6月<内村鑑三「一日一生」現代語訳

 

6月11日~6月15日

(2017年8月17日更新)

 

 

このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。

【6月11日】キリスト教は罪を憎むもの

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【6月12日】完全なる信仰は楕円形

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【6月15日】我ら、イエス・キリストを慕う(最大の奉仕:愛し合うこと)

 わたしは、新しい戒(いまし)めをあなたがたに与える。

 

互に愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい

 

互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。 (ヨハネ福音書 13:34~35 口語訳)

 

我ら、主イエス・キリストを慕う兄弟〕が一堂に集まり、食事を共にし、また祈りを共にする(注1~3)

 

そのとき、主イエスは我らと共にいて、昔、ご自分の弟子たちに言われたように(注4)、今また我らに言われる。

 

わたしを愛するなら、あなた方はわが戒めを守れ」(ヨハネ14:15)と。

 

これは、峻厳(しゅんげん)律法の命令ではない。柔和な福音の諭(さと)しである。

実に、〔主イエスの〕愛の懇願(こんがん)である。

 

我らは今、肉〔体〕にあって主を見ることはできない。また〔直接〕、彼に仕えることはできない。

 

しかしながら、〔我らは〕主の言葉に従い、〔主が〕愛してくださる我らを互いに愛することができる。我らが〔キリストの体-エクレシア-の肢体(したいとして、〕互いに愛するとき、主は〔、それを何よりも〕喜んでくださる〔のであ注5,6

 

主イエスが我らに要求される奉仕で、これより大きなものはない。

(原著『ヨハネ伝』「愛の表明」1916年12月の抜粋を現代語化)

 

§  §  §  §

 

 

注1 無教会キリスト信徒の聖餐

まことの《命のパン》であり、神からのまことの賜物(たまもの)である主イエス・キリストは、《神の国》における喜びの祝宴に我々を招く方である。

主イエスは、人々の日常的な営みを大切にされた。

真に聖なるものは、荘厳な宗教儀式の中ではなく、日常の中に、また単純さの内に宿る。

それゆえ、主イエスを愛する兄弟たち(エクレシア)が復活の主の御霊(みたま)をお迎えしつつ持つ共同の食事(日常の食事は、来たるべき《神の国の祝宴の先取りと成り、主が備えてくださる《喜びの食卓》、恵みの聖餐(せいさん)成る

 

また、共同の食事がなくとも、「共に聖書を学び、共に祈り、共に手を取り肩を組んで、イエスが私におり、私がイエスにおり、またイエスにおることによって我々が一つになるという信仰〔の生〕を新たにすれば、それで立派な聖餐であります。」(矢内原忠雄「無教会早わかり」『嘉信』第10巻第4号、1947年、〔 〕内は補足)

 

無教会入門010矢内原忠雄〖無教会早わかり②〗

 

注2 聖餐をめぐる聖書学的・キリスト教歴史学的知見

初代教会では、愛餐(アガペー:共同の食事)に続いて聖餐が行われた。聖餐は、普通の食事すなわち愛餐の枠組みの中で、同時に同じ場所で行われており、両者は本来、切り離すことはできないものだった(コリントⅠ11:17~22参照)

 

聖餐が愛餐から分離し、サクラメントの一つ(聖礼典としての聖餐)に変貌(へんぼう)を遂げたのは、4世紀以後の教父時代のことである(荒井献「洗礼と聖餐-その聖書的根拠をめぐって」『戒規か対話か』新教出版社、2016年、92項。( )内は補足、下線は引用者による)。

 

注3 イエスの《開かれた食卓》

イエスは、《地の民》として軽蔑され差別されていた罪人や徴税人たちをありのまま、無条件でご自身の食卓に招かれた。イエスは、今も、われわれを招いておられる。

 

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。

 

そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

 

イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである

多くの徴税人や罪人(つみびと)もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。

 

ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。

 

イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』。」マルコ福音書 2:13~17

 

注4 主イエス、新しい戒めを語る

【イエスの最後の晩餐】(You Raise me Up):クリックして、YouTubeへ

 

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詩歌030〖ユー・レイズ・ミー・アップ〗歌詞

 

イエスの言葉英語字幕の日本語訳)

 

最後の晩餐:
You are my friends.

