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神学研究(神学・論文&教義学)

神学・論文 001

2019年5月5日改訂

E.ブルンナー

 

キリスト教とは何か

神学・論文E.ブルンナー〖キリスト教とは何か〗     

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人物紹介〖E.ブルンナー〗

聖書に学ぶ藤井武ヤハヴェはわが牧者⑶〗注1 啓示の書、聖書 

§  §  §  §

1 哲学者の神と啓示の神


キリスト教〔史上〕の文書の中で最も感動的なものの一つは、パスカルの死後〔、彼の〕上着の中に縫い込まれているのが発見された、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神〔こそ、真(まこと)の神〕。哲学者と学者の神にあらず」という信仰告白(『メモリアル』1654年11月23日付)である。


この数学の天才〔パスカル〕は少数の者だけが戦った信仰の戦いを敢行(かんこう)したが、その際〔彼は〕、聖書の啓示(けいじ)の神哲学者および学者の〔考える〕神とは別である、との認識に到達した〔のである〕。

 

この〔聖書の啓示の神と哲学者・学者の神の〕対比は、〔一体、〕何を意味するのだろうか。


哲学者の神は、人の思索〔すなわち人知(じんち)〕によって発見可能な〔神であり、人間の理性によって操作可能な対象としての〕神である。

いかなる哲学も、〔それが〕まじめで徹底したものであるならば、必ず、すべての真理認識の基礎としての〔神〕、科学的-哲学的宇宙構造の要石(かなめいし)としての〔神〕、「善と真の理念」としての〔神〕、《原動者》等々としての〔神などのように〕、〔最終的には、〕神の理念にぶつからざるを得ないのである。


宇宙と人の霊魂は、絶対者の理念なしには理解できないように造られている。

しかし、〔たとえ〕この絶対者の哲学的理念が「神」を指し示すとしても、それは、〔真の〕神ご自身がその本質と意志とについて〔私たち人間に〕啓示してくださるものとは、全く別〔もの〕である。
哲学的理念は、抽象的、非人格的であって、〔あくまでも〕人〔知〕が考える「あるもの」〔にすぎないの〕である。

 

ところが、聖書の〔示す〕生ける神は、〔決して、人知が考える〕抽象〔的な、貧しい統一理念〕ではなく、〔生ける〕人格的〔な愛〕の力、私たち〔人間〕の霊にご自身〔の御心(みこころ)の秘密〕を打ち明け〔、ご自身を人間に与え〕てくださる霊〔的・人格的な神〕である。

まことに、〕私たち人間に《汝》(なんじ)と呼びかけて下さる、《我》(われ)〔としての人格的な神〕である。


聖書は哲学者の書いた〔抽象的・無時間的な理念の〕本ではなく、神の〔具体的・歴史的な〕自己啓示を証言する書物である。

それゆえ、聖書を読むことは、哲学書を読むのとは全く異なる。

 

聖書において私たちは、神から個人的に〔《汝》と〕呼びかけられ、〔神によって、良〕心を射ぬかれ、〔罪を〕裁かれ、〔そして、罪を赦されて、真に〕慰められるのである。

聖霊に導かれつつ〕聖書を読むことにより、私たちは〔生ける神と人格的に出会い、〕神の愛をいただく。そして、その神の愛は、私たちの命となるのである。

 

聖書における神の最高の自己啓示は、イエス・キリストであり、受肉(じゅにく)〔人となっ〕た神の言葉ロゴス:λογοςである。

 

そして、イエスについての〔聖書の〕証言の頂点は、〔神の御子(みこ)イエスが私たち人間の罪のゆえに十字架にかけられて、私たちの罪の赦しと救いのために御血を流されたという、あの〕《十字架の福音》である〔。そして、御子イエスの十字架によって、神はこの世と《和解》されたのである〕。

これは、異教徒には愚かなもの、ユダヤ人には躓(つまづ)きであるが、〔神によって〕召された私たちには、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、神の知恵である。


