<信仰と人生

信仰に生きる 019

2017年7月15日

矢内原忠雄

〖長寿と救い〗

詩篇第91篇について

詩篇第91篇は病気、ことに烈(はげ)しい伝染病、もしくは戦禍(せんか)その他の災難に際し、神の守りによって災いを免(まぬが)れた者の感謝の歌である。

 

まことに彼(神ヤハヴェ)は君を鳥捕りのわなと
 滅びの穴から救い出される。
(91篇3節)


君は夜脅(おびや)かすものの前にも
 昼飛びくる矢にも
暗闇にとびまわる疫病にも
 真昼に荒らす烈しい病にも恐れることはない。
(5、6節 関根正雄訳)

 

これらの言葉は、戦禍とそれに伴う伝染病を指すものと解するとき、最もよくその意味が理解できるが、〔より〕一般〔的〕に病気、事故、災難等の経験として考えてもよい。

 

過ぐる日の〔アジア・太平洋〕戦争を通って来た者として、また度々(たびたび)の伝染病や、急性の病気、交通事故、地震・台風などの天災を経験した者として、〔われながら〕よくも様々な災禍を免れて今日まで生きながらえて来られたものだと思う。


これは全く、至高者である神がわたしを守ってくださった恩恵によるのである。

寄らば大樹の陰(かげ)」という諺(ことわざ)が日本にあるが、「全能者の陰」に隠れ、ヤハヴェを「わが避け所、わが城、わがより頼む〔わが〕神」とする者は、どのような災害、苦難も近づくことのできない絶対安全地帯にいるのである。

 

たとい夜には「脅かすもの」が勃発(ぼっぱつ)し、昼には「飛びくる矢」があっても、ヤハヴェを避け所としている者に危険の及ぶことはない(1、2、9、10節参照)。


ヤハヴェを「避け所」とし、「住まい」とする比喩のほかに、この詩の作者はなおいくつかの美しい比喩をもって神の守護(まもり)をほめ讃える。

第1は、〔親〕鳥が翼(つばさ)を広げて、その下に雛(ひな)を覆(おお)う譬(たと)えである。

 

(ヤハヴェ)はその羽で君をおおい、君はその翼のもとに避け所を得(え)る。(4節)

 

と歌われている。


第2は、知恵と能力に富む道案内人もしくは守護者が一緒に歩いてくれるという比喩である。

 

まことに彼(ヤハヴェ)はその使いたちに命じて、
 君のすべての道で君を守らせる。
(11節)

 

というのが、それである。


もし猟人(かりゅうど)が道に罠(わな)を隠していれば、御(み)使いはわたしの手を引いて、それを避けて通らせる。もしもわたしの片足が罠にかかれば、御使いは直ちに罠を解いて、わたしの足を救い出してくれる(3節)。


もし、わたしの疲れた足がよろめいて石につまずきそうになれば、御使いは熟練した登山の強力(ごうりき)のように腕を伸ばして、わたしを支えてくれる。

 

わたしは力と勇気を与えられ、御使いのあとについて、「獅子(しし)と毒蛇をふみつけ、若獅子と大蛇を踏みにじって」進むことさえできるのである(12、13節)。


こうして、わたしたちは自分の知るときも知らない時も〔、常に〕神の守護を受け、様々な危険を避け、災害から免れさせていただいているのである。

わたしたちを試みに会わせないで、悪い者からお救いください」(マタイ6:13)というわたしたちの祈りに応えて、神は様々な試練と危険の中にあって、わたしたちの安全を守ってくださったのである。

 

どうして神はこれほどまでにわたしたちの安全を守ってくださるのか。

その理由を神自らの御言葉として、作者は次のように歌っている。

 

彼はわたし(ヤハヴェ)に心を寄せるゆえに、〔その愛のゆえに〕わたしは彼を救う。
 
彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。(14節)

 

神とわたしとの間にある愛と信頼の関係が、すべての中のすべてである。

わたしが神に全心全霊の愛を注ぐがゆえに、神もまたわたしを助けてくださる。それだけでなく、わたしを高い所に挙(あ)げ、神の栄光を冠(かぶ)らせてくださるのである(イザヤ書52:13参照)。


わたしが「天のお父さま〔!〕」とお呼びすれば、神は「ハイよ」と答えてくださる。

わたしが悲哀と病苦の中にいる時、神もその中に一緒にいてくださって、わたしを助け、わたしを救い出し、わたしに名誉と栄光を与えてくださる(15節)。


神はわたしを守って様々な災禍(わざわい)を免れさせ、長寿をもってわたしを飽き足(た)らせ、かつ神の救いを示してくださる(16節)。


長寿は祝福である。しかし「救い」の伴わない長寿は恥辱(ちじょく)と苦難の多い一生であって、決して幸福とは言えないのである。

 

キリストによる罪の赦し復活の希望を与えられ、永遠の生命(いのち)の歓喜を知るに至って、初めて長寿の祝福は満ち足りる〔のである〕。

人に永遠の歓喜を与えるものは、キリストの救いであって、長寿ではない。

たとい短命の生涯であっても、「救い」を示された者は、それで満ち足りた祝福の生涯を送ったのである。


しかしながら人生幾辛酸(しんざん)の中で、色々な危険から守られて長寿にまで生きることを許された者は、神の恩恵をそのことの中に認め、この詩の作者と共に神の御名をほめ讃える。

 

そして、 〔赤子(あかご)のキリストに見(まみ)えた〕あのシメオン〔老人〕のように、「わたしの目が、今あなたの〔下された〕救い〔であるキリスト〕を見たからです」と言って、感謝して地上の生涯を閉じることができる(ルカ2:30参照)。

 

キリストの救いによる復活の希望が、彼を、老いを知らぬ永遠の若者とする。

 

わたし(ヤハヴェ)は彼を長寿をもって飽き足らせ、
 わが救いを彼に示そう。
(16節)

 

と神が言われたのは、このことである。
 

♢ ♢ ♢ ♢

(『嘉信』第23巻・第5号、1960〔昭和35〕年5月を現代語化。引用聖句に応じ、表現を一部変更。( )、〔 〕内は補足、下線は引用者による)

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