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イエス 罪人を赦す01_edited.jpg

すべての人の、赦しと救いのために

To Forgive and Save All

* * * *

おんちょうしょくざいろん

恩寵贖罪論

- 恵みによる罪の赦し 

さかまき・たかお

1.今なぜ贖罪論なのか?平和の福音を取り戻すために


⑴ 人間と世界の根本問題の問題
確かに聖書は、一般の書物と同じように、「文学」や「歴史資料」として読むことができる。

古典-人類の知的遺産-としての「聖書」。それ自体、貴重で興味深いものである。

しかし聖書の聖書たる所以(ゆえん)は、聖書が一般の書物と一線を画するもの、その本質において神から人類への語りかけ(啓示)を記した書である、という点にある。

「神と人間の間には、無限の質的差異がある」(K・バルト)。

人間は思考や認識の階段を上ることによって、また神秘的な神との合一(ごういつ)-悟り- によって「下から」、無限の神の許(もと)に到達することはできない。

われわれ人間の〈思惟〉(しい)や〈悟り〉によって認識し得たとする「神」は、1,500グラム足らずの脳の活動の反映-人間の観念が作り上げた《偶像》-にすぎない。

それは、(まこと)の神とは全くの別物である。

われわれがの神の御心(みこころ)を知る道は、上からの、神の側からの語りかけ(啓示)による以外は、あり得ない。

神は、かつて預言者を通して人々に語りかけた。

そして2000 年前、神の言(ことば、ロゴス)である神の独り子・イエスによって、究極的な形で語られた。

これが、哲学者、神秘家の思い描く「神」と〈聖書の神〉の違いである。

こうして神の啓示を書き記したもの-神の啓示の人間的な(=人の手を介した)記録-それ が聖書である。


その聖書は、人間の問題、社会と世界の問題の根本には、《罪》の問題があると指摘する。

 

そして罪》の問題の解決こそが、人類救済と諸問題解決の鍵を握ると教える。

⑵《罪》 破壊と悲惨の根本原因


では、聖書のいう《罪》とは一体、何か。


使徒パウロ(?~A.D. 60 年頃)は、新約聖書『ローマの信徒への手紙』でこう述べている。


ユダヤ人もギリシア人も皆、〔つまりすべての人は〕罪の〔支配〕下にあるのです。

 

〔それは、旧約聖書に〕次のように書いてあるとおりです。


『正しい者はいない。一人もいない。悟(さと)る者はいない。神を探し求める者はいない。

〔、神の許から〕迷い出て、誰も彼も無益な者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。

 

彼らの喉(のど)は開いた墓であり、彼らは舌で人を欺(あざむ)き、その唇の裏には蛇の毒がある。

 

口は呪(のろ)いと苦味(にがみ)に満ち、足は血を流そうと急ぎ、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。

 

彼らの目には神への恐れがない』」(ローマ 3:9b~18)


つまり、すべての人は神の許(もと)から迷い出て、自己(エゴ)を神として拝みつつ、各々自分勝手な道を歩んでいる。

そして、「欲望が孕(はら)んで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」のである(ヤコブ 1:15 口語訳聖書)。

罪こそが、破壊と悲惨の根本原因である。

⑶《罪》の実相-世界の惨状


そして人は内なる罪に支配され、「誰も彼もが無益な者」となり、「平和の道」を失って互いに争い、血を流し、破壊と悲惨に陥(おちい)っている、とパウロは言う(「自己を含めた万物との闘争」)。


創造主(しゅ)である神を見失って、内に深い闇を抱(かか)えた個人、愛が冷え不信が渦巻く人間社会、闘争と戦争に明け暮れる世界。

また自然を収奪(しゅうだつ)し地球環境を破壊し、地球温暖化や天候激変を招いて、存亡の危機に瀕する人類。

神を忘れ、あくまでもエゴを追求する人間は、罪によって支配され、分断と争い、破壊と悲惨に行き着かざるを得ない。

​すべての問題の根本に、〈人間〉の問題がある。

人間問題の中心に、人間が抱(かか)える〈闇〉の問題がある。

問題の根源に、》の問題がある。


2000年前のパウロの言葉は、さながら現代世界の病理を正確に描き出す​〈診断書〉のごとくである。

⑷ 罪の根本治療
しかし聖書は、ペシミスティック(悲観的・厭世的な)な書ではない。

 

​聖書は病理の診断だけでなく、根本解決の道(根治療法)を示す。

聖書は問題の指摘に終わらない。それ以上に、罪とその力からの解放-贖罪(しょくざい)-の道を説く。

①人の知恵による解決法

ハンドルが(ゆが)んだ自転車は、目標に向かって真っ直ぐ走ることはできない。


《罪》の問題は、人間の自力では根本解決できない。なぜなら、それは人間の手に余る問題だから。

 

解決法を考える人間の思考とその実践自体が、《罪》の影響下(汚染下)にあるからである。

 

もちろん、具体的な諸問題の解決策を考え、解決のために努力することは非常に大切である。

 

しかし如何(いかん)せん、人間はあくまでも人間であって、神ではない

 

人間の考え出す解決法は、決して万能無欠ではなく、そこには自(おの)ずと限界があり、また別種の問題が潜(ひそ)んでいることを忘れてはならない。

 