There is no greater love than for a man to lay down his life for his friends.

 

あなた方はわたしの友である。

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛は無い(ヨハネ福音書 15章参照)。

 

I am the good shepherd.

I lay down my life for my sheep. No one takes my life from me ,but I lay it down of my own accord. I have power to lay it down ,and power to take it up again.

This command is from my Father.

 

わたしは良い羊飼いである。

わたしは羊のために命を捨てる。誰もわたしから命を奪い取ることはできない。しかし、わたしは自分でそれを捨てる。わたしはそれを捨てる力があり、またそれを再び受ける力もある。

この命令をわたしは父から受けたのである(ヨハネ福音書 10章参照)。

 

山上の垂訓:
You have heard it said you shall love your neighbor and hate your enemy.

But I say to you love your enemies and pray for those who persecute you. For if you love only those who love you,what reward is there in that ?

 

あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。

しかし、わたしは言っておく。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。

自分を愛してくれる人だけを愛したところで、何の報いがあろうか(取税人でさえも、それくらいはするではないか。マタイ 5章参照)。

 

最後の晩餐:
I cannot be with you much longer, my friends. You cannot go where I am going.

My commandment to you after I am gone is this.

Love one another. As I have loved you,so love one another.

 

わが友よ、わたしはもう長くはあなた方と共にいることはできない。わたしが行く所にあなたがたは来ることはできない。

わたしが去った後にあなた方に残していくわたしの戒めは、これである。

互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネ福音書 14章参照)。

 

You believe in me.

You know that I am the Way,the Truth,and the Life.

And no one comes to the Father but by me.

 

あなたがたはわたしを信じている(信頼している)。

わたしは道であり、真理であり、いのちであることをあなたがたは知っている。

わたしによらないでは、誰も父のもとに行くことはできない(ヨハネ福音書 14章参照)。

注5 他者の重荷を担う
聖書の言う「愛すること」と表裏一体の関係にある「他者の重荷を担
(にな)うこと」は、D.ボンヘッファーによれば、自らの信仰の歩みの中で学びゆく(=修練する)ものである。

他者の重荷を担うということは、他者もまた神によって創造された人間であるという現実を耐え忍ぶことであり、これを肯定し、これを甘んじて受けることによって、その現実を喜ぶところまで高めていくのである。」(小池創造訳『信じつつ祈りつつ ボンヘッファー短章366日』新教出版社、1997年、59項)

​注6 キリストにある生:《他者のための存在》

「イエス・キリストを信じないかぎり、われわれは、われわれ自身の主〔人〕であり、したがっていつまでも〔互いに自己を主張して、〕一致することができません。

おのおのは自分の思いどおりに自分の生を営み、互いに皆、他に対して競争者となります。

かしイエスが人間を捕らえられるところでは、この自己支配は消え去ります。そこでは、それに代わって〔主イエスへの〕服従と〔主にある兄弟との〕結合が生じます。

 

それゆえ、信仰と共にただちに交わりが与えられるのです。

孤独なキリスト者というのはありえません。キリスト者になるということは、まさに、われわれが孤立した、自己のための人間であることをやめることです。

 

キリストがわれわれの生の中に入ってこられるところでは、自己のための存在は終わります。

今や、自己のための存在の代わりに、兄弟の結合が生じ、その結合の中で、われわれは他者のための存在となります。」

(E.ブルンナー『ブルンナー著作集 第7巻 フラウミュンスター説教集Ⅰ』教文館、1996年、「聖餐の意義」 、141、142項、〔 〕内は補足)

人物紹介006〖E.ブルンナー 

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