― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
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最終更新日:2024年5月2日
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< 神学研究(神学・論文&教義学)
神学・論文 019
2024年5月3日改訂
原著:内村 鑑三
現代語化:さかまき・たかお
The Copernican turn of Faith and Salvation
〔信仰と救いのコペルニクス的転回〕
-既成の救い、結果としての信仰-
Existing salvation, faith as a result
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讃美歌 461番「主われを愛す」
☆Mori Yuri〖主われを愛す / "Jesus Loves Me" 〗色々な国の言葉で
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「わたしのもとに来たれ」
トールヴァルセン作
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「人が〔神の前に〕義とされる(注)のは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。
これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって〔神の前に〕義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。」
(ガラテヤ信徒への手紙 2:16 聖書協会共同訳、2018年。〔 〕内は補足。注1)
注:「人が〔神の前に〕義とされる」とは、「人が神の救いにあずかる」ことを意味する。
* * *
The Copernican turn of Faith and Salvation
〔信仰と救いのコペルニクス的転回〕
キリスト信徒とはもちろん、キリストを信じる者〔のこと〕である。
しかし彼は実に、自ら信じて信徒となったのではなく、神に〔よって〕信じるようにされて信徒となったのである。
彼の信仰は救いの結果〔として与えられたもの〕であって、 信仰が救いの原因〔なの〕ではない〔。つまり、まず神による救いがあり、そこから信仰が始まるのである〕。
「あなた方が信じるのは、神の大いなる力の働きによるのである」とは、聖書が熱誠を込めて宣(の)べ伝えるところであって、われらは「信仰によって救われる」とはいうものの(注2)、その信仰そのものが神の特別の賜物(たまもの)であることを、われらは決して忘れてはならない。
♢ ♢ ♢ ♢
(出典:内村鑑三『一日一生』(教文館、1960年)6月27日。読みやすくするため一部表現を改変。ルビおよび( )、〔 〕内、下線は補足)
注1 前田護郎訳 ガラテア書 2:16 Translated by Goro Maeda Galatians 2:16
聖書協会共同訳(2018年)がガラテヤ信徒への手紙 2:16の「イエス・キリストの真実によって義としていただく」と訳した部分を、前田護郎(新約聖書学者。塚本虎二門下、元東京大学教授、1915~1980)も同様に、「キリスト・イエスのまことによって義とされる」と訳している。
前田訳は以下の通り。
「人が義とされるのは律法の行いによるのでなく、ただキリスト・イエスのまことによると知って、われらもキリスト・イエスを信じました。
それは、律法の行いによらずに、キリストのまことによって義とされるためです。律法の行いによっては何びとも義とされないからです。」(前田護郎訳『新約聖書』中央公論社、1983年の「ガラテヤ信徒への手紙 2:16」)
注2 「信じれば、救われる」からの解放 Freedom from “Believe and you will be saved”
①信仰による義認(ぎにん) Justification by Faith
内村鑑三が文中で取り上げた「信仰によって救われる」とは、「信仰による義認(信仰義認)」の教えのことである。
《信仰義認》は《聖書のみ》と共に、プロテスタントの《宗教改革原理》の一つであり、今日に至るまで、全プロテスタント教会の中心教義とされてきた。
信仰義認論は、慣用句的に「人は信仰によって、救われる(義と認められる)」、また端的に《信仰のみ(sola fide)》と表現される。
②コペルニクス的転回(180度の転回)Copernican turn
確かに信仰義認論はプロテスタントの中心教義である。しかし歴史上、この信仰義認論は、しばしば誤解を招き、深刻な副作用と弊害(へいがい)を生んできた。
この副作用と弊害に対し、内村は警鐘(けいしょう)を鳴らすと共に、その解決の道を示そうとしたのではないか。
「信仰が救いに先行するのではなく、救いこそが信仰に先行するのだ。君は、このことをしかと肝(きも)に銘じよ」との彼の言説は、これまでの信仰者の常識を覆(くつがえ)すものであり、まさに「信仰と救いのコペルニクス的転回」と言うべきである。
