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<神学研究(神学・論文&教義学)

神学・論文 007

2018年3月8日改訂

E.ブルンナー

 

キリスト教とは何か

ブルンナー「キリスト教とは何か」

神学・論文E.ブルンナー〖キリスト教とは何か〗  ①     

人物紹介006〖E.ブルンナー〗

§  §  §  §

5 イエス・キリストによる新しい生活
イエス・キリストによってわれわれの生にもたらされる中心的なものは、罪の赦しである。しかし「信仰によって義とされる」とは、〔単に〕この否定
(罪)の否定(罪の消滅)だけではない。それは、何よりも一つの〔積極的な〕「肯定」である。


つまり、われわれの〕あらゆる罪にもかかわらず、〔なお〕神がわれわれを愛し、ご自分のものと認め、キリスト〔の贖罪〕によって〔われわれを〕神の子と宣言される時、われわれの生は〔その〕中心において一変する〔のである。れが、「肯定」の意味するものである〕。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく創造(つく)られた者である」〔と書かれているとおりである。コリント第二 5:17〕。


最も大切なことは、今〔や〕われわれは、新しい「立場」すなわち場所を神の御許(みもと)に持っている〔という〕ことである。今〔や〕われわれは、神に属する〔者である〕。

われわれは、この世界にあって〕孤独な者、〔さ〕迷える者ではなく、今や神の「体」の「一部分」なのである。

 

すなわち〔われわれは〕、まだ地上〔の世界〕に生きてはいるが、〔同時に、〕今や天の〔永遠の〕世界に属している〔のである〕。

われわれの国籍は天にある」〔と書かれているとおりである。〕(ピリピ3:20)。

このことは、われわれ〔の旧(ふる)き自分〕が「キリストと共に死ぬ」こと、〔すなわち〕われわれの「私」がもはや〔自己の〕王座にすわらず、今やキリストがその座を占(し)めてくださることによって、生起するのである。

信仰によって、われわれはもはや「自己」中心でなく、キリスト中心となった〔のである〕。

 

このことは、〔日々の生活において、神に対し〕反抗的な旧い「私」が自分の生を支配するために再び王座に上ろうとする試みを繰り返すことはもはやない、という意味ではない。〔旧き「私」は、執拗(しつよう)に主導権を取り戻そうと試(こころ)みるだろう。〕

 

しかし今は、その試みを阻止する方(キリスト)が、いつも〔われわれと共に〕いてくださるのである。〔つまり、〕今や新しい「生活原理」であるキリストが〔われわれと共に〕いてくださり、自己中心の生からわれわれを〔キリストご自身の許へと〕呼び出してくださる。

そこに〔、われわれの〕新しい生がある。


このこと(キリストへの立ち帰り)は特に、常に祈ることと繰り返し聖書を読むことによって実現する。

今やわれわれは、自分に語りかける《神の言葉》として聖書を読み、また祈りにおいて、われわれの主また父としての神と語〔りつつ、日々を生き〕る

これがキリスト者の新しい生である。〔すなわち、〕《神の言葉》による生であり、また聖霊による生命(いのち)である。

6 愛
愛という言葉は最も大切であり〔ながら〕、また最も乱用され〔てき〕た言葉である。

新約聖書に「神は愛である」と書かれており、その内容が完全に示されている。〔それによれば、〕神を起源とする愛のみが、〔人間のエロースの愛とは本質的に異なる、〕真実の愛(アガペー)である。


神は愛である」(ヨハネ第一 4:8、16)とは、〔人類の歴史上、〕前代未聞(みもん)の大胆かつ革命的な言葉である。

かつて、いかなる哲学者もそのように教えたことはなく、またいかなる宗教においてもそのように説かれたことはない。

このまったく非哲学的な言葉(「神は愛である」)において、《生ける神》の本質が最も力強く表現されている〔のである〕。


実に、アガペーの〕愛は、神の本質である。〔神は、アガペーの愛そのものである。〕

神は、〔神への反逆者、また敵であった〕われわれ人間のことに限りなく心を砕き、また十字架上の御子〔の贖罪〕において、われわれにご自身を〔愛として、完全に〕啓示してくださる〔のである〕。

しかし〔アガペーの〕愛は、神の本質であるばかりでなく、イエス・キリストを信ずることによって〔神が〕われわれに与えてくださるものである。

信仰のみによって義とされる」ことに、「聖霊によって神の愛がわたしたちの心に注がれる」ことが続く(ローマ 5:5)。


神はわたしたちにご自身の愛を信じさせるだけでなく、神はその愛をわたしたちに分け与えて、わたしたちを神の愛(アガペー)に参与する者とする。

この愛は自由で、泉のように周囲へと溢(あふ)れ出ていく愛である。〕


だから愛は、まことの信仰の目印〔となるの〕である。

愛の(み)のない所では〔、生きた〕信仰の木と根が欠けており、〔その〕信仰は死んでいるのである。

 

