信仰と人生

信仰に生きる 012

2019年3月9日改訂

矢内原忠雄

 〖かなしみ〗

〔- いのちへの門 -〕

 

〔1-①〕
悲しみの無い人生は、晴天続きの都会のように、乾燥しすぎて埃
(ホコリ)が立つ。〔実に、〕悲しみは、人生のうるおいです。

 

悲しみに(うるお)されて〔初めて〕、人は永遠を思います。悲しみは、永遠の〔世界を垣間(かいま)見る〕窓です。

悲しみから見た人生に、永遠の薫(かおり)があります。

この世にこびり着いて離れ難(がた)人の目を神に向け、永遠に向けて開くものは、悲しみです。

 

悲しみの無い人は俗人(ぞくじん)である、と躊躇(ためら)わずに申しましょう。

 

もし人の人たることが永遠を慕(した)い、永遠の生命(いのち)を得(え)ることにあるとすれば、悲しみは人生の祝福です。

イエス様の言われたとおり、悲しむ人は幸(さいわ)いです。その人は天国を見ることができ〔るからであり〕ます。

 

〔1-②〕
しかし悲しみは、求めて来るものではありません。〔本来、〕人が願うものは喜びであって、悲しみではありません。

 

悲しみを悲しみのゆえに求めるのは、不健全な人生観です。不自然な耽美(たんび)的感情(注1)です。

悲しみは求めるべきものではなく、また、求めて〔やって〕来るものでもありません。

 

〔1-③〕
そうではなく、悲しみは、人生の事実〔なの〕です。避けがたい事実として、人〔のところ〕に来るものです。

 

人は悲しみを避けたいと願いますが、悲しみ〔の方〕が人〔のところ〕に押し寄せて来るのです。

悲しみは、人が求めて得たものでなくて、神が人に与えられる苦杯(くはい)です。

 

ですから、この悲しみが人生の潤い、永遠の窓〔であり〕、人間を〔真に〕人間らしくするものであるとすれば、このことは、人が求めて得た効果では全くなく、神が与えてくださった恩恵であることが分かります。

 

幸福は〔もともと、〕人が追求するものですから、幸福が得られた場合、〔それが実は〕神の恩恵による〔ものだという〕ことが、人の〔幸福追求の〕努力の蔭(かげ)に隠されやすいのです。

 

しかし悲しみは〔本来、〕人の求めないものですから、悲しみの〔結果もたらされた、思いがけない〕祝福は全く神の恩恵である〔という〕ことが明瞭〔となるの〕です。

神の〕すべての善き賜物(たまもの)の中〔でも〕、神の恩恵性は、悲しみについて最も明瞭〔に顕(あらわ)れるの〕です。

 

〔2-①〕
自分の悲しみは自分にとって〔は〕祝福であるとしても、他人の悲しみは自分にとって何でありましょうか。

 

人は他人の悲しみを見て、これに同情します。

しかし同情している間は、なお、私たちの心に余裕があります。〔この場合、〕彼と私とは離れた存在で〔あって〕、私は彼の苦しみを〔あくまでも〕外から見ているのです。

 

人の悲しみに対して〔心から〕同情するのは美しいことですが、それ〔だけ〕ではまだ誠実さが充分でないと言えば、はたして、それは言いすぎでしょうか。

 

〔2-②〕

他人の(はげ)しい悲しみをジッと見ていれば、その厳(おごそ)かな人生の事実の前に私たちは悲しみ懼(おそ)れて、己(おの)れの囗に手を当て〔て、沈黙せ〕ざるをえません。

それ(悲しみの事実)は、私どもが同情するには、あまりに大きな事柄〔だから〕です。

 

そして、〕私どもは、彼に同情を表す〔だけの〕価値のない者であることを感じ〔るのであり〕ます。

 

同情」と言うとき、同情〔する〕者は常に、同情される者に対して一段、豊かな位置に立っております。

しかし深刻な苦しみに陥(おちい)っている人に対して、私どもは、〔一体、〕どんな同情の余裕と豊かさとを持つことができる〔というの〕でしょうか。

そこには、人生の悲しみが一つの不可解(ふかかい)な事実として体現(たいげん)されております。

 