この転回は、「君に正しい信仰があれば(原因)、君は救われる(結果)」(信仰義認の誤解)から、「神の恵みによって、すでに君は救われている(原因)。その結果、信仰が君に与えられる」への根本的転換である。
③信仰義認論のルター的文脈 Lutheran context of faith justification
信仰義認論には、当然、ルター的文脈がある。
1517年10月31日、ドイツ中部、ザクセン地方の町ヴィッテンベルクにある城教会の門扉(もんぴ)に、一枚の紙片が貼り出された。
それは後に、《95ヵ条》と呼ばれることになった。
この《95ヵ条》によって、《宗教改革》の火蓋(ひぶた)が切られた。
《95ヵ条》は、正確には、「贖宥(しょくゆう)の効力を明らかにするための討論提題」というものである。当時、設立間もないヴィッテンベルク大学で聖書を教えていたM.ルターが、《免罪符(めんざいふ)》販売をめぐる神学討論会を呼びかけたものだった。
これは、一地方大学での討論会の呼びかけにすぎなかったが、当時、ドイツの印刷職人グーテンベルクによって発明されて間もない活字印刷技術のおかげもあり、わずか2週間ほどで全ドイツのみならず全ヨーロッパに拡がり、世界の歴史を大きく塗り替えることになった。
《免罪》とは、罪の免除のことで、特に死後、煉獄(れんごく、天国と地獄の間にあるとされる場所)で受ける罰の免除のことである。免罪符(贖宥状 しょくゆうじょう)は、その免罪の証書であった。
免罪符を購入すると昔の聖者の《功績》(プールされた《教会の宝》)の一部が購入者のものとなり、煉獄での苦しみから逃(のが)れることができるとされていた。
民衆はこぞって、自分の死後のため、あるいは今、煉獄で苦しんでいるかも知れない亡き父母のために免罪符を購入した。
しかし、免罪符の背後には巨大な経済利権が絡(から)んでいた。
免罪符は、聖ペテロ(サン=ピエトロ)大聖堂の新築費捻出などのためカトリック教会(教皇レオ10世)が発行を許可したもので、免罪符の購入は善行の「寄進(きしん)」にあたると宣伝し、販売されたのである。
ルターは、この免罪符のシステムに疑問を抱いた。
免罪符にそんな力があるのだろうか。ましてや人間の罪の赦しの問題は、このような免罪符を金銭で購入したかどうかでなく、その人が真摯(しんし)な心で神に赦しを願うかどうか、という心の問題であるはずだ、と彼は考えたのである。
ルターは、カトリック教会の問題として、いわゆる《行為義認》(人が救われるのは神の恵みのみならず、その人の善行が必要であるという教え)を見出した。
彼は《信仰義認論》によって、この《行為義認》と闘った。これが宗教改革の核心である。
そしてルターの宗教改革は、教皇制度や教会組織の在り方あるいは礼拝の方法など、教会の制度や組織の改革へと展開すると共に、人々の信仰や思想の革命、つまり《魂の革命》を通して、《近代》への扉を開いたのだった(以上、江口再起著『ルターと宗教改革500年』NHK出版 参照)。
④信仰義認論の論拠 Reasons for faith justification theory
もちろん信仰義認の教えは、ルターの独創ではない。ルターが聖書、特にパウロから学び、「ここにキリスト教信仰の核心がある」と強調した教えである。
信仰義認論の論拠の一つは、使徒パウロの「ガラテヤ信徒への手紙」(2:16)であり、従来、以下のように翻訳されてきた。
「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。
これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。
なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」(ガラテヤ信徒への手紙 2:16 新共同訳、1987年)
信仰義認の核心部分は、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる(=救われる)」である。
⑤「キリストへの信仰」から「キリストの真実(まこと)」へ From “faith in Christ” to “truth of Christ”
従来「キリストへの信仰」と訳されてきた部分は、ギリシア語原文では「キリストのピスティス(πιστεως ’Ιησου Χριστου)」となっている。
「ピスティス(πιστις)」は、これまで「信仰」と訳されてきたギリシア語であるが、「真実」、「誠実さ」とも十分、訳しうる言葉である。
この語は、本来、人と人、あるいは人と神との関係性を築き、維持するのに不可欠な要素、つまり信頼性を指し、信頼性を態度で示す「信仰・信頼」、あるいは信頼性の根拠となる「真実・誠実さ」の両方の意味を持っている(浅野淳博ら著『ここが変わった!「聖書協会共同訳」』102項)。
そして、原文をそのまま訳せば(「の」を主格的属格ととる)、「キリストへの信仰」ではなく、「キリストのまこと(誠実=真実)」となる。
私たちが義とされる(=救われる)のは、私たちがキリストを信じるからなのか(旧訳)、それともキリストが十字架で真実(=神への誠実さ)を身をもって示してくださったからなのか(新訳)。
「キリストのまこと(真実)」と訳した場合、ガラテヤ 2章16節は、十字架に象徴されるイエス・キリストの在り方-十字架に至るまで神への真実(誠実)を尽くして人に仕えた、その生きざま(フィリピ 2:7~8参照)-が人を神との和解へと向けるという意味になる(ローマ 5:10参照)。