この謙虚な気持ちを忘れることは、特に強大な力の源を見い出したときには、〈狂気の始まり〉であり、〈破局の入り口〉に立つことを意味する。

このことは、特に科学技術の異常な発達-原子力・核エネルギーにおいて、しかり。生命操作において、しかり。そしてAI(人工知能)、人型ロボットにおいてしかり、である。

​破局の予感-このことに現代人は、薄々、気づいているはずである。

しかし人々は、それが拠(よ)って来(きた)る根本原因を知らず、それゆえ対処の術(すべ)を知らない。

②神の解決法 
人間の知恵が考え出す危うい〈対症療法〉に対し、聖書は根源的な問題解決の道-〈根治療法〉を示す。

 

聖書が示す根本解決の道は、神のイニシアチブによって何よりも先ず、神に対する人間の背反(はいはん)を癒し、人間が神に立ち帰ることを可能とする道である。

 

人を《罪》の支配下から《神の恵みの圏内》へと奪還(だっかん)し、神と人間との間に根本的な《和解》をもたらすこと-これを贖罪(しょくざい)という。

これが、聖書が示す根本解決法である


特に《罪の赦し》と《神との和解》についての教えは、キリスト教贖罪論と呼ばれる。贖罪論は、本来的に喜ばしい教えである。

⑸キリスト教贖罪論への問い

①刑罰代受説への疑義
キリスト教贖罪論は、罪の問題の根本的な解決方法-《罪の赦し》と《神との和解》の道を説く。 

カトリック、プロテスタントを問わず、長らくキリスト教贖罪論の中心とされてきたのは、いわゆる《刑罰代受説》である。


ところが、この《刑罰代受説》に対し、最近、聖書学・神学の方面から、重大な疑義が提出されている。


近年、〈キリスト教の加虐性〉が問題とされているが、この問題に刑罰代受説が深くかかわっているのではないか、との指摘である。

以下、この問題について探究を進めよう。

②刑罰代受説について
この伝統的な教説(教説刑罰代受説)は、以下のⅰとⅱから構成される。​

ⅰ.人間の罪に対するご自身の聖なる怒りを鎮(しず)め、正義を全(まっと)うするために、神が人類の身代わりとして罪なき御子イエスを十字架に付けにし、処罰した(神の刑罰をイエスが人間のわりにけた)。

ⅱ.〔この〕キリストの代理的な苦難と死を通して、人類が受けるべき刑罰は克服され、罪許される道が開かれた。
(元和泉短期大学教授・牧師 伊藤忠彦著『キリスト教教理入門』ヨルダン社、1987年、125~126項参照)​​​

この刑罰代受説は、次のように要約できる。


・神は人間の罪に対して聖なる怒りを抱いておられる。神はこの怒りを鎮めるために、罪無きイエスを人間の身代わりとして十字架刑に処した(人間の代わりに、イエスに刑罰を与えた)。

・イエスの身代わりの死(代理死)よって、人間の罪は帳消しとされた(贖罪)。このことを信じ受けるならば、人は神によって罪の赦しを与えられる。

③刑罰代受説批判
この教説に関し、「贖
(あがな)いの思想をめぐる近年の〔聖書学的・神学的〕議論において、伝統的な贖罪論(刑罰代償説)が、神を怒りに満ちた暴力的存在として描き、人間社会の暴力を肯定〔・助長〕している〔、

こうして刑罰代償説は、キリスト教は歴史上の苛烈(かれつ)な異端迫害や宗教戦争に関わっただけでなく、現代においても、さまざまな戦争や紛争に深く関わっている〕という批判が起こっている」。
(鍋谷堯爾ら監修『聖書神学事典』いのちのことば社、2010年、135項より引用。( )、〔 〕内、下線は補足)

さらに最近の新約学研究によって、次のような指摘がなされている。


原始キリスト教会におけるイエスの死の理解である「〈私たちのため〔の死〕〉は、〈私たちの身代わり〔、代理の死〕〉という意味ではない
・・・
このような概念を最初期のキリスト共同体は持っていなかった」。

後の刑罰代受説につながる〕〈代理死〉の考え方がキリスト共同体に持ち込まれたのは紀元1世紀の終わり頃であり、「おそらくこの代理死という発想がキリスト共同体に明らかな仕方で定着したのは、後2世紀〔の初期教父の時代〕に入ってからのことだろう」。

(浅野淳博著『新約聖書の時代-アイデンティティーを模索するキリスト共同体-』教文館、2023年、246項、〔 〕内は補足)

2.高橋三郎「刑罰代受説の問題点」
 高橋三郎(1920-2010、無教会第3 世代の独立伝道者)、は論考「刑罰代受説の問題点」において、重大な指摘を行った。


以下、高橋の論考を抜粋し引用する。

われわれ罪人の受けるべき神の刑罰を、イエスが身代わりとなり〔十字架上で〕お引き受け下さった、と信じ受ける見方が、「刑罰代受説」として、〔キリスト教史上〕連綿と継承されて来ました。

しかし歴史的事実としては、大祭司を頂点とするサンヘドリンの要人たちが、ローマの官憲や群集までも巻き込み、イエスを十字架の死へと追い詰めて行ったのであって、人間が神の子(つまり神)を裁くという宗教的倒錯(とうさく)がここに噴出したのであり、十字架という残忍な処刑の仕方の中に、人間の残虐性が、恐ろしいまでに立ち現れています。

