― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年11月5日
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無教会は、制度教会の壁(宗派・教派の信条、礼典、教会法・教憲、法制度的組織体、聖職位階制等)の外に立つ(注1)。
内村鑑三の系譜(けいふ)に連なる各地の無教会集会(聖書集会、聖書研究会)は、おおよそ次の①~⑥の特徴を有する。
①「イエス・キリストは主である」(ローマ 10:9、フィリピ 2:11)との信仰を告白する。
すなわち、イエス・キリストにおける神の愛の勝利を信ずる。
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② 聖書の先行的信仰告白(上記①)の光に照らし、《使徒信条》が保持する真理を承認する(注2)。
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③ 《宗教》の枠組みの外、野に立つ。
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④ 世俗のただ中にあってイエスその人の福音への原点復帰を目指す平信徒共同体であり、職業的宗教家(聖職者)を置かない(万人祭司主義* 注3)。
*万人祭司:神の前では、すべてのキリスト者は等しく祭司であり、したがって祭司(聖職者)階級は無用である、とする《宗教改革原理》の一つ(ルター著『ドイツのキリスト者貴族に与える書』参照)。
⑤ “恩恵のみ・信仰のみ*、聖書のみ(注4)”の《宗教改革原理》に立つ。
*信仰のみ
この原理は逆説的に、われらが《キリストへの信従》(ルカ 9:23)へ、また《真実(真理)の探求》(フィリピ 4:8)へと招かれていることを想起させる。
また、「信ずる者だけが従順であり、従順な者だけが信ずる。・・・
〔信仰と従順との一致は、〕信仰はただ従順の行為の中においてのみ存在し、従順なしに信仰は信仰であることがないということ、また、信仰は従順の行為においてのみ信仰であるということの中にあるものである」。
(森平太訳・ボンヘッファー『キリストに従う』新教出版社、1972年、「服従への招き」42項より引用)
⑥ サクラメント(礼典儀式、秘跡)としての洗礼、聖餐は行わない。
これは、洗礼、聖餐の本来の意味(霊的・人格的な意味)を大切にし、祭儀以外の方法によって、その実現を祈り求めることに由来するのであって、洗礼、聖餐の単純な全否定としての無洗礼主義、無聖餐主義を意味しない。
関連リンク
☆神学・論文012タケサト〖恩寵義認と無教会の無条件救済論〗へ
☆内村一日一生6月15日〖最大の奉仕〗注1「無教会キリスト信徒の聖餐」へ
☆無教会入門018溝口正〖まことの洗礼-十字架の血による洗礼〗へ
*上記は、あくまでもサイト主催者が経験し、見聞・理解した限りでの無教会集会の特徴です。
集会出席に際して
1. 出席者に求められるのは、真面目に聖書の使信を学びたいという姿勢だけです。
2. 初めての出席を希望する場合には、集会責任者に事前に連絡を取るのが通例です。
3. 献金制度はなく、原則、経済的な負担はありません。
ただし、会場費(公民館等利用の場合)やお茶菓子代を少額ずつ負担したり、その他、集会誌の発行などのために自発的な自由献金(献金箱などを用意)を行っている場合があります。
4.聖書講義(講話)の後、皆でお茶を飲みながら感話の時を持ったり、月1回ないし記念集会の後に、共同の食事(愛餐)と感話会を持つ集会もあります。
♢ ♢ ♢ ♢
注1 無教会はいわゆる《教派》ではない
キリスト教の《教派》は、通常、各々の教派の定めた独自の信条(ドグマ、信仰告白)・儀礼(サクラメント、聖礼典・秘跡)・法制度(教会憲法)・法制度的組織体・中央統轄(とうかつ)本部、聖職位階制等を持つ。
