― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
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最終更新日:2024年8月29日
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4月<内村鑑三「一日一生」現代語訳
4月1日~4月5日
(2016年4月14日更新)
このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『続 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。
【4月1日】いったん心を改めて(神の視点、人の美点)
わたしたちは、自分自身を宣(の)べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。
わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕(しもべ)なのです。
〔天地・宇宙創造の時、〕「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔(みかお)に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
ところで、わたしたちは、このような宝を〔貧弱な〕土の器(うつわ)に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたち〔、土の器〕から出たものでないことが明らかになるために。(コリントⅡ 4:5~7)
■いったん心を改めて神の子供となり、〔下から人を見ることをやめ、〕自分を神の立場において人を見るならば、人の美点が多く見えて、欠点はほとんど目にとまらなくなる。
〔神の立場から見なければ、人の本当の価値は見えてこない。人の立場から見るとき、欠点ばかりが見えて、人の本当の美しさは分からない。〕
神〔の慈愛〕の眼をもって見るとき、聖人、君子(くんし、注1)に欠点が見えなくなるばかりではない。つまらない平々凡々の人にまで、多くの美点が見えるようになる。
〔山上から吉野の谷に咲く桜を見るとき(注2)、これに特別の美がある。花を上から、つまり正面から見るからである。こうして、〕
山の上から見るとき〔眼下の草木は美しく変貌(へんぼう)し〕、雑木(ぞうき)、草莽(そうもう、注3)はなくなるように、父なる神の立場から見るとき、美しくない人など、一人も見えなくなるに至(いた)る〔。すべての人が美しく見えるようになる〕。
それだから、われわれもまた、〔欠点を数えることを習性とする〕人には何の遠慮もすることなく、〔恵みの”太陽”である〕神に向かって、われわれの感謝の花を咲かせよう〔ではないか〕。
世〔の評価〕を後ろにし、〔美点を見い出してくださる〕神を前にして、神に見ていただくために、天に向かってわれわれの花を咲かせよう〔ではないか〕。(「花の見方」より。信5・112)
注1 君子(くんし)
りっぱな人格と教養をそなえた人。人格者。
注2吉野桜(よしのざくら)
奈良県吉野山にある桜。すなわち山桜。
吉野山には古来(こらい)桜が多く、シロヤマザクラを中心に約200種、3万本の桜が自生している。
注3 草莽(そうもう)
草むら。
♢ ♢ ♢ ♢
【4月2日】天然を愛しなさい。しかし、(天然・自然との向き合い方)
もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざ(業)をしめす。
この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。(詩編 19:2~5 口語訳)
■天然を愛しなさい。しかし、天然に憧(あこが)れてはいけない。
天然を愛して〔その虜(とりこ)となり〕、〔天地・宇宙の創造者である〕神と〔神から与えられた〕義務を忘れてはいけない。
天然を〔、神に〕仕える霊(れい)としなさい。天然を〔、神と義務を忘れるように人を〕誘惑する友としてはいけない。
天然は、これをユダヤ人のように〔、神の偉大さと栄光を顕(あら)わす、神の被造物として〕観(み)なさい(注1)。〔古代〕ギリシャ人のように、天然を〔崇拝して、〕愛してはいけない。
天然は、これを〔まことの〕神に達する〔ための〕足台としなさい。〔天然を、〕神を祭(まつ)る聖殿となしてはいけない。
〔天然そのものの中に神を見ようとするとき、〕おそらく天然は、アシタロテ(注2)のようになって、〔天然を神として崇(あが)める〕偶像(ぐうぞう)崇拝の罪にわれわれを導くであろう。
〈内村の原文〉
天然を愛すべし。されども天然にあこがれるべからず。天然を愛して神と義務とを忘るべからず。
天然を愛して、仕うる霊たらしむべし。彼をして、誘(さそ)う友たらしむべからず。
天然はこれをユダヤ人のごとくに観(かん)ずべし。ギリシャ人のごとくにこれを愛すべからず。天然は、これを神に達するの足台とすべし。神を祭るの聖殿となすべからず。
おそらくは彼、アシタロテのごとくなりて、偶像崇拝の罪にわれらを導かん。
(列王記・上 11:33参照)。(「天然の愛」、信8・306)
注1 神の偉大さと栄光
天然・自然を含む天地・宇宙万物を創造された神の偉大さと栄光については、メニュー「信仰と人生」の中の詩歌11.【輝く日を仰ぐとき】聖歌497番を参照。
注2 アシタロテ(アシュトレト)
西セム人の豊穣(ほうじょう)女神。
アシタロテは動物と植物に生命を与える者とされ、そのゆえに豊穣、多産、愛、快楽の女神である。
その祭儀(さいぎ)は性的・退廃(たいはい)的なもので、高き所(列王記下23:13)や売春(神殿娼婦)と結びついていた。
ヤハウェを礼拝していたイスラエルの民は、カナンの沃地(よくち)に定着するに及んで、バアル崇拝、アシタロテ崇拝などの宗教的、道徳な危険に直面した。
アシタロテは、旧約聖書にはバアルの配偶神として記され、激しく非難されている。
(参考文献:『新聖書大辞典』キリスト新聞社、1971年。『聖書大事典』教文館、1989年)