何のために彼は、こんなにも苦しんでいるのだろうか。

自分は彼を慰(なぐさ)めたいと願う。しかし彼は自分の慰めを必要とせず、〔また、〕自分は彼を慰めることができない。

 

彼の苦しみと〔、慰めようとする〕自分との間に、どんな関(かか)わりがあるのだろうか。

 

こうして悲しみの人の忍苦(にんく)の生涯をジッと見つめると、〔彼の〕この不可解(ふかかい)な苦痛の生涯の原因は、意外にも、彼に同情を表したいと願った〔この〕私ども自身の罪であると感じさせられ〔るのであり〕ます。

 

彼、悲しみの人自身は、この悲しみ〔のできごと〕によって永遠を慕うでしょう。

しかし神が彼をこれほどまでに悲しい苦しみの境涯に置かれる〔そ〕の〔理由〕は、〔実は、〕彼以外の者の罪を彼が身に〔背〕負って苦しんでいるのではないだろうか。・・

彼が〔私に〕代って苦しみ、私の罪を贖(あがな)って〔くれて〕いるのではないだろうか。

 

およそ、このようなこと(感慨)は、自分の愛する者が長く苦痛の生涯を忍び、我々は〔彼の〕傍(かたわ)らにありながら何の手助けもできず、手のくだしようもなく、ただジッと見ているほかない場合に、我々が、しばしば、直感的に想わされるところです。

 

(ただ)しい人の苦しみは、我々に代っての苦しみであり、それはまた、我々に代って〔義人が〕我々の〔罪の〕贖(あがな)いを成し遂(と)げ〔てくれてい〕るものだろう。

実に、この〕私の罪のために、彼が苦しんでいるの〔ではない〕だろう〔か〕。

 

これは人生の深刻な実験(現であって、また、深き真理がその中にあるように思われます(注2)

 

〔2-③〕
ヨブの三人の友人は、ヨブが言い知れぬ苦難の境遇に陥ったことを憐
(あわ)れんで同情を表し、慰めの言葉を述べました。

しかしこれは、ヨブの心に何ら、訴え〔るものがあり〕ませんでした。

 

かえって彼らがヨブの外〔側〕に立ち、ヨブの上〔位〕に立ち、〔また〕ヨブよりも余裕ある豊かな〔立場の〕者として、同情がましい言葉を発したことに対して、ヨブは反発したのです。

 

人も自分も義人(ぎじん)であると認めていたそのヨブが、財産を失い、子を〔すべて〕失い、病(やまい)にかかり、人に捨てられ、天涯(てんがい)の孤客(こきゃく)として言いがたい苦痛の境地に陥ったのを、〔ヨブの友人たちは、〕7日7夜も彼と共に地に座って見つめた後で、「これ(ヨブの苦難)は、ヨブに何か秘めた悪事があるから〔彼を襲ったの〕だろう。

 

それを〔神の前に〕告白して悔い改めさえすれば、神の赦しを受けることができるのに〔。なぜ、ヨブはそうしないのだ〕」と、そんなことに考えの向いた彼らは、本当に誠実さの欠けた人間でした。

 

もし彼らが己(おの)れを知り人を知る誠実な人間であったなら、これほどまでに烈しいヨブの悩みを見つめている間に自分たち自身の罪に気づき、自分たちの代りにヨブが苦しんでいるのではないかということに心が向くはずでした。

 

それゆえヨブは、自分に代って贖(あがな)ってくださる救い主を待ち望む信仰を授かりましたが、三人の友人は全く神の真理を理解しなかったのであって、最後にかろうじて、ヨブの〔神への〕執(と)り成(な)しによって、自分たちの愚かさを神に罰せられずに済んだのです。

 

三人の友人が最後に〔神から〕教えられたところもまた、この代贖(だいしょく)の真理でした(ヨブ記42章8節)。

 

〔2-④〕
またキリストの十字架をあなたは、どう思われますか。

 

彼ほど正しい生涯を送った人はいないのに、彼ほど世〔の人々〕に〔受け〕容れられず不遇の生涯を送り、最後に酷(むご)い殺され方をした者はありません。

 

