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君の名は、故・矢内原(やないはら)忠雄先生(1893-1961、内村鑑三門下の無教会キリスト者、元・東京大学総長)の個人信仰雑誌『嘉信(かしん)』からとったものです。

「嘉信」は、「良い知らせ」という意味です。

矢内原先生は、「嘉信」を「神から人間に送られた喜びの知らせ」という意味で使いました。

『嘉信』が発刊された時代は、日本の国が日中戦争からアジア・太平洋戦争へと向かい、国中が戦争熱に浮かされて、情報統制によりほとん)どの人がこの戦争を「聖戦(せいせん)」と信じて疑わない時代でした。

しかし当時、東京帝国大学経済学部教授だった矢内原先生は、この戦争が「国家の理想」を裏切り、自国の利益のために他国を踏みにじる「不義(ふぎ)の戦争」であることを見抜き、かならずや神の厳しい審判(徹底的な敗北)を招くことになると警告し続けました。

国家と為政者(いせいしゃ)を厳しく批判したため、先生は大学を辞職させられましたが(いわゆる「矢内原事件」)、自宅の集会で少数の青年たちに聖書の真理を語り、新生日本建設の備えをしました(注1)

アジア・太平洋戦争敗戦後、新制東京大学に復帰した先生は、大学教授・総長としての忙しい生活の合間を縫(ぬ)って、日本国中を講演して回り、敗戦に傷に打ちひしがれる人々に慰めと希望の道語りかけました(注2)

それらの講演は、先生の聖書講義とともに『嘉信』に掲載され、全国の教友に読み継がれました(岩波書店『矢内原忠雄全集』に収載)。

時代の空気に流されやすい精神風土の中にあって、ものごとの本質を見抜き同胞に危険を警告するとともに、希望の言葉を語ること。

 

それはとてもむずかしいことだけれど、そこに命をかけた日本人が確かにいた。

このことを心に刻(きざ)んで、君の時代をしっかり生き抜いてほしい。

そのような思いを込めて、1999年5月、君の名は嘉信(よしのぶ)と命名されました。

2004年2月5日記す

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注1 『嘉信(かしん)

1938(昭和13)-1961(昭和36)年刊行。

1938年、大学を去って野に出た矢内原が第一にしたことは、『嘉信』の発行であった。この伝道雑誌は、1961(昭和36)年まで続けられた。

嘉信』創刊の辞(じ)で、彼は次のように述べている。

「私が信仰に基(もと)づく自分の言論および生活態度のゆえに大学教授の地位を失うに至ったことは事実であるけれども、伝道もしくは聖書研究に従事することを目的としてこの地位を棄(す)てたものではない。

 

私は職業的〕宗教家になりたくない

ただこれまでに比し身分も時間も自由になったから、一人の平(ひら)信徒として啓示(けいじ)される神の愛と知恵を、いっそう広く、深く、かつ豊かに人々に分(わ)かちたいと願うのみである(『矢内原忠雄全集』17巻80項)。

矢内原が「平信徒として」というのは、宗教活動を職業とするのではなく、この世にあって職業を持つ者として、ということである。

神の愛と知恵」とは、その職業(天職)の中での具体的な課題との取り組みの中で、彼に(神から直接に)啓示されたものである。

矢内原は学問研究者にふさわしく、聖書を正確に読むことを努めていた。

 

しかし彼は、聖書学者のごとく些末(さまつ)な議論や研究に深入りすることはせず単純な心で素直に〔、各文書の〕聖書記者の言葉に耳を傾け、むしろその記者の置かれた状況を知り、その立場に身をおいて、記者の心(ハート)に迫ろうとした。

矢内原は聖書の信仰によって自分自身の戦いを戦い、その体験によって信仰の把握を深めたのである。

嘉信』の内容では、量的にも質的にも重きを占(し)めるのは、聖書講義である(「マルコ伝によるイエス伝講義」、「詩篇」、「ロマ書」、「ガラテヤ書」、「コリント前後書」等)。

嘉信』各号の巻頭(かんとう)に掲(かか)げられる短文は、彼の思想の凝縮された表現であり、祈りであり、であり、しばしば激烈な預言(よげん)となっている。

初期の短文によって、『嘉信』執筆における矢内原の姿勢を見ることができる。

「イエスのごとく、屈託(くったく)なく自由でありたい。

イエスのごとき毅(つよ)き心をもって、悪に対立したい。

たとい無言(むごん)であっても、わが顔を右にも左にも曲げず、真っ直(す)ぐに悪を見すえていたい。

 

イエスのごとく柔らかな心をもって、罪人(つみびと)、病者、貧者、孤児、寡婦(かふ)、すべての虐(しいた)げられた者の友となりたい」(全集17巻81項)。

「『嘉信』の言葉は、春の太陽の光のように少しの隙間(すきま)からでも射し込んで、暗い人の心を暖(あたた)めたい。

 

清冽(せいれつ)な地下水のように、岩の裂け目、砂の間からでも浸(し)み出て、荒(すさ)んだ人の心を潤(うるお)したい。

 

希望なき人の希望となり、自由なき世の自由となり、正義なき世界の正義となりたい(全集17巻86項、一部表現を現代語化)。

矢内原の戦闘は、聖書を媒介(ばいかい)として彼の心に与えられた神の言葉、その底にある神の義(ぎ)、神の経綸(けいりん)の立場に立ち、心をつないでの戦いであった。

彼は、その高みから現実を洞察(どうさつ)し、展望し、神の生命(いのち)に生かされて語ったのである。

それは、旧約聖書にあらわれている預言者の生き方であり、イエス・キリストの生き方であった。

神の預言者キリストの使徒(しと)として立てられたという自覚は、戦いの体験を通して、矢内原の内に次第に明確になって行った。

矢内原は、師である内村鑑三、友にして先輩である藤井武(たけし)と通底(つうてい)(注3)悲哀(ひあい)を知る人であった。

​(参考文献:西村秀夫著『人と思想シリーズ・第2期 矢内原忠雄』日本基督教団出版局、1975年、「第6章 戦時下の戦い(二)- 野に立つ預言者  -」169~175項。『岩波 キリスト教辞典』岩波書店、2002年、1130~1131項。( )、〔 〕内、下線は補足 )

注2 (なぐさ)めと希望のことば

以下は、その一つである。

信仰に生きる021矢内原忠雄〖南の川のごとくに〗

注3 藤井武(ふじい たけし)

評伝001【藤井武】

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