以下の論文でさらに、これについて述べる〔ことにしよう〕。  


2 なぜイエス・キリストを信ずるのか


私は、たびたび質問される。

神を信ずるだけでは、十分ではないのか。なぜ、イエス・キリストをも信じなければならないのか〔、と〕。
この質問に対する〕私の答えは、いつもこうである。

 

イエス・キリストは、 神〔へ〕の信仰に〔対して〕つけ加えられる、信仰の第二の対象ではない。

 

人間の側から言えば、〕キリストは〔、いわば〕、〔私たちが〕神に出会うために〔必ず〕通る「ドア」である。〔また、〕反対の側から言うと、イエス・キリストは、私たちを「父〔なる神〕のもとに招き寄せる」ために、私たちに差し出された神の〔愛の〕手である。

これが、キリストを「肉〔なる人〕となられた神の言葉」と呼ぶ〔ことの〕理由である。


神は、〔かつて〕イスラエルの大預言者たちを通じて、ご自分の言葉を語られた。

私たちは、しばしば、旧約聖書に「〔なる神〕は、こう仰せられる」と書かれているのを見る。旧約聖書の預言の言葉は、〔神が預言者に託した、〕真(まこと)に神の言葉であって、神はこれによって神の性質、奥義、目的、計画を〔私たち人間に〕啓示される〔のである〕。


しかし、これ(預言の言葉による啓示)は、まだ神の最終的(・究極的)な啓示ではない。

神は〔、預言者を通して〕語られた言葉によるよりも、もっと親密に私たちに近づこうと願われたのである。預言者たち自身も、彼らが〔神によって〕語るべく命じられた以上の究極的(・決定的)な啓示が〔神によって〕備えられているのを感じていた。

事実、〕彼らは〔大いなる希望を抱きつつ〕、《インマヌエル》(「神はわれらと共にいます」)の到来を預言した〔のである〕(イザヤ 7:14 インマヌエル預言


そして、〔預言者〕イザヤがインマヌエルについて預言してから実に700年後に、そのインマヌエルは、イエス・キリストという人となって〔、私たちの間に〕来た

キリストは、ただ〔神の〕言葉を語るだけなく(注1)〔、同時に〕、彼自身が〔神の言葉-ロゴス-そのもの〕である。


「〔神の言葉(ロゴス)が肉〔なる人イエス・キリスト〕となり、〔私たちの間に到来した。〕私たちはその栄光を見た」(ヨハネ1:14)。(キリスト)を見た者は、父〔なる神〕を見たのである」(ヨハネ14:9

これがイエス・キリストの奥義である。

キリストは言われた、「安心せよ。わたしは世の終わりまで、いつの日もあなたがたと共にいるから」と(マタイ 28:20b)。

2000年前、神の御子キリストは人として私たち人類の間(歴史の中)に降(くだ)り、弟子たちと共に地上を歩まれた。

そして現今、復活のキリストは《聖霊》として、いつも信じる者たちと共におり、また信じる者たちの中に現臨(げんりん)して、ご自身との人格的な出会いと交わりを与えてくださる(注2)。

こうして、インマヌエル-神はわれらと共にいます-の真実は、イエス・キリストによって成就(じょうじゅ)したのである。注3〕。

 

キリストご自身が、その生涯と死と復活とにおいて神の〔決定的な〕啓示〔そのもの〕であり、父〔なる神〕への「ドア」〔なの〕である。

「〔(キリスト)は道(=ドア)であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父〔なる神〕のもとに行くことはできない。」〔と言われたとおりである〕(ヨハネ14:6)。


だから彼は〔決して〕、〔付け足しの〕「信仰の第二の対象」ではない。

私たちは、〕この方〔御子キリスト〕を通して〔初めて〕、誰が父〔なる神〕であるのか、何が全世界に対する、また私たち一人ひとりに対する父の目的と御心(みこころ)であるのかを〔明確に〕知るのである。


それゆえ、私たちは御子(みこ)〔キリスト〕の名において父〔なる神〕に祈るのである。

私たちは、この御子を〔神と人との間の〕《仲保者》(ちゅうほしゃ、注4と呼び、〔また実際に、〕このお方を通して〔私たちは、はばかることなく〕父〔なる神〕に近づく〔ことができる〕のである。