この《悲哀(ひあい)の人》の最後を見て彼を嘲(あざけ)り、「十字架から降(お)りてみろ〔、奇跡(きせき)を見せてみろ〕、そうしたら信じてやる」などと悪口を言った人間どもの、何と誠実さの無いことでしょうか。

 

キリストの最後(十字架)を見て、お痛わしい、お気の毒だと同情する者も、まだまだ、誠実さが足らない。

 

誠実な人間は、キリストの十字架の御苦痛(くるしみ)をジッと見つめていれば、彼がこれほど苦しまれるのは〔何か理由があるはずだ、それは〕私ども自身の罪のため〔なの〕だ〔〕ということに気づかされるのです。

 

それは、理屈ではありません。

我々の心が〔厳粛な〕人生の事実に直面したときの経験です。その経験における直感〔、インスピレーション〕です。

天来(てんらい)〕啓示(けいじ)です(注3)

 

〔2-⑤〕
キリストの十字架による贖罪
(しょくざい)の信仰は、福音(ふくいんしょ)に基(もと)づくものではなく、ただパウロの書簡(パウロ神学)に基づくだけのものである、などと言う神学者がいるという話です。

 

私は〔専門の〕聖書研究者でありませんから、聖書学者の〔学問的〕議論に加わる者ではありません。

ただ一人の人間として、〔私が〕考える事を〔率直に〕述べてみましょう。

 

〔2-⑥〕
イエスご自身の口から贖罪の原理の説明が多くなされなかったとしても、彼の十字架の事実は〔新約聖書の〕4〔つの〕福音書に明かに、しかも詳しく述べられています。

 

キリストはどうして、このような苦痛に曝(さら)されたのでしょうか。

キリストの〕十字架をジッと見つめて、その事をよくよく思いめぐらせば、我々の心は〔他人ごとのように〕彼に同情するなどという〔、心の〕余裕を持つことはできません。

 

またキリストは〔、最期まで〕父なる神の御意(みこころ)に従順であったなどと言って、感心〔し、外側から評価〕ばかりしていることは、もちろんできません。

 

苦痛を受けるべき理由の一つもない彼がこのような苦痛を受けておられのは、〔むしろ〕何か私ども自身〔の側〕に原因があるのではないか

私どもの罪の代りに、〔全く罪のない〕彼〔、キリスト〕が苦しんでおられるのではない〔の〕か〔〕。

 

これに気がつけば、この厳粛(げんしゅく)十字架の事実の意味が初めて、天来の啓示によって〔私どもの魂(たましい)に〕輝いてくるのです。

 

キリストご自身の教え〔の本質〕は愛であると言って、贖罪の信仰を否定、もしくは軽視する学者がいるそうですが、それなら〔ば〕、そのキリストの教えに従って、あくまで誠実にキリストを愛する心をもって、彼の十字架の御最後に注目してごらんなさい。

 

そうすれば、〕あなたの愛するキリストが、あのような死に方をしなければならなかったのは、彼の責任ではなく、実はあなた自身の罪の代りであることに気づくでしょう〔。

あなたの罪がキリストを十字架に追いやったことに気づくでしょう〕。

 

〔2-⑦〕
ですから、神の義
(ぎ)とキリストの愛と自己の罪を知る〔ほどの〕誠実な心のある者は、十字架による贖罪(しょくざい)の信仰を持たざるをえないのです。

 

パウロが誠実な心でキリストの十字架を見つめた時、彼の目から鱗(うろこ)のようなものが落ちて、はっきりとキリストが救い主であることが分かりました。

こうして、〕贖罪の真理がパウロに啓示されました。

 

贖罪〔の教え〕は、〔決して〕パウロの発明〔によるもの〕ではありません。

それは、〕誠実な人の心が経験する〔厳(おごそ)かな〕人生の事実に基づき、神が〔人々に〕啓示してくださる真理〔なの〕です。

 

キリストの生涯と死とを書き記(しる)した福音書に十字架の事実の記述は〔多く〕あるものの、贖罪の信仰の説明が少く、使徒(しと)たちの書簡にこの事実(十字架)の意味の理解、すなわち贖罪の信仰が溢(あふ)れていることは、非常に自然であって、少しも不思議ではありません。