コリント信徒への手紙第一13章において、使徒パウロは、愛が信者の生活においてどのように現われるべきであるか、また実際現われるかを示している。

だから、われわれはいつも、この〔愛の〕章によって自分の生活を〔自己〕吟味(ぎんみ)しなければならない。


しかしキリスト教界に、この愛の欠けていることが何と多いことか。

ことに生ける神・キリストとの出会いと交わりとしての〕信仰教理・教義〔へ〕の信仰とを取りちがえた時に、愛の欠乏はひどくなる〔のである〕。

 

教義および教理〔体系へ〕の〔信念としての〕信仰でなく、〔生ける〕主イエス・キリスト自身に対する信仰から、愛は自然に流れ出る― このことが、赤い一本の糸のように内村鑑三の〔全〕著書を貫いている。

 
愛とは、隣人
(となりびと)の心身の〔必要、〕幸福のために心をくだくことである。

しかし何よりも愛は、乏しい隣人を助け、援助〔しようと〕する意志〔のこと〕である。〔他者と共にあり、他者に対して真に開かれていることが愛である。〕


したがって聖書では、〔イエスの教えた最も重要な戒めは、〕神と隣人の二つが不可分的に結びついている。二つとも《あなた(汝なんじ》〔の〕と呼ばれる(注1)

 

信仰は人の心〔のこと〕であって、そこでは主語は、もはや《わたし(我われ》でなく、《汝》である。〔われわれは、《》との交わりに向かってつくられているからである。〕


一体、〕われわれは自分中心に動いているのか、それとも隣人が大切になっているのか。〔また、〕まず自分自身の〔利益の〕ことを考えるのか、それともまず、われわれの助けを必要している兄弟のことを考えるのか。

そのことが、われわれが〔生きた〕信仰に立っているか否(いな)かを見分ける目印である。


この自己吟味が〔われわれの隠された罪を明らかにして、〕繰り返し繰り返し、われわれをキリスト〔の十字架のもとに〕に追いやる。

そこで、〕キリストはわれわれの罪を赦し、また、われわれの愛の欠乏を満たしてくださるのである(注2)

 

7 希望
今、《信仰》の真偽
(しんぎ)が試(ため)されている。〔信仰の〕試金石は、信仰が大いなる生ける希望と結びついているかどうか、である。

 

希望なき信仰は、熱のない火のようなものである〔。それは、もはや信仰と呼ぶことはできない〕。


初代キリスト信徒の教会(エクレシア)は、全人類を包容する希望、すなわち《神の国》の来臨(らいりん)と、全被造物の贖(あがな)いとその完成(注3)、そして《永遠の生命》に対する希望に満ちていた。


神はキリストにおいてこのわたしを愛するだけでなく、またキリストにおいてこの世をも愛しておられる。

神の目的は、個人を贖い、救うことだけではなく、この世界を贖い、救うことである(注4、注5)


キリスト信徒は自分の個人的な救いを第一義的な関心事とするのではなく、神の関心事を自らの関心事とする

しかも神の心は、世界に対して向けられている。


それゆえ、キリスト信徒の希望は、個人的なもの(神の国における《永遠の生命》)であると同時に、世界的なもの(《神の国》の到来による世界と全被造物の完成)である。〕


この初代教会〔エクレシア〕の希望の根拠は、イエス・キリストにおける神の意志の啓示である。

そして神の意志は、《神の国》におけるイエス・キリストの究極的かつ、あらわな勝利、そしてイエス・キリストの十字架において告知された神の世界救済計画の成就(じょうじゅ)である。〕


新約聖書ではイエス・キリストを信ずることは、神の計画の成就を〔待ち〕望むこととほとんど同じである。

 

信仰》は後(過去)を向いて、神がイエス・キリストにおいてなされたこと(贖い)を見、《希望》は前(将来)を向いて、キリストにおいて始まり、また約束されたこと(救済のわざ)の完成を見るのである。


ところで、〕現代には、二つの特徴がある。〔すなわち、〕大いなる無希望とユートピア的な虚偽の希望〔の二つ〕である。

この二つの現象は同一の原因、〔すなわち〕神に対する信仰の動揺(どうよう)と無神論的〔な〕世界観から生まれる。


神がいなければ、〔まことの〕希望はない。しかし〔同時に〕人間は、希望なしに生きることはできない。

 

まことの〕希望をもたない現代人は、未来に投影した自力への信頼にすぎない「希望」を自分で作〔り上げ〕る。

それは〔人間の力による、無限の〕進歩に対する希望(進歩史観)と、地上における共産主義的天国〔-階級や搾取(さくしゅ)の無い、平等なユートピア社会(空想的理想郷)-〕に対する希望である。


しかし、〔この〕二つはともに、〔人間の作り上げた〕幻想〔にすぎないの〕であるから、〔人間の罪と弱さと死の〕現実暴露(ばくろ)と絶望に終わるほかない。

もし人間が、この地上に「楽園」を作ろうとすれば、国内各地に《収容所群島を作った旧ソ連のように、実際には圧政と暴力によって「楽園」の代わりに地獄を作るであろう。注6


