐え、抵抗する側から、一転して、支配し迫害する側に回った

この問題において、刑罰代受説はキリスト教会と国家をつなぐの紐帯(ちゅうたい)として、重要な役割を果たしてきたと考えられる。

​教会と国家をつなぐ紐帯としてのキリスト教の教え、特に刑罰代受説の教理は、教会と国家に対し、「われわれには、不義なる者たちに神の厳しい審判(神の刑罰)を下し、正義を確立する使命がある」という共通の大義名分を与えたのではないだろうか(この大義名文の根底にあるのは実は、勢力拡大の野望であり、人間の〈貪欲〉である)。

こうして加虐性〉を内包したキリスト教は、国家の帝国主義的な拡張政策に宗教的な「お墨付き」を与えると共に、侵略への協力にのめり込んでいった(列強による世界の分割・植民地化と、これと連動したキリスト教の「布教」)。

以上のように、刑罰代受説とキリスト教の〈加虐性〉の問題は、キリスト教界(教会)にとっても、世界にとっても極めて今日的な問題である、といわねばならない。

十字架=イエスの生の帰結

この論考の脱稿直後、論者は浅野淳博(あつひろ)氏の著作『新約聖書の時代-アイデンティティーを模索するキリスト共同体-』において、「イエスの死を〔イエスの〕徹底した奉仕の象徴」とする言葉に出会った。

 

イエスの死=徹底した奉仕の生き様の象徴」とする浅野氏の新約学研究に基(もと)づく所見と、恩寵贖罪論における「十字架=イエスの生の帰結」とする受けとめがほぼ一致していることは、興味深い(浅野淳氏は新約聖書学者、関西学院大学教授)。​

なお拙論の改訂にあたり、浅野氏の文章を本文中に引用した。

 神の言ことば、ロゴス)=イエス・キリスト

このことを証(あか)しするヨハネ福音書1章の聖句(ロゴス・キリスト論)と『バルメン宣言』第一テーゼを紹介する。


「始めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言葉は神であった。この言は、始めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。
・・・
言葉(ロゴス)肉〔なる人〕となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
・・・
私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

 

いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐(ふところ)にいる独り子である神(=イエス・キリスト)、この方〔だけ〕が神を示されたのである(ヨハネ 1:1~2、14~16、18、( )、〔 〕内、下線は補足・敷衍)。

『バルメン宣言』第一テーゼ

たしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ 14:6)

よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前に来た人は、みな盗人(ぬすびと)であり、強盗である。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる(ヨハネ 10:7~9)。

 

聖書においてわれわれに証(あか)しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。


教会(エクレシア)その宣教の源(みなもと)として、神のこの唯一の御言葉(=イエス・キリスト)のほかに、またそれと並んでさらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退(しりぞ)ける。

(宮田光雄著『バルメン宣言の政治学』新教出版社、2014年、48~49項より抜粋。( )内、下線は補足)

なおバルメン宣言』は、ヒトラー政権による教会弾圧と戦うためにカール・バルトによって起草され、1934年5月、《自由な告白教会会議》にて成立した。

6  十字架の祈りは本当にイエスの言葉か-ルカ 23:34a の写本問題

多くの日本語訳聖書(『新共同訳』1987年、『新改訳2017』、『聖書協会共同訳』2018年、『岩波訳 改訂新版』2023年等)は、ルカ 23:34a の十字架の祈りを〔 〕内に入れている。


その理由は、この箇所(ルカ 23:34a)がいくつかの有力な写本で欠損しており、翻訳の底本である「ギリシア語新約聖書」の解釈では、「この箇所は元来のルカの原本では欠けていた」と見なしているためである。


するとこの十字架の祈りの言葉は、イエスの真正の言葉ではなく、「後代の加筆」ということになるのだろうか。


これは、極めて重要な問題である。

なぜなら、恩寵贖罪論の全重心は決定的に、十字架の祈り(ルカ 23:34a)の上に置かれているからである。

 

換言すれば、「23:34a の十字架の祈りのことばがなければ、恩寵贖罪論の根拠はなくなる」とも考えられるからである。


​ルカ 23:34a の真正性問題を解明するには、詳細な検討作業が必要であるが、ここでは、その要点のみを述べる。


まず、結論。

この祈り(ルカ 23:34a)は〔、イエスの真正の言葉である。〕「一部の伝承(=底本)で〔は、この祈りが〕欠けているが、おそらくそこでは〔、もともとあったイエスの言葉が〕削除されたのだと思われる」(L.ロスト / ライケ編、日本語版荒井献・石田友雄ら編集『旧約新約 聖書大事典』教文館、1989年、581項より抜粋。( )、〔 〕は補足)。


意外なことに、上記の聖書大事典以外にも、多くの学問的聖書注解書が同様の結論を共有している(『NTD新約聖書註解』1976年、『ハーパー聖書注解』1996年、『NIB新約聖書注解』2002年等)。