その間に、何らの矛盾もないのです。 

 

キリストは、ご自身の十字架によって〔、すべての〕人の罪を贖(あがな)ってくださいました。

キリストは〔すべての〕人の罪〔を背負って、そ〕の代りに苦しまれたのでありまして、〔それにより、〕彼を信ずる者に永遠の生命(いのち)を与える救い主(ぬし)となられたのであります

 

これを一番よく信ずることのできる人は、自分自身の境遇に、またその心に、悲しみを宿(やど)す人々です。

ことに自分自身、長き病床にある人、または長き病床にある自分の愛する者を看護しなければならない人々です。

 

悲しみの経験ある人でなければ、《悲哀(かなしみ)の人》キリストを知ることはできません。

そして〔キリストによって〕永遠の生命を得ることが人生最大の幸福だとすれば、キリストを知ることがすなわち、最大の幸福なのです。

 

悲しみは、キリストを知る門〔、入り口〕です。ですから悲しみは、神の恩恵〔なの〕です

 

悲しみも苦しみも、今しばらくのこと〔です〕。やがて私どもは〔御国(みくに)で〕キリストの許(もと)に集められまして、〔目の〕涙をことごとく(ぬぐ)いとっていただくことでしょう。

その時こそ、私どもの歓喜は、少しの俗臭(ぞくしゅう)をも交えない、純粋無雑(むざつ)の歓呼(かんこ)であることができるでしょう。

 

ああ幸いだ、悲しんでいる人たち。〔かの日に〕慰めていただくのは、その人たちだから」(注4)

そう言われたイエス様のお約束は、その時、完全に満たされるでしょう。

 

それゆえ、〕悲しみの中にある兄弟姉妹よ、耐え忍んでその日を待ちましょう。感謝して、その時を〔待ち〕望みましょう。

 

♢ ♢ ♢ ♢

(『通信』5号、1933〔昭和8〕年3月を現代語化。〔 〕、( )内、下線は補足)

 

注1 耽美(たんび)

美を最高の価値と考え、美にひたり、ふけること 。

 

注2 愛する妻を天に送った矢内原の詩

詩歌006 矢内原忠雄〖春3月〗

 

注3  イエス・キリストの生涯を歌った讃美歌

讃美歌121番「馬槽(まぶね)の中に」クリックしてYou Tube

 

「馬槽(まぶね)の中に」

 

(歌詞) 
1
馬槽
(まぶね)の中に産声(うぶごえ)上げ
木工
(たくみ)の家に人となりて
貧しき憂
(うれ)い 生くる悩み
つぶさになめし この人を見よ
 
2
(しょく)する暇(ひま)も うち忘れて
(しいた)げられし人を 訪(たず)ね、
友なき者の友となりて
こころ砕
(くだ)きし この人を見よ
 
3
すべてのものを 与えし末
(すえ)
死の他(ほか)なにも 報(むく)いられで
十字架の上に あげられつつ
敵を赦しし この人を見よ
 
4
この人を見よ この人にぞ、
こよなき愛は 現
(あらわ)れたる
この人を見よ この人こそ、
人となりたる 生ける神なれ

 

(現代語訳)

1

〔最貧の〕飼い葉桶(おけ)の中に産声を上げ、
〔庶民の〕大工の家で人として成長し、
貧しさの悲哀
(ひあい)、生きることの悩みを
つぶさに味わった この人を見よ。

 

2

食事する間(ま)も忘れて、
抑圧
(よくあつ)と差別に苦しむ人々を訪ね、
友無き〔孤独な〕者の友となって、
〔彼らのために〕心を砕いた この人を見よ。

 

3

〔人々に己(おのれ)の〕すべてを与えた〔その〕結果、
死のほかには何も 報いられず、
十字架の上に 挙
(あ)げられながら、
〔なおも〕人々を赦した 〔驚くべき〕この人を見よ。
 
4

この人を見よ この人〔の生と死〕にこそ、
限りない〔神の〕愛が現れている。
この人を見よ この人こそ、
人となった 生ける神です。

 

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注4 マタイ福音書 5:4 (『塚本虎二訳 新約聖書』新教出版社、2011年) 

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