しかし「刑罰代受説」では、この重大な二つの問題状況が視野の外に切り捨てられているばかりでなく、あの十字架刑は神のなしたもうた処罰だと見るのですから、神は恐るべき処刑を課す方として恐怖の対象となり、この恐るべき神観と連動して、教会が異端として断罪した人々に課する刑罰も、火刑というような残虐きわまりないものとなりました。

なおその上、無数に繰り返された宗教戦争に露呈した残虐性の中にも、この問題の余波を見ることができるのではないでしょうか。
・・・
私自身はあの十字架を仰ぐとき、神の子イエスを死に追い詰めた人々の中に自分自身を見出し、「イエスは私の罪のために死んで下さった」という恩恵の前に頭
(こうべ)を垂れ、かくも大きな犠牲を払って罪の赦しと永遠の生命を賜(たまわ)る神の恵みに、溢れる感謝を捧げるばかりです。

・・・この恐るべき〔人間的宗教性の〕倒錯からの解放を祈り求めつつ、悔い改めへの道を踏みしめ進みたく願うのです」。
(高橋三郎・佐藤全弘・島崎輝久共著『歴史の中枢』証言社、2007年より引用。〔 〕内、下線は補足・敷衍)

この短い論考において高橋は、刑罰代受説が秘める重大な問題を指摘している。


第一は、刑罰代受説においては、人間が神の子イエス(神)を十字架に付けるという宗教的倒錯の視点が欠落しているという問題。


第二は、刑罰代受説においては、十字架という残忍な処刑の仕方に現れた人間の残虐性の視点が欠落しているという問題。
 

第三は、刑罰代受説における、恐るべき十字架刑を科すという恐怖の対象としての神が描かれているという問題。


中でも、刑罰代受説で描かれた〈恐るべき神〉-神の加虐性-の問題が、特に重要である。

なぜなら、刑罰代受説の「恐るべき神」(神の加虐性)はキリスト教の加虐性に繋(つな)がり、これが残虐な異端迫害に関わると同時に、その後の宗教戦争にも余波として関わった、とされるからである。

以上の高橋の指摘は、最近の新約学の問題提起を先取りしたものと言えよう。

また高橋の指摘は、最近の多くの「キリスト教国」の戦争(イラク戦争、ロシア・ウクライナ戦争、米国のイラン攻撃など)を理解する上でも、重要な視点を提供する。


また高橋が自らの〈十字架信仰〉に言及することにより、刑罰代受説克服の道を暗示している点も、注目される。

本論考は、高橋の論考が描いた線を詳述し、発展させて、刑罰代受説を乗り越えようとする試みと言える。


この試みが成功するか否(いな)かは、イエスの十字架を正しく解することができるかどうか、この一点に懸(か)かっている。

3平和の福音を取り戻す

4.内村鑑三「十字架教」

ここでわれわれは、内村鑑三が〈真のキリスト教〉にふさわしい名称として、《十字架教》を提唱したことを思い起こす。

内村は言う。


キリスト教は元来、〈十字架の宗教〉である。これは単なるキリストの教えではない。十字架に付けられたキリストの教えである。

キリスト教が教えるものは、われわれが〔自力によって悟りや霊性を高め、〕キリストに倣(なら)って十字架に付けられることではない。

 

救い主〕キリストがわれわれのために十字架に付けられ〔て死に、《復活》してくださっ〕たことである。

十字架は単に、キリスト教のシンボルではない。その中心である。キリスト教の全構造が拠(よ)って立つ、その隅(すみ)の親石おやいし、cornerstone)である。

 

われわれの〕罪は十字架の上で赦され、また消滅させられ、恩恵は十字架の上に成し遂げられた〔キリストの〕功(いさおし)を信受することによって約束され、また付与されるのである。

まことにキリストの〕十字架が無ければ、キリスト教はない


今や〔、その本質が〕キリスト教でない多くのものが「キリスト教」として通用するこの時〔代〕に際し、・・・〔それらと真のキリスト教を明確に区別するために、〕われわれは新しい名でキリスト教を呼びたい、との願いを抱(いだ)く。

 

そして私は、この願いに応じるために、〈十字架教〉という名を提案する。(『聖書之研究』1921年1月「十字架教」を現代語化。〈 〉、( )、〔 〕内は補足・敷衍)

この文章が示すように、内村がキリスト教の核心をイエス・キリストの十字架に見ていたことは、間違いない。しかも、死命を決する一点として。 


その意味でも、われわれが《十字架》について探究することの意義は極めて大きい、と言わねばならない。

5.十字架= イエスの生の帰結

⑴イエスの生涯- インマヌエル
イエスの十字架のできごとは、はるか昔、遠いローマ帝国の辺境・パレスチナで起きた「不幸な一事件」ではない。

福音書を読むとき、イエスの十字架は彼の生涯の必然的帰結であった、またイエスの生きざま・彼の生が極点まで凝縮したもの、それがイエスの十字架であった、と言えるのではないだろうか(注1 参照)。

今日同様、イエス在世当時、彼の回りには多くの貧しき者、悲しむ者たちがいた。また、長き病(やまい)に苦しみ、ユダヤ民族の宗教(ユダヤ教)からも、社会からも、ときには家族からさえも忌(い)み嫌われ、遠ざけられた者たちがいた。