そして《教派》は己(おのれ)を防御するため、自派を訪れる者に対して自らの信条を承認し、教派の定めた礼典儀式に与(あずか)るよう要求する。
以上は典型的に、制度的《宗教》の特徴を示していると言えよう。
(神学・論文〖恩寵義認と無教会の無条件救済論〗注10「制度教会は水の洗礼式を要求する」へ)
一方、無教会は上記のような教派的特徴を有しない。
無教会は、キリスト教の固定化(=化石化)した法制度的組織体(宗教組織)でもなければ、信条でも儀礼でもなく、また神学でもない。
その意味で無教会は《教派》ではないし、したがって無教会「派」ではない。(無教会入門003内村鑑三〖キリスト教とは何か〗へ)
無教会は、聖書が証(あかし)し、内村鑑三が再発見・提唱したキリスト信仰の在り方に共鳴し、各地で持たれる聖書集会または個人の、主イエスにある兄弟姉妹の自由な交わり(霊的・人格的信仰共同体=《キリストの体》としてのエクレシア)である。
同時に無教会は、生けるイエスに導かれつつ、《神の国》を目指して地上を旅する神の民の群(むれ)である。
「われわれは、・・ただ神の御力(みちから)によって《終わりの日》に《神の国》がこの地上に実現するために切なる祈りを合わせ、歴史の中を感謝と喜びに溢(あふ)れつつ前進する。
神の恵みによって、特にこの国に与えられた無教会主義の福音は、ただ神の恵みによって完(まっと)うせられるであろう」(関根正雄「無教会主義について」、東大聖書研究会編『信仰と生活の中から』1958年、所収)。
注2 《使徒信条》をどう受けとめるか
《使徒信条》は、キリスト教信仰にとって普遍的(=重要かつ根本的)な信仰の真理を保持している。
しかし、《使徒信条》を《正統主義》の化石化・固定化した判断基準とする時、この信条は他者を断罪する《異端(いたん)審問》の道具となるであろう。
われらは《使徒信条》の象徴的な陳述が保持する信仰の真理を、それぞれの時代において、主イエス・キリストの光と聖霊の導きのもとに新たに受け取り直し、時代に向けて力強く展開(再表現)すべき真理として、受けとめる。
そのとき《使徒信条》は、われらが自らの言葉で、信仰を告白し、世に対しわれらの信仰を力強く弁証するための良き道標(みちしるべ)となるであろう。
(W・バークレー著『使徒信条新解』日本基督教団出版局、1970年、492~496項「第23章 使徒信条の現代的意義」参照)
注3 万人祭司主義
「特権的な身分としての聖職者を否定し、すべての信者が平等なキリスト者である、とするルターの根本的な思想。
神への信仰において、すべての信者は教会の権威や教義から自由であり、万人(ばんにん)は、自己の信仰心において直接神と関わり、みな等しく神の祭司(さいし)である。
これは、カトリック〔教会〕の聖職者の権威を否定するとともに、近代的な自由な個人の自覚を高めた」。
(小寺聡編『山川 哲学』山川出版社、2015年、232項より引用。〔 〕内、下線は補足)
注4 聖書のみ(聖書中心主義)
「聖書をキリスト教の真理の唯一の源泉とする、ルターの根本的な思想。
ルターは、ローマ=カトリック教会の権威による聖書解釈〔=教会のカテキズム:公教要理など〕や儀式〔つまり礼典〕を退け、「聖書のみ」を標語に掲げ、一人一人が聖書に記された神の救いの言葉(〔キリストの〕福音)を読み、純粋な信仰を持つべきことを説いた。
聖書は神〔、つまりキリスト〕による救いのおとずれ(福音)を告げ、人間の救いのあかしとなるものであり、キリスト者は聖書の福音への信仰によってのみ、救われる」(前掲『山川 哲学』232項より引用。〔 〕内、下線は補足)。
ただし、「形式的に聖書のみを唱(とな)えていると、ついには聖書をも軽く扱うようになる」ことに心すべきである(泉治典「無教会と神学」、無教会夏期懇話会事務局編『1985年 無教会夏期懇話会記録』キリスト教図書出版社、1986年、42項)。