人間と人間の力だけを信奉する者は、絶望と、軽い絶望〔の形態〕としての、あきらめに終わらざるを得ない。


絶望から救い出される道は、ただ一つ。

それは、すべての〔人間的な〕崩壊を越えて世界を完成〔-神の国の実現-〕へと導く神に対する信仰、イエス・キリストにおいて人類に対する計画を啓示された神に対する信仰である。


この〔わたしたちの〕信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である」〔ヨハネ第一 5:5〕。なぜなら「わたしは確く信ずる、死も生も……現在のものも将来のものも、高いものも深いものも……われわれの主イエス・キリストにある神の愛から、われわれを引き離すことはできない」からである(ローマ 8:38、39)。

〔つづく〕

 

♢ ♢ ♢ ♢

(塚本虎二主筆『聖書知識』1954年所収。一部表現を変更。〔 〕、( )内は補足)

注1 イエスの教えた最も重要な戒(いまし)

「心をつくし、思いをつくし、精神をつくし、主なるあなたの神を愛せよ」、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マルコ 12:29~31)

注2 まことの愛は神から出て、信徒の内に注がれる

愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛してくださったのであるから、わたしたちも互いに愛し合うべきである。

神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちの内にいまし、神の愛がわたしたちの内に全(まっと)うされるのである」(ヨハネ第一 4:11、12 口語訳)

注3 被造物の完成

被造物は、いまか、いまかと首を長くして、〔終末の時に〕神の子たちが栄光の啓示に浴するのを待ちこがれている。

なぜなら被造物が〔堕罪した人類の受けるべき死の呪いと連座して、〕無と帰して滅びゆく運命に服したのは、自分からすすんで身を投じたのはなくて、服させたもうた者〔、すなわち神の定め〕によることであるから、そこには望みがある。

すなわち被造物自身も、〔《神の国》の実現と人間の贖いの成就によって、〕死滅の奴隷となっている今の状態から解放されて、神の子供たちの栄光と自由にあずかることになるのだから。」

(ローマ書 8:19~21 杉山好(よしむ)訳『NTD新約聖書注解6 ローマ人への手紙』NTD新約聖書注解刊行会、1974年、222項より引用)

 

注4 神の目的は世を救うこと

「神が御子〔イエス・キリスト〕を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ 3:17)

注5 御子は世の救い主

「わたしたちは、父〔なる神〕が御子〔イエス・キリスト〕を世の救い主としてお遣(つか)わしになったのを見て、その証(あか)しをするのである。」(ヨハネ第一 4:14)

注6 共産党の一党独裁支配による恐怖政治

旧ソ連(ソビエト共産党による一党独裁の社会主義国家。1922年-1991年)のノーベル文学賞作家、アレクサンドル・ソルジェニーツィンの記録文学に、収容所群島 1918-1956 文学的考察』(新潮社、1974年、木村浩訳)がある。

この書物は、ソ連における、反革命分子とみなされた人々に対する強制収容所(グラーグ)への投獄、凄惨(せいさん)な拷問、強制労働、処刑の実態を告発する文学的ルポタージュである。

収容所群島』は、統制の厳しい本国では出版できず、1973年にフランスで発売された。

そして、各国語訳が進められた結果、人権上、由(ゆ)々しき問題として大反響を巻き起こした。当然ながらソ連では禁書扱いされた。

ソルジェニーツィン自身は、1974年に市民権を剥奪(はくだつ)されて西ドイツへ国外追放されている。

ソ連社会はその後、共産党官僚の特権層化、経営管理の硬直化、労働者の労働意欲の減退、アフガニスタン侵攻(1979年)の長期化、深刻な経済不振などに悩み、混迷を深めた。

1985年にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは、ペレストロイカ(政治改革)、グラスノスチ(情報公開)、新思考外交(冷戦の終結)のスローガンを出して、大胆な改革に臨(のぞ)んだ。

 

そんな中、1986年4月、ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所で史上最悪の爆発事故が起こった。この際、ソ連社会の隠蔽(いんぺい)と無責任体制が明らかとなり、グラスノスチの必要性が広く認められた。

 

1991年8月、改革阻止と連邦体制の維持を狙う共産党幹部保守派がクーデータを起こした。

しかし、このクーデターは失敗に終わり、ゴルバチョフは共産党解散を宣言した。

 

こうしてソ連邦は崩壊し、地上から消滅した。また、ほぼ同時に、《東欧革命》によって東欧社会主義圏も完全に解体した。

20世紀にソ連・東欧諸国で共産主義の名で起こった出来事は、理念としての共産主義とはほど遠い、共産党の一党独裁支配による恐怖政治であった。

(注5の参考文献:ウィキペディア「収容所群島」、『世界史の要点整理』学研、2013年、『理解しやすい世界史B』文英堂、2013年、『理解しやすい政治・経済』文英堂、2014年)

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