そのような中、イエスは生涯、彼らの傍(かたわ)らに立ち続けた。彼らから始めて、すべての人を神の許(もと)に連れ帰るために。

イエスは、当時の社会規範の根幹であった《ユダヤ律法》の規定(ユダヤ教の諸戒律)をあえて犯してでも彼らに癒(いや)しを与え、また彼らを苦しみから救い出して、《罪の赦し》を宣言した。彼らに《神の子》としての尊厳を回復した(マルコ 2:8b~12a、ヨハネ 5:1~18 参照)。

またイエスは、人々の救済よりも暴利を貪(むさぼ)ることに腐心していたエルサレムの神殿宗教を批判し、これを粛清した(マルコ 11:15~18 参照)。

そればかりか、エルサレム神殿の崩壊さえ予告した(マルコ 11:15~18、13:1~2 、ルカ 21:5 参照)。

インマヌエル(神、われらと共にいます)。イエス・キリストは、まさにインマヌエルそのものであった。

イエス降誕から遡(さかのぼ)ること七百年余り、旧約の預言者イザヤは《インマヌエル》の到来を預言した(前734年頃、イザヤ 7:14、8:8,10)。

 

この《インマヌエル預言》は、イエスの来臨(らいりん)によって、預言者自身の思いを遙(はる)かに凌駕(りょうが)する形で成就した(マタイ 1:23)。

福音書によれば、イエスはインマヌエルとして《神の愛》を体現すると共に、生ける神の言葉ロゴス、λόγος )として独一無二(どくいつむに)の仕方で、神の御心(みこころ)を世に顕(あらわ)た(ヨハネ1:1~5、14~18、注2)。

​⑵十字架の道

しかしそのために、かえって彼はユダヤ民族の国体(=聖なるユダヤ律法とエルサレム神殿)の尊厳を破壊する者として、宗教指導者たち(サドカイ派、ファリサイ派、律法学者たち)の怒りを買い、彼らに憎まれ、告発され、命を付け狙(ねら)われたのである(マルコ 14:53~65、ヨハネ 5:1~18 参照)。

イエスは、宗教指導者たちとの摩擦を避けよう思えば、避けられたはずである。

地の民》(アム・ハ・アレツ)と呼ばれた人々との接触はほどほどにして、彼らと距離を置いて「賢く」行動したならば、おそらくイエスは十字架に追い込まれることはなかったであろう。

しかし彼は、そのような方ではなかった。彼は逃げようとはしなかった。イエスは《十字架の道》を進まれた(ルカ 13:31~34)。

彼はどこまでも、悲しむ者、苦しむ者、貧しき者たちと共に、また彼らの傍(かたわ)らにあり続けようとした

こうしてイエスはついに、宗教指導者たち、世の権力者たち、そして民衆によって十字架につけられるに至った。

イエスは死に至るまで、神に、そして人々に仕える生きざま-奉仕の生-を貫(つらぬ)いたのである。

6.十字架の祈り

⑴ 群衆の中に私が- キリストとの同時性
イエスは十字架に釘
(くぎ)付けられた。

・・・しかし彼は死の苦しみの中から、ある祈りの言葉を発した。


それは次のようなものだった。

父よ、彼らを赦したまえ。自分で何をしているのか分からないのですから」と(ルカ 23:34、注3)。

驚くべきことにイエスは、自分を十字架に付ける敵のために、その赦しを祈られたのだ!

イエスの十字架と十字架を囲む群像(ぐんぞう)をジッと見つめるとき、人は思いがけないことに気づく(マルコ 15:6~15 参照)。

イエスを十字架につけた群衆の中に自分もいる、自分もまた群衆の一人であることを(S・キルケゴールの「キリストとの同時性」)。

イエスを十字架に追いつめた者として、私の内なる罪はゴルゴタの丘で暴(あば)かれ、罪として審(さば)かれている

神の独(ひと)り子イエス(神)を十字架に付けるという決定的な罪

世に、これほど大きく、恐ろしい罪があるだろうか(これは、イエスの十字架死という事実をめぐる問題であって、主観的な罪意識の問題ではない)。

​「私は、自分の背(そむ)きを知っています。〔私の〕罪は絶えず、私の前にあります。あなたに、ただあなたに私は罪を犯しました・・」(詩篇 51:5~6a、〔 〕内は補足)

逃れようのない己(おのれ)の実態 - を示され、進退ここに窮(きわ)まる。

・・

・・​・

しかしこの時、何かが聞こえてくる ・・どこから(Woher)?

 

十字架より ・・何が(Was)?

 

細い祈りの声が


イエスが祈っておられる。 ・・何を(Was)?

自分を十字架に付けた敵の赦しを、そして私の赦しを

イエスは、わたしの罪の赦しを求めて父なる神に祈っておられる(注2)。​ 

・・・

・・

⑵〈執り成しの祈り〉による罪の赦し

十字架の祈りは、御子イエスの真実と愛からほとばしり出た祈り命がけの(と)りなしの祈り。 

われわれは、この祈りは神によって確かに聞き届けられた、それゆえこの十字架の祈り(=恩寵)によって、われわれすべての罪はすっかり赦されたと信じることができる(これを恩寵贖罪-恵みによる罪の赦しと呼ぶ。ヨハネ 19:30)。


なぜなら、イエスご自身が弟子たちに次のように教えておられるからだ。

求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。〔門を〕(たた)きなさい。そうすれば、開かれる。

誰でも、求め者は受け、探す者は見つけ、〔門を〕叩く者には開かれる。

あなたがたの誰が、パンを欲(ほ)しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚(さかな)を欲しがるのに、蛇(へび)を与えるだろうか。

このようにあなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。​

まして、天におられるあなたがたの父〔なる神〕は、〔ご自身に〕求める者に良い物を与えてくださる 」と(マタイ 7:7~11。( )〔 〕内は補足・敷衍)。

(ひと)り子イエスの切なる祈りが父なる神に聞かれないことなど、あり得るだろうか

⑶ イエスの全生涯=神の愛のことば

またこの祈りによって、イエスはすべての人にこう語りかけている。

あなたは私をムチ打ち、ののしり、私を十字架につけるがよい。

だがたとえ、あなたが私に対して何をしようとも、私はあなたを愛することをやめない

私はあなたを愛している

御子イエスの心は父なる神の心、イエスの愛は神の愛(ヨハネ 1:18、10:30、17:21a、注4)。

この語りかけこそ、イエス・キリストの生涯、ことに彼の十字架を通して神が私たちに示しているものではないか( W・バークレー著『奇跡の人生』ヨルダン社、1976年、87~88項参照)。

⑷ 赦しと和解の絶対他力- 時の隔たりを超えて

ゴルゴタの丘に立つイエスの十字架十字架は歴史の中心に立つ十字架の客観性)

そしてイエスの十字架は、時の隔(へだ)たりを超えて、あの祈りを発し続けている。アブラハムにさかのぼる過去から、また未来へと(ヨハネ 8:56~58 、注5)。

父よ、彼らを赦したまえ。自分で何をしているのか分からないのですから・・」。

この〈十字架の祈りこそ、すべての人の罪の赦し確かな根拠〉。

〈十字架の祈り〉に現れたイエスの真実と愛(=神の恩寵)- これこそが、絶対他力(たりき)としての救いの根源である。

7.十字架と新生

​⑴ 十字架、わが救いのため
イエスは言われた。​
は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っている。羊も私を知っている。

・・

私は羊のために自ら〕命を捨てる
・・・
私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、私の手から奪う者はいない
」(ヨハネ 10:14、15b、28)。

​「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ 13:16)

​これらの言葉どおりにイエスは愛ゆえに十字架の道を歩み抜き、私たちのために自ら命を捨ててくださった

イエスの十字架は、わが救いのため(プロ メ pro me)。

誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造(つく)られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです」(コリントⅡ 5:17)。

神は私を愛し、救うためにり子イエスを私に与えくださった

そしてイエスは、十字架の上で敵のため、私のために罪の赦しを祈ってくださった(注5)。

​⑵ 刑罰代受説の「神」とイエスの

人類救済の全過程の背後にあるのは、驚くべき《神の愛》-イエスの説く神は、アバ(お父とうちゃん)としての愛の神 である(マルコ 8:14、マタイ 6:25~34、ヨハネⅠ 4:16)。

刑罰代受説》が説くような、私たちの身代わりに御子イエスを十字架に張り付けにし、御子に鉄槌(てっつい)を振り下ろす残酷な「怒れる神」ではない(注6)。

⑶ 主の御手は私を離さない- イエスに倣いて

神の愛とイエスの真実。

この愛と真実(=恩寵)によって、私の頑(かたく)なな心は溶かされた。わが罪は拭(ぬぐ)われ、たましいは洗い清められた(恩寵贖罪)。

私は今までの《古い人間》ではない。

外なるイエスの十字架によって、私は新しい命、《新しい人間》に生まれ変わったのだ(M・ルターの「外なる救い」-救いの客観性・確実性)。

《十字架の祈り》によって、私は日々支えられ、生かされる。イエスの命に満たされる。イエスの命とは、神から与えられるイエスの真実と愛である。

私はもはや、イエスから離れることはできない。

​否(いな)いかなるときもイエスの御手は私を捉えて、離さない(ヨハネ 10:28~30、コリントⅡ 5:14a、詩篇 139:7~10参照 注7)。​

それゆえ私は、十字架のイエスを感謝をもって仰ぎつつ、イエスの御足の跡(あと)に従って歩もう

聖霊(=生けるイエスの霊)の導きを求めつつ(ローマ 8:9、ガラテヤ 4:6、ヨハネ 16:13、コリントⅡ 3:17 参照)。

主こそ、わが平和、わがいのち、わが喜び、わがすべて

* *​​

神は、その独り子をお与えなったほどに、世を愛された。御子(みこ)を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

神が御子を世に遣(つか)わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである(ヨハネ 3:16、17)。

♢ ♢ ♢ ♢

(参考文献:聖書協会共同訳『聖書』、馬場嘉市編集責任『新聖書大辞典』キリスト新聞社、1971年、155項、ウイリアム・バークレー著、斎藤正彦訳『使徒信条新解』日本基督教団出版局、1970年、422~428項、ウイリアム・バークレー著『奇跡の人生』ヨルダン社、1976年

1 十字架、イエスの生の帰結

この論考の脱稿直後、論者は「イエスの死を〔イエスの〕徹底した奉仕の象徴」とする浅野淳博(あつひろ)氏(新約聖書学者、関西学院大学教授)の言葉に出会った。

 

イエスの死=徹底した奉仕の生き様の象徴」とする浅野氏の新約学研究に基(もと)づく所見と、恩寵贖罪論における「十字架=イエスの生の帰結」とする受けとめがほぼ一致していることは、興味深い。

