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4月<内村鑑三「一日一生」現代語訳

 

4月6日~4月10日

(2017年5月31日更新)

 

 

このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。

【4月6日】罪を認めなければならない。だが、

主よ、わたしは深い淵(ふち)からあなたに呼ばわる。
主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。

 

主よ、あなたがもし、もろもろの罪に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。
しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。

 

わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。

 

(詩篇 130:1~5 口語訳。 ただし新共同訳を参考に「不義」を「罪」に変更)

 

〔は、これ〕を認めなければならない。だが、罪を見つめてはいけない。

 

罪を認めずに、人は罪を脱(だっ)することはできない。〔しかし、〕罪を見つめる時、〔人は〕罪に捕(と)らえられる。

 

罪を認めず、〔その結果、〕罪の中に死ぬ者が多い。〔他方、〕罪を見つめて、〔罪の虜(とりこ)となり、〕罪に殺される者が少なくない。

 

悔い改めは、悔いのない救いを得させる悔い改めでなくてはならない。死に至らせる悔い改めであってはならない(コリントⅡ 7:10)。

 

は、これ〕を認めなければならない。そして、ただちにキリストの十字架を見つめなくてはいけない

キリストは、我々(われわれ)の罪をご自分の十字架に釘(くぎ)づけてくださった〔からである〕(コロサイ2:14)。

 

キリストの十字架を見つめるとき、罪は罪として存続せず、恩恵に変わって我々の心に臨(のぞ)む。

 

キリストの十字架。〔我々の〕罪は十字架上に〔明らかに〕認められ、 〔そこで〕罰せられ、赦され、恩恵に変えられた。

 

我々が十字架を仰(あお)ぎ見るとき、罪はその苦(にが)さを除かれ、恩恵の蜜に変えられて、我々に喜びを与える。

 

(あま)が下に、キリストの十字架のごとく、罪を完全に処分するものは〔存在し〕ないのである。

(信12・78 下線は引用者による)

♢ ♢ ♢ ♢

【4月7日】神に行きづまりはない(行きづまりからの脱出法)

あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。

 

神は真実である。

 

神は〕あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、〔必ず〕それに耐えられるように、のがれる道も備(そな)えて下さるのである。

(コリント第一 10:13 口語訳)

 

神に行きづまりはない

 

行きづまりは人間のことであって、神のことではない。

 

神が時々、人を行きづまらせるのは、人が神によって新たに運命を〔切り〕開くためである。

 

神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めた(ローマ書 11:32)とあるとおりである。

 

人が自分で自分を助けることができると思っている間は、〔人は、〕次第次第に窮境(きゅうきょう、注1へと追いつめられる。

 

だが、ひとたび自分に〔は〕助けがないことを悟り、上を仰いで神の助けを祈り求めれば、恩恵の道は彼の前に開けて、彼は無限の神の園に無限の自由を楽しむようになる。

 

この貧しき者が呼び求めると〔、神〕ヤハヴェは〔叫びを〕聞かれ、そのすべての苦しみから救い出された(詩編 34:7、関根正雄訳)とあるとおりである。(信24・211)

 

注1 窮境(きゅうきょう)

動きのとれない苦しい立場。追いつめられてどうにもならない立場。

♢ ♢ ♢ ♢

【4月8日】神は正義である

主よ、わたしの義(ぎ)と、わたしにある誠実とに従って、わたしをさばいてください。

 

どうか(あ)しき者の悪を断ち、正しき者を堅(かた)く立たせてください。

 

義なる神よ、あなたは人の心と思いとを調べられます。

 

わたしを守る盾(たて)は神である。神は心の直(なお)き者を救われる。

(詩篇 7:8~10 口語訳)

 

神は正義である

ゆえに〕神は必ず、正義をこの世界に行われる。

 

しかしながら、いつ、どのように〔神が〕正義を行われるかは、我々人間が〔あずかり〕知るところではない。

 

正義遂行(すいこう)時と方法とは、ひとえに神の意中(みこころ)に在(あ)る。

 

それを知りたいと願っても、我々〔、人間に〕は知ることはできない。また、知ろうと焦っても、ただ僅(わず)かに己(おのれ)を悩ますだけである。

 

信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ〔目で〕見ていない事実を確認することである(ヘブル書 11:1)

 

深く神の正義を信じて〔希望を保ち、〕静かにその遂行を待つのが、キリスト信徒たる者に相応(ふさわ)しい生涯である。

 

(原著「正義の信仰」1904年、信7・134)

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【4月9日】奇跡は学理の問題ではない

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【4月10日】神を知る道

わたしパウロは、〕キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。

(ピリピ書 3:10~11 口語訳)

 

苦痛(あ)うの〕は天罰(てんばつ)であると言う者は、誰か。前世(ぜんせ)〔の悪行〕の報(むく)いであると言う者は、誰か。

 

我々キリスト〕信徒にとっては、苦痛は〔むしろ、〕最大の恩恵である。

 

なぜなら苦痛は、〕キリストを知るための唯一の道〔だから〕である。彼と同情を交わす唯一の方法〔だから〕である。

 

苦痛の階段を辿(たど)ってこそ、我々は父の聖国(みくに)に入ることができるのである。

 

この宇宙においては、十字架の道を除いてほかに、キリストを知り、神を知り、永遠の生命(いのち)に至る道はない。

だが、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)の日に、人はキリストの呼びかけに容易に耳を傾けない。〕

 

それゆえ、来たれ、苦痛〔よ〕、わたしはお前を歓迎する、である。

(原著「神を知るの道=苦痛」1915年、信18・147)

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