信仰と人生

信仰に生きる 019

2020年3月25日

矢内原忠雄

神の守りを感謝する

〖長寿と救い〗

詩編第91について

* * * *

1

詩編第91編は病気、ことに烈(はげ)しい伝染病(感染性疾患)、もしくは戦禍(せんか)その他の災難に際し、神の守りによって艱難(かんなん)を免(まぬが)れた者の感謝の歌である。

 

まことに主(ヤハヴェ)はあなたを救い出してくださる。

鳥を捕(と)る者の網(あみ)から
死に至
(いた)る疫病(えきびょう)から。

(詩編91編3節、聖書協会共同訳)


夜、脅(おびや)かすものも
昼、飛び来る矢も

あなたは恐れることはない。
〔暗〕闇に忍び寄る疫病も
真昼に襲う病魔も。
(5、6節)

 

これらの言葉は、戦禍とそれに伴う伝染病を指すものと解するとき、最もよくその意味が理解できるが、〔より〕一般〔的〕に病気、事故、災難等の経験〔を語った言葉〕として考えてもよい。

 

過ぐる日の〔アジア・太平洋〕戦争を通って来た者として、また度々(たびたび)の伝染病や、急性の病気、交通事故、地震・台風などの天災を経験した者として、〔われながら〕よくも様々な災禍を免れて今日まで生きながらえて来られたものだと思う。


これは全く、いと高き方(至高者)である神がわたしを守ってくださった恩恵によるのである。

寄らば大樹の陰(かげ)」という諺(ことわざ)が日本にあるが、「全能者の陰」に宿(やど)り、〔神〕ヤハヴェを「わが逃(のが)れ場(シェルター)、わが〔鉄壁の〕城、わがより頼む〔全知の〕神」とする者は、どのような災害、苦難も近づくことのできない絶対安全地帯にいるのである。

 

たとい夜には「脅かすもの」が勃発(ぼっぱつ)し、昼には「飛びくる矢」があっても、〔神〕ヤハヴェをれ場としている者に危険が及ぶことはない(1、2、9、10節参照)。


ヤハヴェを「逃れ場」とし、「住まい」とする比喩のほかに、この詩の作者はなおいくつかの美しい比喩(ひゆ)によって、神の守護(まもり)をほめ讃(たた)える。

第1は、〔親〕鳥が翼(つばさ)を広げて、その下に雛(ひな)を覆(おお)う譬(たと)えである。

 

(ヤハヴェ)〔その〕羽であなたを覆(おお)う。

あなたはその翼(つばさ)の下(もと)に逃れる(4節)

 

と歌われている。


第2は、知恵と能力(ちから)に富む道案内人もしくは守護者が一緒に歩いてくれるという比喩である。

 

〔まことに〕(ヤハヴェ)はその〔御〕使いたちに命じて、
あなたのすべての道を守られる。
(11節)

 

というのが、それである。


もし、猟人(かりゅうど)が道に罠(わな)を隠していれば、御(み)使いはわたしの手を引いて、それを避けて通らせる。

もしも、わたしの片足が罠(わな)にかかれば、御使いは直(ただ)ちに罠を解いて、わたしの足を救い出してくれる(3節)。


もし、わたしの疲れた足がよろめいて石につまずきそうになれば、御使いは熟練した登山の強力(ごうりき)のように腕を伸ばして、わたしを支えてくれる。

 

わたしは力と勇気を与えられ、御使いのあとについて、「獅子(しし)と毒蛇(コブラ)を踏みつけて、若獅子(わかじし)と大蛇(だいじゃ)を踏みにじって」進むことさえできるのである(12、13節)。


こうして、わたしたちは自分が知るときも知らない時も〔、常に〕神の守護(まもり)を受け、様々な危険を避け、災害から免れさせていただいているのである。

わたしたちを試みに会わせないで、悪い者からお救いください」(マタイ6:13)というわたしたちの祈りに応(こた)えて、神は様々な試練と危険の中にあって、わたしたちの安全を守ってくださったのである。

 

2

なぜ神は、これほどまでにわたしたちの安全を守ってくださるのか。

その理由を神自らの御言葉として、〔詩編〕作者は次のように歌っている。

 

彼は私(ヤハヴェ)を慕(した)〔その愛のゆえに私は彼を助け出そう。
〔彼は〕私の名を知っている。
〔その信頼のゆえに私は彼を守ろう。(14節)

 

神とわたしとの間にある愛と信頼の関係が、すべての中のすべてである。

わたしが神に全心全霊の愛を注(そそ)ぐがゆえに、神もまたわたしを助けてくださる。

それだけでなく、わたしを高い所に挙(あ)げ、神の栄光を冠(かぶ)らせてくださるのである(イザヤ書52:13参照)。


わたしが「天のお父(とう)さま〔!〕」とお呼びすれば、〔ただちに〕神は「ハイよ」と答えてくださる。

わたしが悲哀(かなしみ)と苦難の中にいる時、神もその中に(とも)にいてくださって、わたしを助け、わたしを救い出し、わたしに名誉(ほまれ)と栄光を与えてくださる(15節。注1)。


神はわたしを守って様々な災禍(わざわい)を免れさせ、長寿でわたしを満たし、かつ神の救いを示してくださる(16節)。

〔確かに、〕長寿は祝福である。しかし「〔神の〕救い」の伴わない長寿は〔かえって〕恥辱(ちじょく)と苦難の多い一生であって、決して幸福とは言えないのである。

 

キリストによる罪の赦し〔にもとづく神との和解〕と〔死を超克した〕復活の希望を与えられ、永遠の生命(いのち)の歓喜を知るに至って、初めて長寿の祝福は満ち足りる〔のである〕。

人に永遠の歓喜を与えるものは、キリストの救いであって、〔生物的な〕長寿ではない。

たとい短命の生涯であっても、「〔キリストの〕救い」を示され〔、与えられ〕た者は、それ〔だけ〕で満ち足りた祝福の生涯を送ったのである。


しかしながら〔なお、〕人生幾辛酸(しんざん)の中で、色々な危険から守られて長寿にまで生きることを許された者は、神の恩恵をそのことの中に認め、この詩の作者と共に神の御名をほめ讃(たた)える。

 

そして、〔赤子(あかご)の救い主・イエスに見(まみ)えた後、天に召された〕あのシメオン〔老人〕のように、「わたしの目が、今あなたの〔下された〕救い〔であるキリスト〕を見たからです〔。もう、思い残すことはありません〕」と言って、感謝して地上の生涯を閉じることができる(ルカ 2:30参照)。

 

キリストの救いによる復活の希望が、彼を、老いを知らぬ永遠の若者とする

 

〔私(ヤハヴェ)は〕長寿を授けて彼を満たし、
私の救いを
〔彼に〕見せよう。(16節)

 

と神が言われたのは、このことである。


 

♢ ♢ ♢ ♢

(『嘉信』第23巻・第5号、1960〔昭和35〕年5月を現代語化。引用聖句に応じ、一部表現を変更。( )、〔 〕内は補足、下線は引用者による)

注1 インヌマエル預言

歴史世界への神の御子(みこ)イエス・キリストの到来(来臨)により、インマヌエル(「神、われらと共にいます」)の真実は、成就した。

 

詩歌040前田智晶〖恐れないで〗

神学・論文E.ブルンナー〖キリスト教とは何か ①

2 なぜ、イエス・キリストを信ずるのか」

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