以下、参考までに浅野氏の文章を引用する。​

「〔最初期の〕キリスト共同体は、復活信仰によって〔イエスの〕神の国運動を継続する動機づけを得ただけでなく、イエスの死の意味を探り当てることによって、どのように神の国運動を継続すべきか、その方向性を定めたのだ。

 

その結果として彼らは〔十字架上での〕イエスの死を「私たち/あなた方/兄弟姉妹/すべての人のため〔の死〕」と理解するにいたった。


この〈私たちのための死〉という定型表現は、しばしば間違って理解されるので注意が必要だ。


私たちのため〉は〈私たちの身代わり(代理)〉という意味ではない。・・・このような概念を最初期のキリスト共同体は持っていなかったようだ。

 

おそらくこの代理死という発想がキリスト共同体に明らかな仕方で定着したのは、後2世紀〔の初期教父の時代〕に入ってからのことだろう。


むしろ、〈私たちのための死〉というこの定型表現は〈私たちへの〔愛ゆえの〕奉仕の結果としての死〉を意味している。


イエスは生前の神の国運動において直近の弟子たちをも含めた多くの人に尽くし、そしてその活動の延長にあって処刑された(マルコ 10:45参照)。

 

イエスの〔十字架上の〕死は、死の危険を顧(かえり)みないほどの徹底した〔愛ゆえの〕奉仕の生き様を象徴する出来事であるから、弟子たちはそれを神の国運動のあるべき姿として印象的に記憶した。

・・・

こうしてイエスの死にいたる生き様は、キリスト共同体の活動の方向性を定めた」。
(浅野淳博著『新約聖書の時代-アイデンティティーを模索するキリスト共同体-』教文館、2023年、「第6章 最初期のキリスト共同体-A 最初期のキリスト共同体の思想(神学)的特徴-2 イエスの死と十字架-(b)〈私たちのため〉のイエスの死」246項より引用。( )、〔 〕内、下線は補足・敷衍)

2  神の唯一の言(ことば、ロゴス)=イエス・キリスト

このことを(あか)しするヨハネ福音書1章の聖句(ロゴス=キリスト論)と『バルメン宣言』第一テーゼ(1934年)を、以下に取り上げる。


「始めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言葉は神であった。この言は、始めに神と共にあった。万物は言葉によって成った
・・・
言葉(ロゴス)肉〔なる人〕となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
・・・
私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

 

いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神(=イエス・キリスト)、この方〔だけ〕が神を示されたのである」(ヨハネ 1:1~2、14~16、18、( )、〔 〕内、下線は補足・敷衍)。

『バルメン宣言』第一テーゼ:

「私は道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ 14:6)

「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前に来た人は、みな盗人であり、強盗である。わたしは門である。わたしをとおって入る者はすくわれる」(ヨハネ 10:7~9)

 

聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。


教会(エクレシア)その宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。

(出典:宮田光雄著『バルメン宣言の政治学』新教出版社、2014年、22項より抜粋。( )内、下線は補足。『バルメン宣言』は、ヒトラー政権下のナチ・ドイツでカール・バルトによって起草され、1934年5月、《自由な告白教会会議》にて成立した)

十字架の祈りは本当にイエスの言葉か-ルカ 23:34 の写本問題

聖書協会共同訳(2018年発行)を含め、最近の多くの日本語訳聖書は、ルカ 23:34a の十字架の祈りを〔 〕内に入れている。

その理由は、この箇所が多くの有力な写本で欠けているためである。

つまり同箇所は、年代的に古く重要なものではあるが、後代の加筆の可能性が高いとしている。

十字架の祈りは、本当にイエス・キリストの言葉なのか、それとも後代の加筆か-この問題は、われわれにとって決して揺るがせにできない大問題である。

この問題をわれわれはどう考えるか。

以下最近の代表的な聖書注解(複数)を参照しつつ、できるだけ客観的にこの問題を考えたい。

4 イエスの心は神の心

聖書にイエスご自身の証言がある。

(イエス)父〔なる神〕は一つである」(ヨハネ10:30)。

イエスは言われた。

フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。わたしを見た者は父〔なる神〕を見たのだ。

 

なぜ、『私たちに御父をお示しください』というのか。

 

私が父の内におり、父が私の内におられることを信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、父が私の内におり、その業を行っておられるのである。・・」ヨハネ 14:9、10。( )、〔 〕内は補足・敷衍)。

5 アブラハムはイエスの救いを仰ぎ見た

イエスはお答えになった。 

「・・・

あなたがたの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。

・・・

よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から『私はある』

 

すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げて、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

(ヨハネ8:56~59)

6 イエスが来たのは罪人を招くため

イエスは言われた。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。

私が〔世に〕来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ 2:17)。

7 刑罰代受説について

キリスト共同体への代理死理解の浸入

伝統的なイエスの代理死理解に対し、注1で言及したように新約学の立場からは①、②が支持される

①原始キリスト教会におけるイエスの死の理解である「〈私たちのため〔の死〕〉は、〈私たちの身代わり〔、代理の死〉という意味ではない

・・・

このような概念を最初期のキリスト共同体は持っていなかった」。

代理死考え方がキリスト共同体に持ち込まれたのは紀元1世紀の終わり頃であり、「おそらくこの代理死という発想がキリスト共同体に明らかな仕方で定着したのは、後2世紀〔の初期教父の時代〕に入ってからのことだろう」(浅野淳博著『新約聖書の時代-アイデンティティーを模索するキリスト共同体-』教文館、2023年、246項、〔 〕内は補足)。