一例として、『NIB新約聖書注解』の見解の要点を以下に紹介したい。


ルカ福音書において、〕イエスが十字架に付けられた〔場面を描く〕前節〔ルカ 23:33〕の報告に続けて読むと、ルカ 23:34a〔のことば〕は文脈にぴったりと合う。


イエスの祈りは、〔処刑を行った兵士だけでなく〕彼の死に関与したすべての人々の赦しを〔神に〕求めたものとして理解されるべきである。


この祈り〔の言葉〕は、ルカによるイエスの性格描写およびルカの〔ギリシア語〕文体とよく一致している。


イエスの〔十字架上の〕祈りは、〔敵の赦しを求める〕祈りの手本である《赦しの嘆願》に通じる(ルカ 11:4)。

 

イエスが〔十字架刑で〕自分を殺そうとする者たちのために〔その赦しを〕祈りながら・・死を遂げた。

このモチーフは、キリスト教の最初の殉教者となったステファノの殉教死〔における祈り〕において繰り返される(使徒 7:60)。


これは後代の筆写者がルカの文体とテーマをまねて、〔ステファノの祈りを手本として、ルカ福音書に〕イエスの祈りを構成した〔、つまり加筆した〕、ということではあるまい


しかし、上記①~④の見解が正しいとすると、ここで、新たな疑問が生まれる。

なぜ、もともと本文の一部であった23:34aが、古い写本で省略・削除されてしまったのか。


この問いに対しNIBは、以下⑤~⑦のいずれかの可能性を指摘している。


当時、キリスト教徒とユダヤ教徒の間の緊張〔すなわち、ユダヤ教徒によるキリスト教徒への迫害〕が高まっていた。

 

そのため、キリスト教徒の筆写者は〔、キリスト教存続の危機を乗り越えるためには、イエスの祈りは非常に不利に働くと考えて、〕ユダヤ人指導者たちの赦しを求めるイエスの祈りを削除した。


第二次ユダヤ戦争による〕エルサレム滅亡後、筆写者は、〔ユダヤ教徒たちの赦し=存続を求める〕イエスの祈りが答えられなかったと思わせないために、この祈りを削除した。 


筆写者は、(〔イエスを十字架に付けた者たちが〕自分が何をしているのか知らないという)この祈りの前提が、〔どうしても〕道徳的に許容できないと考えた。 


以上を綜合し、NIBは以下のように結論する。


この祈り(ルカ 23:34a)は、ルカ福音書の文体、ルカにおける赦しの強調、およびルカによるキリスト教殉教者のモデルとしてのイエスの死の描写と調和する〔。

 

したがって、この祈りのことば(ルカ 23:34a)はイエスの真正のことばであるとするのが、適切である〕。

また、後代の筆写者たちがこの祈りをなぜ省略したかという点については、以上の〔⑤~⑦のいずれかの〕理由を挙げることができる」(『NIB新約聖書注解』603~606項参照。( )、〔 〕内は補足・敷衍)。


しかし仮に、イエスがこの祈りの言葉(ルカ 23:34a)を口にすることなく亡くなられたとしても、実は、これに全く左右されずに、恩寵贖罪論(イエスの愛と真実=神の恩寵による、罪の赦し)は成立する。


なぜか。

答えは極めて単純(シンプル)である。

 

その場合でも、イエスの十字架自体が無言で〈十字架の祈り〉(ルカ 23:34a)を発しているからである。

 

イエスの生涯(生きざまと教え)の帰結である十字架は、〈十字架の祈り〉の精神(=愛敵)とピタリと一致しているからである。

イエスの心は神の心

このことに関し、イエスご自身の証言が聖書にある。

(イエス)父〔なる神〕は一つである」(ヨハネ10:30)。

イエスは言われた。

フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。わたしを見た者は父〔なる神〕を見たのだ。

 

なぜ、『私たちに御父をお示しください』というのか。

 

私が父の内におり、父が私の内におられることを信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、父が私の内におり、その業を行っておられるのである。・・」ヨハネ 14:9、10)。

イエスの革命的神観〉- “ アッバ  父よ 

〔ドイツの新約聖書学者〕J・エレミアス(1900-1979年)が指摘したように、人類の長い思想史の中で、神をこのように〔「アッバ 父」と〕捉えた人は〔イエスの外、〕誰一人いない。


〔 私たちは神を見てしまったから、必ず死ぬことになる」(士師記 13:22 )、
ああ災いだ、私は唇の汚
(けが)れた者・・しかも、私は・・万軍の主を見てしまった(イザヤ 5:5 )。〕


このように、神に近づくことが〔人の〕死を意味するような神と、慈愛に満ちた父親が幼い子どもに対するように、私たち〔人間〕を愛する〔イエスの〕神との間には、なんと大きな違いがあることだろう。・・・


私はイエスを信じる。

なぜなら、イエスを通してのみ、友また父としての神を知るからであり、私は父親のかたわらにいる幼児のように、何の恐れもなく神の前でくつろぐことができるからである
(W・バークレー著『奇跡の人生』ヨルダン社、1976年、91~94項より引用。〔 〕内は補足)