このような理解を踏まえ、聖書協会共同訳では、従来「キリストへの信仰によって」と訳されて来たものを「キリストの真実によって」と訳したと考えられる(前田護郎訳の発表から聖書協会共同訳にいたるまで、35年の歳月を要している)。
旧訳から新訳への変化は、キリスト教信仰の在り方を根本的に転換しうる画期的なものであることを忘れてはならない。
⑥信仰義認論の副作用-自力としての「信仰」Side effects of faith justification theory: “faith” as self-reliance
では、内村が危惧(きぐ)した信仰義認論に伴う副作用、弊害とは何か。
ルター神学の核心は《恵みの神》を発見したこと、と言われる。
神は《恵みの神》であって、神の恵みこそが、人の救いをもたらす。人間の信仰が救いをもたらすわけではない。
つまり、人間の善行や努力、信仰心や自力によって人が救われるのではなく、「ただ神の恵み(恩寵)のみ」(sola gratia)によって、人は義と認められ、救われる。すなわち、《恩寵(おんちょう)義認》である。
このことへの開眼が、ルターの《宗教改革的転回》と言われていることの内実である。
しかし《信仰義認》という言葉が、「人は信仰のみによって義とされ、救われる」、さらには「信仰のみ」と慣用句的に使われているうちに、微妙な、しかし重大な誤解が生まれた。
つまり、人が義とされる(=救われる)のは、その人の信仰のある・なしや、信仰の熱意の強さ・大きさ、立派な信仰的行為(信仰の英雄的行為)の量、果ては洗礼を受けているかどうか、聖餐式(聖体拝領)に参与しているかどうか。
これらが人の救いを決するという誤解。
また、その人が神の存在を認め、神の守りと支えに対して強い信念を持っているかどうか。
これが救いを決するという誤解。
総じて、その人の「信仰」が救済の決め手になるかのごとく誤解されるに至ったのである。
しかしこれでは、その人が救われるかどうかは、結局のところ、その人の信仰「力」によることになり、それは「自力」によるのであって、とどのつまり、行為義認(=業績主義・律法主義)と同じことである。
またここから、「自分の信仰はこれで大丈夫(だいじょうぶ)か、救われるのに十分か」との果てしない自己反省と自己凝視また信仰の動揺が始まる。
さらに「自分の信仰は他の人に劣ってはいないか、それとも優(まさ)っているか」と他者との比較が始まる。
この自己反省・自己凝視と優劣比較(信仰義認論の副作用・弊害)は、キリスト者一人ひとりを追い詰めるばかりか、キリスト者共同体をも深く蝕(むしば)む(関連リンク:三谷隆正「現代教会の最大欠陥」参照)。
⑦神の恵みによる救い、結果としての信仰 Salvation by God's grace, resulting in faith
しかし信じる力であれ、信仰による善行であれ、人間の側の力(自力)によって人は救われない。
人は絶対他力としての《神の恵み》によってのみ(sola gratia)、救われる。また、その救いを受容する信仰さえも、神によって与えられる。
ここから神・キリストへの信頼(=信仰)に生きる、新しい生が始まる。
⑧結語:既成の救いに感謝しつつ生きる Conclusion: Live with gratitude for the existing salvation
神の恵み、すなわち《十字架の真実》によって、君はありのままですでに救われている。
そして、そのことを信じる信仰さえも、神は与えてくださるのだ。
それゆえ、絶え間ない自己反省・自己凝視も他者との比較も、無用。君はただ感謝をもって神を、キリストを見上げて生きれば、それでよい。
現代のわれわれに対し、内村はそのように語っているのではないだろうか。
〖イエスの招き〗
労苦する者、重荷を負う者はすべて、わたしのもとに来たれ。わたしは君たちを休ませてあげよう。
(マタイ福音書 11:28 杉山好訳)
(注2の参考文献:江口再起著『歴史再発見 ルターと宗教改革500年』NHK出版、2017年。江口再起著『ルターの脱構築』リトン、2018年、三章「恩寵義認」信仰論。47~67項。浅野淳博ら『ここが変わった!「聖書協会共同訳」』日本キリスト教団出版局、2021年、103~105項。織田昭編『新約聖書 ギリシア語小辞典』教文館、2002年、467項。日本語版監修・荒井献、H・Jマルクス『ギリシア語新約聖書釈義事典 Ⅲ』教文館、1993年、123項)。
注3 原文 Original text
「キリスト信者とはもちろんキリストを信ずる者である。しかし彼はじつにみずから信じて信者となったのではなくして、神に信ぜしめられて信者となったのである。
彼の信仰は救済(すくい)の結果であって、信仰が救済の原因であるのではない。
「なんじらの信ずるは神の大いなる能(ちから)のはたらきによるなり」とは聖書が力をこめて宣べ伝うるところであって、われらは信仰によって救われるというものの、その信仰そのものが神の特別なるたまものであることを、われらは決して忘れてはならぬ」(内村鑑三『一日一生』6月27日)。
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