①、②の問題について、英国の新約聖書学者W・バークレー(1889-1966)は、以下のように述べている(「 」内が、W・バークレーのことば)。

①について:

​「イエスはわれわれの代わりに(instead of)〔、つまりわれわれの身代わりとして処罰され、〕苦しみを受けて死なれたのではない

そうではなく、イエスはわれわれに対する愛ゆえに、われわれを罪の悲惨から救い出し、神との失われた関係を回復するために、生きそして自ら十字架の道を歩まれた

つまり、〕イエスはわれわれのために(for the sake of,on behalf of)、苦しみを受けて死なれたのである。

われわれが新約聖書の証言を検討するとき、われわれは事実上、「怒れる神」についての証言や、神がわれわれの代わりにイエスを処罰されたという証言は存在しないことを見出す

②について:

「畏敬(いけい)念を込めて、われわれはこう言うことができる。

 

もし神が、その犯された正義〔に対する義憤ぎふん〕を満足させるために、われわれの代わりにイエスを処罰されたのだとすれば、神はこの世においてただ一人しかいない全く罪の無い方を処罰されたことになり、〔神は〕この上ない不正行為によって、〔ご自身の〕正義を満たし〔、聖なる怒りを鎮(しず)〕たということになる。 

 

この許容しがたい矛盾は一体、どうなるのか。

そうだとすれば、〔一方で、〕確かにキリストの死に付随している犠牲の要素〔が新約聖書で語られていること〕は、どのように説明されるだろうか(。

 

実際、新約聖書は様々なメタファーを用いて、イエスの犠牲的な生き方を描いるのである)。

それは、初期のキリスト教思想家たちは、・・イエス・キリストについての経験を自分たちの知っている事柄〔、すなわち神殿犠牲の考え方〕によってしか説明できなかった、という事実から来ている。

 

ユダヤ人にとって、〔神殿で献げられた動物〕犠牲はただ一つの働きを持っていた。

 

神殿犠牲の考え方によれば、〕人と神の関係が〔人間の〕罪によって失われ、破られたとき、そして、その関係が他のいかなる方法によっても回復できないとき、〔献げられた動物〕犠牲によって〔はじめて〕、その〔失われた〕関係は回復された〔ことになる〕のである。

・・・

非ユダヤ教徒である〕われわれにとっては、動物の犠牲ということは、まったく縁のない〔ものであり〕、奇妙なもので〔さえ〕ある。

しかし〔ここで〕われわれが率直に言いうることは、神と人との失われた関係を回復するために、〔確かに〕イエス・キリストの生と死が必要であったということである。

・・・

イエス・キリストはインマヌエルとして、神の愛を体現した方である。

その〕イエスがもし、〔「これ以上は進むことはできない」として、〕十字架への道を途中で止(や)めたとすれば、〔それは〕神の愛が及ばない地点があった〔という〕ことになる。

しかし、〔そうではなかった。〕

イエスが人々を愛し、きわみまで〔、実に十字架の死に至るまで〕愛しとおされたがゆえに、「神の愛を妨げることができるものは、何もない」ということ〔が、すべての人の前に明白〕になるのである。

それゆえに、イエス〔という方〕の本質は、彼が〔人間に対する〕〔の態度〕を変えたとか、怒りの神愛と赦しの神に変えたということ〔にあるの〕ではなく、彼が人々に対して、神はいかなる方であるか〔、その絶大な愛〕を示すために、〔生き、そして〕死なれたということである。

・・・

イエスを見ることによって、われわれの心が動かされて、まず彼がわれわれを愛してくださったように〔われわれもまた、驚きと感謝の念をもって〕イエスを愛さざるを得なくされる、ということである

(参考文献:W・バークレー著『使徒信条新解』日本基督教団出版局、197年、第19章「罪の赦しを信ず」422~428項、一部改訳。( )、〔 〕内は敷衍)

人物紹介W・バークレー William Barclay〗へ

8 主の御手は私を捉えて離さない

「どこに行けば、〔私は〕あなたの霊から離れられよう〔か〕。
どこに(のが)れれば、〔あなたの〕御(みかお)を避けられよう〔か〕。


たとえ、〕天〔の高み〕に登ろうとも、あなたはそこにおられ、
陰府〔の深淵〕に身を横たえようとも、あなたはそこにおられます。


(あかつき)を駆(か)って〔、はるか〕海のかなたに住もうとも、
そこでも、あなたの〔御〕手は私を導き、右の御〕手は私を離さない

(詩編 139編7~10節、〔 〕内は補足)

付 記

​・この恩寵贖罪論は、伝統的な贖罪の教説-刑罰代受説-に代わる〈新しい贖罪論〉である。


この論考において、論者はイエスの生に注目し(キリスト論的集中)、十字架に現れたイエスの真実と愛(=神の恩寵 )による罪の赦し(恩寵贖罪)について述べた。

近年、旧来のキリスト教贖罪論(刑罰代受説)に対し、次のような批判が提出されている。

刑罰代受説の説く神観(しんかん)-『神』の加虐性-が、キリスト教の加虐性と深く連動しているのではないか。

刑罰代受説が内包する加虐性によって、歴史上、キリスト教が行ってきた魔女裁判や異端迫害は苛烈(かれつ)を窮(きわ)め、また様々な争いや戦争と深く関わってきたのではないか」と(注5参照)。