​注9  福音的信仰の特質- 神の恵みの客観性
宮田光雄氏(東北大学名誉教授)は、宗教改革者ルターの信仰概念に関するK・バルトの注釈を引用しつつ、福音的信仰の特質について述べている。

​「ルターは、とりわけ信仰が、その根拠と真理、さらにその基準を人間的な行為と経験それ自身の中に持っているのではなく、- 信仰は〔むろん〕人間的な行為であり、経験であるのだが- 自分自身の彼岸において、その対象の中に、すなわち、キリストあるいは神の言葉の中にもつものである、と語っている」(K・バルト著『教会教義学』第Ⅰ巻第1分冊)。


これに対し、宮田氏は次のように述べている。


信仰の出来事を神の言葉と人間の体験との『循環関係』や『相関関係』として特徴付けるのは、ルターが語ろうとした事柄を正確に表現するものではない、とバルトは断定している」、

 

ルターの信仰理解を彼の人格的内面における苦闘の体験から引き出そうとすることにたいして、バルトは、きわめて警戒的だった

 

信仰者個人の体験や霊性、確信が信仰の根拠や真理、基準となるのではなく、〕聖書の言葉に示された神の恵みの客観性こそ〔が〕、福音的信仰の特質をなすものにほかならないからである」(宮田光雄著『ルターはヒトラーの先駆者だったのか 宗教改革論集』新教出版社、2018年、174項参照)。​​

神の恵みは、キリストの《十字架》と《復活》という出来事として、人類の前に顕(あらわ)された。

 

このキリストの出来事-神の恵み-を〈客観的に〉証言するものが聖書である。

10 アブラハムはイエスの救いを仰ぎ見た

イエスは〔、ユダヤ人たちに対して〕お答えになった。 

「・・・

あなたがたの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。

・・・

よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から『私はある』

 

すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げて、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

(ヨハネ8:56~59)

11 主の御手は私を捉えて離さない

「どこに行けば、〔私は〕あなたの霊から離れられよう〔か〕。
どこに(のが)れれば、〔あなたの〕御(みかお)を避けられよう〔か〕。


たとえ、〕天〔の高み〕に登ろうとも、あなたはそこにおられ、
陰府〔の深淵〕に身を横たえようとも、あなたはそこにおられます。


(あかつき)を駆(か)って〔、はるか〕海のかなたに住もうとも、そこでも、あなたの〔御〕手は私を導き、右の御〕手は私を離さない(詩編 139編7~10節、〔 〕内は補足)。

Postscripts

A summary of the essay

This essay is an attempt to look at the sadistic nature of Christianity and the problems of Christian atonement theory (such as the theory of substitutionary punishment) that are deeply related to it, and to overcome them.

The author focuses on the life of Jesus (Christological concentration) and discusses the Forgiveness of Sin (= Grace Atonement) through Jesus' truth and love (= God's grace) as revealed in the Prayer of the Cross.

Faith means trust in God and Christ, not simply being convinced of or accepting doctrines and teachings.

Christian faith means that we are given an encounter with Christ Immanuel (God with us), the Word of God's grace, and that in this Christ we are allowed to encounter God and to rely completely on God.

It is to respond to God's words through ``freedom as a gift'' and to ``obey'' God with trust (see ``Outlines of Dogmatics'' by K. Barth, translated by Miyata Mitsuo and Amano Yu, Shinkyo Publishing, 2020, pages 24-39).

Furthermore, the truth of the Bible is not merely an idea or a principle. It is a living, personal truth.

With this in mind, I would like to attempt to define the doctrine of grace atonement here to aid readers' understanding.

Forgiveness of Sin by Grace
Grace atonement is a term that expresses the core of salvation: "Through God's grace, human Sin is forgiven and the relationship between humans and God is restored."

Grace
Grace refers to God's grace, the love and forgiveness that God gives freely, based on the fact that humans are unable to save themselves by their own efforts.

People are saved solely by God's grace, not by their own "right faith" or actions(Justification by Grace).

Grace here refers to the truth and love of Jesus, especially as manifested in the Prayer of the Cross.

We can say that "the love and truth of Jesus is grace (God's grace)" because God loved the world and sent His Son, Jesus, into the world to save it, and thus Jesus' love and truth were revealed to the world for the first time.

Atonement
Atonement means that Jesus Christ lived a life of perfect love and truth, and as a result offered the ``intercessory prayer'' on the cross, which resulted in the forgiveness of mankind's ``Sin'' and the ``reconciliation with God'' (i.e., the restoration of a relationship with God) being achieved.

The term "grace atonement" was coined by the author.

Grace atonement forms the core of justification by grace.
For more information on the theory of justification by grace, please see notes 1-3 in [The Copernican Revolution in Faith and Salvation] (related links).

Although this essay takes the form of a "logic of faith," at its core is the author's confession of faith (trust in, gratitude to, and praise for God).

022-

© 信州聖書集会 All rights reserved.

bottom of page