 

実に、〕御子〔キリスト〕〔《人となられた神の言葉》、また、《われらと共なる神》として〕信ずる(信頼する)ことは、真に神を信ずること〔なの〕である(注5)。

〔つづく〕

 

♢ ♢ ♢ ♢

(塚本虎二主筆『聖書知識』1954年所収。一部表現を変更。〔 〕、( )内は補足)

注1 究極的な啓示-キリスト-

神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子〔キリスト〕によって、わたしたちに〔決定的な形で〕語られたのである。」(ヘブル 1:1 口語訳)

注2 聖霊の働き

(キリスト)は霊である。そして主の霊のあるところには、〔神にある、真の〕自由がある。(コリントⅡ3:17  口語訳

新約聖書的な意味における聖霊は、〔過去の〕歴史的キリストを〔今、〕生きた人格的現在(=生けるキリスト)として〔私たちに〕証言し、効力あらしめる神の現在である。

 

聖書に記された〕キリストについての〔証言の〕言葉がわれわれにとってキリストの言葉となり、キリストの言葉が〔生けるの〔啓示の〕言葉となるためには、聖霊の働きが必要である。」

(注2の参考文献:E.ブルンナー『ブルンナー著作集 第4巻 教義学Ⅲ』教文館、1998年、「第1章 教会と聖霊  2 聖霊を通してわれわれに現れる神の自己現在化」28項より引用。( )、〔 〕内は補足。原著:Emil Brunner, Die christliche Lehre von der Kirche, vom Glauben und von der Vollendung, Dogmatik Band Ⅲ Zwingli-Verlag Zürich und Stuttgart 1960.)

​詩歌028 八木重吉〖聖霊〗へ

注3 インマヌエル:キリストにあって、神はわれらと共にいます

​詩歌040 前田智晶〖恐れないで〗へ

 

 

注4《仲保者》キリスト

それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの〔旧い〕契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。(ヘブル 9:15 口語訳)

神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」(テモテ第一 2:5)。

新約聖書は、イエス・キリストは超越的な神と罪に堕(お)ちた人類との間を仲保(仲介、仲立ち)する方である、と証言している。

キリストは、神から人への啓示を仲立ちし、また、救いを仲立ちしてくださる方である。

1.《啓示の仲保者》キリスト

わたしを見た者は、父を見たのである。」(ヨハネ 14:9)

神は、仲保者キリストにおいて(キリストによって)、私たち人間にご自身を人格的に、また歴史的に啓示してくださった

神の人格的伝達としての啓示:

啓示とは、単に神についての観念や教理を人間に付与することではなく、聖霊によって、神が私たちにご自身を伝達(自己啓示)してくださることつまり、ご自分の命を私たちに分け与え(自己分与)、私たちの生を刷新する交わりを与えてくださることである。

したがって、信仰とは何よりもまず、イエス・キリストにおいて私たちに人格的に出会ってくださる、そのような神との人格的な出会いを意味する。

2.《救いの仲保者》キリスト

は道あり、真理であり、命である。 私を通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)

キリストは比類の無い通路(道)であって、キリストを通して神の贖い(救い)の業(わざ)が人間に向けられ、到達した。

私たち人間の理性も意志も、罪によって汚染されて衰弱しており、私たちの方から神へと近づく(昇っていく)ことはできない。つまり人間は、自分自身を救うことができない。

代わりに神は、私たちのところへ降りてくることを選ばれた。

神の言葉(ロゴス)は人なるキリストとなった。そしてキリストは、仲保者として、救いを世界にもたらした。

今や、恵みの時、救いの時-私たちは、まことの道である仲保者キリストを通って、父なる神のもとに行くことができるのである。

(注3の参考文献:A.E.マクグラス『キリスト教神学入門』教文館、2002年、284、507~508項

注5 心の友、イエス

一日一生内村鑑三8月10日〖イエスを友とする〗

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