確かに、キリスト教会(教界)が戦争に深く関わった事例は、歴史上、枚挙にいとまがない

われわれに近いところでは、2003年3月20日、当時の米国大統領ブッシュは、「イラク国内に大量破壊兵器が隠されている」と難癖(なんくせ)を付け、イラクに大規模な攻撃を仕掛けた(イラク戦争)。

このとき、ブッシュは米軍を「現代の十字軍」と呼んだ。

また、2025年6月21日夜、トランプ大統領の指示により、米軍のB1爆撃機がイランの原子力施設を空爆した。

この攻撃に関し、トランプ大統領はホワイトハウスのTV会見で、「重大な使命を果たす米軍に、神の守りと導きがあるように」と祈り求めた。

もともと、トランプ大統領は、米国におけるキリスト教の再興を誓っていた。

二人の米国大統領の発言の背後には、今や一大政治勢力となった米国〈福音派〉教会(プロテスタントに属する)の存在がある。福音派教会は、共和党ブッシュ大統領(当時)とトランプ大統領の強力な支持母体である。

また今もウクライナ侵略戦争を続けるロシアは、ロシア正教の国である。事情は異なるにせよ、ロシアでも、政治と宗教の間で同様の問題を抱(かか)えていると思われる。

過ぐる太平洋戦争(1941年12月~1945年8月)中の〈日本基督教団合同問題〉を抱(かか)える日本も、決してその例外ではない。 

戦前の日本は、後発帝国主義国として列強の植民地の争奪戦に加わったが、第二次世界大戦下における戦争推進のため、「宗教団体法」を定めた。


この法律に基づき、1941年にプロテスタント諸派教会が合同してできたのが、宗教報国団体としての「日本基督教団」である。

戦時中の日本基督教団は「日本基督教団戦時布教使信」を定めて、日本の中国・東南アジアへの侵略戦争に追随し、占領地域への布教活動を行った

 

また、文書「靖国(やすくに)の英霊」(1944年発行)によって靖国の「英霊の血」と《キリストの血》(ヘブライ9:14)を結びつけるなどして、侵略戦争を美化・神聖化した。

同教団は教会堂に《神棚》を設け、礼拝前に《宮城遙拝(ようはい)》を行って、現人神(あらひとがみ)天皇への忠誠を誓った(偶像崇拝)。さらに献金を募って、皇軍(こうぐん)に軍用機を奉納した。

19444月の復活節には、教団統理・宮田満の名で冊子「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書簡」を発表し、これを中国、朝鮮、台湾など各地に送った。

この書簡は、「太平洋戦争」を日本の《聖戦》と規定し、日本占領下にあるキリスト者たちを、神の名によって対米戦争に協力させようとした

また、次のような勧告を行った。


万世一系の天皇統治(日本の《国体》)に基礎付けられる《大東亜共栄圏》の建設はさながら《神の国》を地上に出現させることである。そして日本基督教団は、大東亜共栄圏的キリスト教の盟主である

それゆえ占領下にあるキリスト者たちは日本基督教団に統合されよ、と。

この書簡は、同教団の懸賞募集に応募された原稿75編の中から審査選考されたもので、その審査報告を行ったのは、日本の代表的な神学者である熊野義孝氏(1899~1981、東京神学大学名誉教授)であった。

 

つまり、この書簡は神学者熊野氏によって資格づけられ、権威づけられたものであった(武田武長『世のために存在する教会』新教出版社、1995年、16~23項)。

なぜイエス・キリストの明白な教え-平和の福音-に反して、キリスト教会(教界)は​しばしば、戦争政策の協力者、またその先兵となるのか。

キリスト教会(教界)と国家の癒着と相互依存の問題。
これは、紀元392年にローマ帝国の《国教》となって以来、今日に至るまでキリスト教会(教界)がかかえる大きな問題である。

この問題において、刑罰代受説はキリスト教会と国家をつなぐの紐帯(ちゅうたい)として、重要な役割を果たしてきたと考えられる。

​教会と国家をつなぐ紐帯としてのキリスト教の教え、特に刑罰代受説の教理は、教会と国家に対し、「われわれには、不義なる者たちに神の厳しい審判(神の刑罰)を下し、正義を確立する使命がある」という共通の大義名分を与えたのではないだろうか(この大義名文の根底にあるのは、人間の貪欲である)。

こうして加虐性を内包したキリスト教は、国家の帝国主義的な拡張政策に宗教的な「お墨付き」を与え、また侵略への協力にのめり込んでいった(列強による世界の分割・植民地化と、これと連動したキリスト教の布教)。

このように刑罰代受説とキリスト教の加虐性の問題は、キリスト教界(教会)にとっても、世界にとっても極めて今日的な問題である。

恩寵贖罪論はキリスト教の加虐性とそれに深くかかわるキリスト教贖罪論(刑罰代受説等)の問題を見据え、これを克服しようとする試みである。

そのための方法は、上に述べたようにシンプルで、イエスの生涯、特に十字架に注目することである。

恩寵贖罪は恩寵義認(おんちょうぎにん)の核心部分を成す。恩寵義認論については、信仰と救いのコペルニクス的転回の注13(関連リンク)を参照されたい。

なお「恩寵贖罪」という語は、論者による造語である。

この論考は〈信仰の論理〉の形をとってはいるが、その根底にあるのは論者の信仰告白(神への信頼と感謝と讃美)である。 

注も含め、本文中の引用聖句は聖書協会共同訳聖書による。

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